絆の形は十人十色

俺が最初、大学生活に抱いた印象は"自由"だった。退屈な現代文の授業もないし、余程のことがない限り生活態度を注意されたりもしない。工夫して空きコマを作れば、昼寝もできる。好きな事を学べて、嫌いな奴と関わることも少ない。高校までがいかに窮屈だったかを思い知った。

「はぁ〜」

ところが、例外もいる。カレーを掻っ込む俺の横で、萩原が盛大な溜息を吐いた。辛気くせぇな。飯が不味くなるから、他所でやれってんだ。てか、さっさと食えよ。麺が伸びるだろうが。盆の上に鎮座してるラーメンを見ながらそう思った。まあ溜息の理由は簡単に想像できるが、親身に話を聞く気にはなれない。

「食わねぇなら、俺が貰っちまうぞ」
「食べる。食べるよ・・・いただきまーす」
「お前…あいつの事になると、面倒臭さが倍増しだな。そもそも違う大学なんだから、最初から分かってた事だろうが」

萩原が俺の前で悩むのは、決まって苗字のことだ。勿論こいつだって人間だから、他のことに頭を抱える時もあるだろう。だが、少なくとも俺の前ではそんな姿は見せたことがなかった。あの女に出会うまでは。

「そうなんだけど!でももう2ヶ月だよ!?確かに俺は彼氏じゃないし、新生活が始まってお互い忙しいから仕方ないんだけど……せめて月一くらいで会えるかなって思ってたわけよ。それが早2ヶ月・・・もう無理。苗字のドライさが恋しい」
「連絡はしてんのかよ」
「4月の終わりが最後」

そこまで聞いて、眉間に皺が寄るのが自分でも分かった。むしろよく耐えた方だろ。褒めてほしいくらいだ。慎重なのは結構だが、いくらなんでも奥手すぎるんだよ。あの女と普通の恋愛なんてできるはずがない。このままじゃ、手こまねいてる間にタイムリミットが来ちまうぜ。

「だぁーー!うぜぇ!ちょっと貸せ!」

萩原のスマホを引っ手繰る。迷うのは分からないでもない。なにしろ相手が特殊だからな。なら俺が、横槍を入れてやろうじゃねぇか。どっちに転ぶかは知らない。そこまで気にしてやるほど世話焼きでもない。ギョッとする萩原の横で、開かれている通話アプリに思うままに文章を入力していく。

『元気?久しぶりに会いたいんだけど、来週で空いてる日ある?俺は特に用事ないから、苗字の予定に合わせるよ。時間があるときでいいから返事くれると嬉しいな』

こんなもんだろ。時間にして10秒弱。流石は俺。慌てて止めようとしてくる手を躱して、送信ボタンをタップする。ひょこっと現れた吹き出しを呆然と見つめた後、萩原がこっちを睨んでくる。なんだ、その顔。感謝はされても、怒られる筋合いはねぇ。

「消すんじゃねぇぞ。俺の好意を無駄にすんな」
「好意の意味調べてから言えって……ッ、既読付いちまったじゃねぇか!」
「そりゃよかったな。感謝しろや」

忙しい奴。いつもの余裕は一体どこに置いてきたんだよ。頭を抱える幼馴染を横目に、窓の外へ視線を移す。5月の終わりにしちゃ暑すぎるだろ。予報じゃ夕方は大気が不安定になるらしい。白い積乱雲が空を塗り潰すように広がっていた。隣から息を飲む気配がして、萩原のスマホを覗き見る。

「お、返事きたのか・・・・へぇ、良かったじゃねぇか。持つべきものは有能な幼馴染ってことだ」

画面には笑っちまうほど端的に答えが表示されていた。まずは誘いに対しての了承。それから空いている時間帯。最後に決まったら連絡してほしいと書いてあった。事務連絡かよ。

