光があると信じてた

彼女が無抵抗なのを好い事に、抱きしめた感触を味わい尽くした────髪の匂い。体温。柔らかな身体。ガタン、ガタンとゴンドラの規則的な振動音だけが響いている。何を思ってるのかな。もしかしたら、驚いて声が出ないのかもしれない。だとすれば俺は変質者と同じだ。

「どうして」

鼓膜を揺らした声が、聞いたことないくらい悲しげで、思わず身体を離す。肩を掴んだまま顔を覗き込むと、苗字は怒ったような、それでいて泣きそうな顔で俺を見つめていた。その表情に、息が詰まる。胸が締め付けられる。訳もなく「ごめん」と繰り返したら、笑ってくれるかな。

「お疲れ様でした……お客様?」

あれ、嘘だろ。もう一周したのか。ドアの外から、さっきのお兄さんが俺達を不思議そうに見ている。とりあえず降りないと。そう思って掴もうとした彼女の手は、無情にも俺の指先を掠めていく。それから一度も振り返らずに離れていく背中を、慌てて追いかけた。

「苗字!」

名前を呼んで、手首を掴んで引き止める。拒絶されるかと思ったのに、彼女は俺の手を振り払わなかった。そのことに安堵したのも束の間、振り向いた瞳に呼吸を奪われる────嗚呼、泣いている。涙は出ていなかったけど、そう思った。目元を歪めて、滲んだ声で彼女が言う。

ここが、痛い。苦しくて耐えられない」
「ごめん。それでも俺は、この手を放せない」
「…萩原、前に言ったよね。感情の理由を考えて、自分に教えてほしいって」
「うん」
「あれ、今やってみてもいい?何度もやろうとしたけど、ひとりじゃ上手くいかなかった。でも貴方が隣にいてくれたら、出来る気がする」

ついさっきまで震えていた声が一変して、凛とした響きを放つ。ずっと分かっていた。苗字は、弱くなんかない。だけどそんな君が今、俺を求めてくれている。応えずにいられるわけがないだろ。

「当たり前じゃん」

手を握り直して、辺りを見回す。少し遠くに見えたベンチを目指して歩き出した。別に田舎じゃないけど、息が詰まるような都会の空気とは違う、心地のいい風が頬を撫ぜた。建物の陰にあるベンチは、どこか寂しげだ。汚れてないことを確認してから座るように促せば、苗字は小さくお礼を言いながら腰を下ろす。幸い、人は疎らだ。俺も一人分間隔を空けた位置に座って、そっと手を放した。否、放そうとした。

「握ったままでもいい?」
「もちろん」
「……私、多分さっき、怒っていたんだと思う」

スゥと小さく息を吸ってから、真っ直ぐ前を向いたままで、苗字はそう零した。自分でも信じられないと、声音が語っている。確かに、彼女が怒っているところは数える程しか見たことがない。俺の言動に動揺したり、泣きそうになることは時々あったけれど。

「俺の言葉に対してだよね……無責任なことを言った自覚はある。けど、
「違う。卑怯なのは、私だよ」
「え?」

涙声で告げられた言葉の意味が分からなかった。怒りの矛先は、俺だと思っていたから。散々お節介を焼いた挙句、一緒に消えたいだなんて望みを口にしたんだ。お供なんて要らない、一人でいい。彼女なら毅然とそう言うだろうと思っていた。だけど、どうやら違うらしい。

「拒絶すべきだったのに。貴方の手を振り解いて、一人で行かなきゃならないのに……わたし、『どうして助けてくれないの』って、そう、思った」

一瞬、呼吸が止まる。空耳だろうか。俺の耳が馬鹿になっていないと仮定すると、彼女は今確かに「助けて」と、そう言った。信じ難い言葉に、思考が付いていかない。思わず凝視した横顔は苦しそうで、握る手に力が入る。まるでその行為が間違いだと語っているようだった。そんなわけない。手を伸ばすことが間違っているはずがない。苦しいなら、声を上げていいんだ。君が呼ぶなら、俺が絶対に助けに行く。

「心の奥底に、まだこんな思いが残っていたなんて知らなかった。もうずっと昔に消えたと思ってたのに…なんで今さら、主張するのかな……」
「気付きたくなかった?」

きつく目を閉じて、内で暴れる感情を抑制するように、彼女が胸を押さえる。俺の問いにそっと瞼を上げると、瞬きをひとつ。次に開いた瞳から、透明な雫が落ちた。音もなく頬を伝っていく。その様に、また心臓が変な音を立てる。誰かがこんな風に泣くのを初めて見た。静かで、綺麗で、彼女らしい涙。

