君がいない世界など

6月最初の日曜日。結局、3時間しか寝られなかった。今日、約2ヶ月振りに苗字と会う。そもそもこれってデートなのか。スマホで検索をかけてみて、苦笑した。そこに記されていたのは『互いに恋愛的な展開を期待して』という前提条件。なら、やっぱりこれはデートじゃない。テレビから流れる声が、今日の天気を告げている。一日を通して快晴。天気には恵まれているらしい。15分前に待ち合わせ場所の駅前に着いて、辺りを見回す。

「(まだ来てない、か)」

俺も苗字も、大学に入って一人暮らしを始めた。だけど大学は別だから、住んでる場所も違う。電車で5駅の距離は、近いと言えば近いのかもしれない。心の距離はそれ以上だし。電車みたいなスピードで縮められたら楽なんだけどな。

「萩原」
「ッ、苗字!久しぶ……り」
「うん、久しぶり」

考え事をしながらも姿を探していたのに、気付けば彼女は目の前にいた。得意の笑顔で挨拶しようとしたけど、とても無理だった。黒のワイドパンツの裾が揺れる。ライトブルーのトップスから伸びた白い手首には腕時計。少し背が伸びたかと思ったら、ヒールの所為か。いやいや、それよりメイクしてるところ初めて見た。めっちゃいい。無意識に艶のいい唇に目がいきそうになって、慌てて視線を逸らす。

「どうかした?」
「え、いや……なんか制服姿を見慣れてるから、驚いちゃってさ」
「ああ、そういうこと。どこか変なのかと思った」
「変じゃない!!似合ってるし、可愛い・・・です」

全力で否定して、褒める。それすらも、さらりと出来ない。もっと上手くやりたいのに、彼女を前にすると何故かイメージ通りにいかない。格好いい男でいたいけど、たぶん一生無理な気がしてる。それに、スマートさを優先するのは違うと思うから。君の前では、ありのままの自分でいたい。

「よかった。ま…じゃなくて、友達に『めかし込んで行け』って言われたから、自分なりに頑張ったつもりだけど・・・そんなにオシャレに詳しいわけじゃないから少し不安だったんだ。だから、そう言ってくれて安心した。ありがとう、萩原」

ふわりと微笑むから、また心臓が締め付けられる。こりゃもう病気だな。てか、ありがとう、友達。心から感謝するぜ。あれ。今の発言はつまり、俺の為に頑張ってくれたと捉えていいのか。ちょっとは俺と会うのを楽しみにしててくれたってことだよな。やばい。舞い上がりそう。そんな自分を戒めるように軽く咳払いをする。気を取り直して、笑顔笑顔。

「どういたしまして。そんじゃ、行きますか。とりあえずランチかな。何か苦手なものある?」
「いや、特にない」
「なら、オススメの店に連れてくよ・・・えっと、あのさ、手繋いでもいい?」
「……前から思ってたけど、意外に真面目だよね」

差し出された俺の右手を見つめながら、鈴のような声音で苗字が笑う。意外にって、やっぱり彼女も俺のことを軽薄な奴だと思っているのだろうか。まあ実際、女の子に話しかけられれば嬉しいし、そう思われても仕方ない。反応に困っていると、彼女はまた微笑んで、俺の手を取った。ネイルもアクセサリーもしていない手は、滑らかで柔らかい。

「それって私にだけなの?」
「・・・どう答えても損する気がするなぁ。仮にそうだって言ったらさ、ちょっとは困ってくれる?」
「そうだね。たぶん、貴方にそうさせているのは私でしょ。かと言って、何か出来るわけじゃないし」

そう語る横顔は、どこか切なげだ。そんな顔しないでほしい。君は悪くなんてないんだから。俺が好きでやっていることだ。戯れに巻き込んだのは俺の方。臆病でいるのも、自分の為。こうして隣を歩いてくれることを、当たり前だと思いそうになるような男だ。それでも、傍にいることを許してくれた。今はただ、それに応えたいと思う。

「顔、上げて。苗字といる時の俺は、相当格好悪いと思うし、もっと上手く出来たらなぁっていつも反省してる。そういう自分はもちろん嫌いだけど、同時に結構気に入ってんだ。今までこんな風に誰かと付き合ったことがなくて、新たな一面発見…みたいな。だからさ、楽しいなら笑ってよ」

君の隣にいれば、いつかこんな自分も好きになれそうな気がする。臆病だって分かってる。でも、間違うのだけは御免だから。格好悪くても、情けなくても、失うよりはずっといい。

「萩原も自己嫌悪に陥ったりするんだね」
「そりゃするよ。てか、俺のこと聖人か何かだと思ってない?前も宇宙人とか言ってたしさぁ……苗字は?『こんな自分嫌だな』って思うことないの?」
「ない。ううん、なかった。自分のことは、好きでも嫌いでもなかった。他人みたいに思ってたから」
「過去形ってことは、今は違うの?」
「うん。萩原と会ってから、嫌だなって思うことが多くなって…このままだと、大嫌いになりそう」

マイナスな単語ばかりなのに、その声は少しも悲しそうじゃない。自分にすら無関心で今まで生きてきたのか。嫌いだと感じるなら、それは君が自分を認識できている証拠だ。その事実が、何かのきっかけになればいい。変わりたいと思うなら、いつだって手を引く。

「まだ、自分がどうしたいのか分からない?」
「……うん。でも、ちょっと変わったかな。あの時は心が騒ついて、上手く整理できなかったけど、今は…もう少し冷静に考えられる気がする」
「焦らなくていい。俺はずっと、ここにいるから」