「本当に有能な人は自分でそんなこと言いません。でもまあ…ありがとな。やっぱお前は凄ぇ奴だよ」

我が耳を疑う。羞恥から言い返そうとした唇は、震えただけ。いつもの軽いノリじゃないと、萩原の横顔で感じ取ったからだ。隣の芝は青いとはよく言ったもんだな。絶対口にはしねぇけど、俺からすればお前の方がよっぽど凄ぇよ。たぶん萩原も、俺に対して同じ事を思っているんだろう。一人で完璧。そんな人間なんていない。なら、俺達はこれでいい。俺が出来ない事でも、お前なら出来る。逆もまた然り。隣にいりゃ、大抵の事は怖くない。凸凹でも繋ぎ合わせれば、それなりになるだろ。

──── 殴ってでも、目を覚まさせてあげて。

今のところ、その"大抵"をすり抜けてくる事象はただ一つ。俺は勿論、人付き合いが得意な萩原でも手を焼いている一人の女。雰囲気だけでも普通じゃないのに、言動でも他人を惑わせる。厄介な女だ。俺は別にあいつを女として見てなんかいない。そんな俺ですら、2ヶ月会わないだけで時々−−−マジで時々、無意識にその姿を探している瞬間がある。講義終わりの夕方、街灯に照らされた道。決まって溶けていきそうな時間帯や場所で、あの背中が残像みたいにちらつく時がある。だから多分、萩原はその比じゃないんだろう。よく正気でいられるもんだ。俺は付き合いが長いから分かるだけで、傍目にはいつも通りに映っているに違いない。俺がこいつの立場だったら、もっと荒んでいた自信がある。そもそもそんな焦ったい恋愛をするくらいなら、早々に見切りをつけるか、最初からアクセル全開で踏み込んでるぜ。それに俺はまだ、思考を乗っ取られるような恋愛をしたことがない。

「……こっちの台詞だっての、馬鹿野郎が」
「え、なんて?」
「何でもねぇよ。オラ、さっさと返事しろ。ちゃんと見ててやっから」
「いつからお母さんキャラになったの?」
「おし、一発殴らせろ。頭か腹か選べ」
「はは、冗談だって!」

そう、この顔だ。後になって思い出すのは、決まってこういう他愛ない瞬間ばかりで。萩原が苗字の事で悩んでいた記憶はあっても、その時どんな顔していたのかを、俺は憶えていなかった。本当にしんどそうな面はしていなかったのか、それとも忘れちまっただけなのか。どちらにしても確かなのは、あれこれ考えている時間も、萩原にとっては幸福で、意味があったってことだ。恋愛は機械と似ているのかもしれない。複雑で一筋縄ではいかないような相手の方が燃える。もし仮にそうだとしたら、苗字名前の右に出る女なんて、俺には思い付かない。

**

それから数日後。お呼びじゃない偶然が起きた。女に囲まれていた萩原をキャンパス内に捨て置いて、一人帰路に就く。平日の15時だから、人通りは少なめだ。赤信号で立ち止まり、欠伸をひとつ。僅かに滲んだ視界を整えるために瞬きをふたつ。その時、信号が変わる。足を踏み出し、顔を上げた。横断歩道の半分まで歩いた所で、逆側から渡って来た誰かとすれ違う。そして数歩進んでから、息を飲んで足を止める。

「ッ、あいつ・・・シカトかよ!」

振り向けば、あの後ろ姿。服と背中の間に棒でも入れているのかと思うくらいに真っ直ぐだ。小さく舌を打ち、たった今渡って来た縞模様を引き返す。そういや、凛々しい背中してるくせに、足音は不気味なくらい静かだったな。足跡を残さねぇように、そういう思いが表れているようで、気に入らない。手が届く距離まで近づいて腕を掴めば、そいつはやけに悠然と振り向いた。