この時、その言葉が大嘘になるだなんて、想像もしていなかった。かなり凄いことを言ったつもりだったけど、隣の彼女は小さく笑う。理由を尋ねるように見返すと、穏やかな表情で答えてくれる。

「たとえ何十年でも待ってくれそうだと思って。それは流石に忍びないなぁ……萩原の隣は心地が良いから、時間が経つのを忘れそうになる」
「お、いいね。じゃあ、爺さん婆さんになるまで期間延長しちゃう?」

冗談半分、本気半分の提案。それに言葉は返ってこなかった。ゆっくりと首を横に振って、俺の視線から逃れるように彼女は遠くへ目を向ける。俺もそれ以上答えを求めることはしなかった。ただほんの少し強く握り返された手だけで、充分だった。

「美味しい」
「そりゃよかった。前に陣平ちゃんと二人で来たんだけど…いやぁ、周りがカップルばっかでさ、辛いのなんのって。でもこうして苗字が喜んでくれたから、俺の苦労も報われたな」

フォークとスプーンを使って器用にパスタを食べる様子を、眺める。彼女は所作が綺麗だ。育ちがいいんだろう。おっと、こんなこと言ったら松田に怒られそう。あいつの食べ方は豪快だからなぁ。ドスの効いた声で振り向く幼馴染がチラついて苦笑した。

「この後、どこか行きたい所ある?」

なんとなしに尋ねると、彼女は一瞬考える素振りをしてから食器を置いた。思わず身構える。だって「何処でもいい」って言われる気がしてたから。勿論リクエストがあるなら、誠心誠意叶えますけども。

「海が見たい」
「・・・りょーかい、お安い御用。じゃあ横浜まで出ようか。苗字、高い所は大丈夫?」
「高い所?別に平気だけど」
「じゃあさ、観覧車乗ろうよ。ほら、知らない?海の近くにあるデカいやつ」

俺の提案に、彼女は瞬きを繰り返す。やば、もしかして子供っぽかったか。それともあれか、密室に二人きりが嫌とか。流石に恋人未満で襲いかかったりはしない……と思う。

「観覧車、乗ったことない」
「え・・・マジで?」
「うん。遊園地とか動物園とか、連れて行ってもらっても、あまり楽しめないような子供だったから」
「なら今日は楽しもうぜ。俺、頑張っちゃう」
「どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「んー、内緒」

そう返したら、少し不満げに眉を寄せる姿が愛おしい。だってさ、君の色んな"初めて"を一緒に経験できるんだぜ。そりゃ嬉しいでしょ。これからも、その相手はどうか俺だけであればいいのに。その全てに付き合うからさ。

「近くで見るとこんなに大きいんだ」
「お、驚いてるね。これからあの天辺まで行くんだぜ?心の準備はオーケー?」
「なんとか」
「よっしゃ。んじゃ、乗り込むとしますかね」

子どもみたいだ。可愛いなぁ、もう。手を引いて、歩き出す。そっと肩を抱いて、先にゴンドラに乗るように促した。細い肩だな。思いっきり抱きしめたら折れそう。女の子にしては背が高い方だと思っていたけど、俺と並べばやっぱり小さくて線が細い。きっと、そこにいる係員のお兄さんからは、恋人同士だと思われてるんだろうな。残念なことに違うんですよ。後から乗り込んで一瞬迷った結果、向かいの席に座った。

「今日は晴れてるから、絶好の観覧車日和だね。あっちが海で、向こうにはビルが沢山見える」
「思ってたよりスピードが遅い」
「はは、ジェットコースターみたいに動かれたら怖すぎでしょ。観覧車ってのは、景色を楽しむための乗り物だからね。速くちゃ駄目なんだよ」

自分で言ってて虚しくなる。リアルじゃ景色を楽しむ余裕も暇もない。俺と苗字の時間も、この観覧車くらいゆっくり進んでくれりゃいいのに。そんな事を考えながら、目の前の彼女を眺める。ゴンドラがどんどん高度を増していく。結構高い位置まで来ると、彼女は食い入るように遠くを見つめていた。さらりと落ちた横髪で、その表情が隠れてしまう。それに胸が騒つく。

「苗字」

名前を呼べば、彼女はこっちを見て首を傾げた。景色に嫉妬するとかヤバいな。苦笑しつつも、努めて明るく尋ねる。

「隣、行ってもいい?」
「どうぞ」

簡単に許してくれることが嬉しいのに、少し複雑。俺以外にもそうなのかな。一瞬そんな風に考えた。隣に移動して、さっきよりも近くでその肩を見つめる。そろそろ頂上だ。

「私は、小さいね」
「え?」
「ここから見える景色も、世界の一部。世界は大きくて広い。こんなちっぽけな人間ひとり、陽炎みたいに消してくれたらいいのに……ッ、萩原?」

それを聞いて、得体の知れない何かが、足先から頭の天辺まで駆け抜ける。気付けばその肩を掴んで、抱きしめていた。腕の中で、彼女が身体を硬直させる。ゆっくり後頭部を撫でれば、ふっと力を抜くのが分かって、堪らなくなった。嗚呼、ちゃんとここに居る。首元に顔を埋めると、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。道に咲いてる花みたいな控えめな香り。

「そん時は、俺も一緒に消してもらおっかな」

そう呟くと、彼女はピクリと肩を揺らした。卑怯で残酷な事を言っているのは分かってる。だけど、君のいない世界で息ができる自信がないんだ。それくらい俺は君のことが────、

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