「……松田?吃驚した。久しぶり、偶然だね」
「テメェ・・・どこに目付けてんだよ。たった今すれ違っただろうが」

ぜんっぜん吃驚って顔じゃねぇ。信号が点滅し始めるから、とりあえず掴んだままの腕を引いて、歩道に移動する。相変わらずの反応に、自然と溜息が漏れた。だがそのすぐ後で、意図せず持ち上がる口角に気が付いて、咄嗟に口元を隠す。ふざけんな。俺が嬉しいみたいじゃねぇか。

「気分でも悪いの?」
「頗る元気だこの野郎。てか、んなとこで何してんだよ?お前の大学、何駅か離れてんだろうが」
「今日はもう講義がないから、映画でも観に行こうと思って。あとついでに買い物も……なに?」
「いや、お前でも観たい映画とかあるんだな」
「まあ。一応人間だから、人並みの欲はあるよ」

つい「嘘つけ」と言いそうになったが、なんとか堪える。人並みの欲って、どこにあるんだよ。俺にも分かるように教えてほしいもんだ。思考が顔に出ていたのか、苗字は不思議そうに見つめ返してきた。そうして初めて、気付く−−−こいつ、化粧していやがる。同い年の女に比べればナチュラルな方だ。リップもアイシャドウも、控えめな色。誰かに魅せるためじゃなく、あくまで社会的なものだ。らしいな、と思った。

「そういえば……この前、萩原から変な連絡が来たんだよね」
「・・・変って、何がだよ」

俺が訊き返すと、苗字はスマホの画面を見せてくる。どうやら萩原のプライバシーは、この女にはどうでもいいらしい。まあ簡単に覗き込んだ俺も、人のことを言えた義理じゃない。そこには、予想通りの文章が並んでいた。ついこの間、俺がこの手で作り上げたものだ。

「これの一体どこが変なんだっての。普通だろ」
「いや、言葉遣いとかじゃなくて……直球すぎる気がして。萩原は、いつもどこか怯えてるみたいだったから。だから少し違和感があったんだけど・・・松田がそう言うなら、きっと気のせいだね」

驚いた。妙なところで鋭い。恐ろしい女だ。そう思いながら、笑った。俺が思っている以上に、萩原はこいつの心の深い所まで行っているらしい。だってそうだろ。この世界に興味のないお嬢さんが、違和感に気付いたんだ。上々じゃねぇの。

「怯えてる、か・・・そりゃ相手がお前だからだ。拒絶された時のダメージがデカいから、慎重になってんだよ。まあ、個人的には些か臆病すぎるとは思うけど。それだけ萩原にとってお前が特別だってことだろうが。未だに関わり持ってんだ。お前だって、あいつの事はそれなりに特別に思ってんだろ?」
「その問いには、絶対に頷けない。少なくとも松田の前ではね」
「なんだよ、それ」
「肯定したら、私は自分に課した契りを破ることになる。もし仮にそうだとしても、それを最初に伝えるのは貴方じゃなくて萩原。こんな人間だけど、それくらいの誠意は持ち合わせてるつもり」

毅然とした表情に、面食らった。おいおい、一体いつからそんな顔するようになったんだよ。喉の奥から込み上げてきた何かを吐き出すように、笑った。そんな俺を、苗字は眉を顰めて見ている。ああ、気分がいい。

「変な物でも食べたの?」
「ばーか。面白けりゃ笑うだろ、普通……あいつの努力が効いてきてるってことかな」
「どういう意味?」
「教えねぇ。んじゃ、行くわ。俺と会ったこと、ハギのやつに言うなよ」

軽く手を振って、信号に目を向ける。まだ、赤だ。

「あ、あと一つ。さっきの推理、当たってるぜ。あの文章、作ったのは俺だ」
「そう、なんだ・・・OKしたの、迷惑だったかな」
「ぶっ、んな訳ねぇだろ。折角だ、めかし込んで行けよ。面白いもんが見られるぜ」

首を傾げる苗字に、今度こそ背を向ける。青信号だぜ、ハギ。別にいつもが憂鬱なわけじゃねぇけど、こんなに晴れやかな気分は久しぶりだ。

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