「消したいよ。その方が苦しくないし、楽だから。なのに、それ以上にこの気持ちを尊く感じるの。理由はね、分かってる。これは、私ひとりじゃ芽生えなかったものだから────貴方が私にくれたものだから、こんなに大切で、離し難い」

まずい。油断したら、嬉しくて口元が緩みそうになる。泣いている彼女の横でニヤつくだなんて、端から見れば最悪な男だ。どう答えるのが正解かな。いや、言葉よりも抱きしめたい。そもそも、もうほとんど告白な気がするんだけど。たぶん当の本人はそんな自覚はないんだろう。横顔を見て、そう悟る。きっと、初めて抱いた思いに戸惑うのに精一杯で、咀嚼しきれていないに違いない。それを恋と名付けようだなんて、露程も思っていない。こうして傍にいたら、いつか気付いてくれるかな。そんな淡い祈りを込めて、頬を伝う涙を指先で掬った。前を見据えていた視線が、釣られるように俺に向く。

「嘘ついて、ごめんなさい」
「嘘?」
「私が観覧車で言ったこと。消えちゃいたいって、ずっとそう願いながら生きてきたから、癖になってるんだと思う。その所為で、貴方に心にもない事を言わせた。本当に、ごめんなさい」

繰り返される謝罪に、もどかしくなる。彼女は申し訳なさそうに、ゆるゆると視線を下げた。伏せた睫毛が小さく震えている。

「謝らないで。心にもない事なんかじゃない。あの言葉は俺の本心だよ」

そう告げると、彼女は弾かれたように顔を上げて、揺れる瞳で俺を見た。嗚呼、やっぱり特別だな。それなりに人に好かれる質だけど、しんどくなる瞬間が全くないと言えば嘘になる。まあ幸い俺は、そんな生き方が得意だし、嫌いじゃない。だから、彼女に出会わなかったとしても、上手く生きられた自信はある。だけど、一度触れてしまったが最後。忘れることなんか、出来やしない。

「すげぇ迷惑だろうけど…俺さ、苗字が居なくなったら、多分おかしくなっちまう。想像するだけでも狂いそうになるんだぜ。だから、もし君が消えるなら、一緒に連れて行ってほしいなぁって、思っちゃったんだよね……ごめんな」

俺の謝罪に、彼女は目を見開いたすぐ後で、ギュッと切なげに下唇を噛んだ。綺麗な瞳の中には、情けない男がいる。それなのに、そいつはどこか嬉しそうだ。笑っちまいそうになった。そこに映る瞬間だけ、俺はただの男に成り下がる。振り向かせたいのに、いざ向かい合うと上手く言葉が出てこない。

「だけど、違うんだろ?そんな優しさは要らないんだろ?一緒に歩きたいって、そう思ってくれてるなら────同じだよ、俺も」
「私は……ッ、

言葉を詰まらせる姿に、胸が温かくなる。その表情だけで充分だ。悩んでくれるだけで、いい。腕を掴んで軽く引けば、その身体は簡単に胸へと倒れ込んできた。

「大丈夫。すぐに答えを出さなくていい。俺は松田と違って気が長いからさ」
「散々待たせた挙句、私は貴方を傷付けるかもしれない。今までだって、たぶん無意識にそうしてた。それに、萩原なら他にいくらだって選択肢があるでしょう?なのに、なんで……」
「苗字が悩み抜いて出した結論なら、どんなものでも受け入れる。こう見えて俺、結構懐深いんだぜ。あと、選択肢なんて有って無いようなもんだし。どれを選んだって、結局君に戻ってきちまうんだ」

本当に、往生際が悪いなぁ。消えていきそうな時もあるのに、意外と頑固だ。苗字にそうさせているのは、彼女がずっと必死に守ってきた契り。それを壊そうとしている俺は、侵略者ってところかな。

「厄介な男に捕まっちゃったね」
「……それはお互い様じゃない?」
「はは、そりゃ光栄。捕まえてくれるの?」

厄介だって自覚はあるらしい。俺が笑えば、彼女も微笑む気配がする。離したくないな。このまま持ち帰っちゃいたい。そんな邪な事を思った瞬間、背中に腕が回されて、瞠目した。少し間隔があった身体同士が密着する。え、これ絶対、心臓の音聞こえてるよな。めっちゃ恥ずかしいんだけど。そう意識したら、暴れ回るみたいに鼓動が脈を打ち始めた。そんな俺の男心を弄ぶように、彼女は猫みたいに擦り寄ってくる。

「萩原の匂いがする」
「え・・・もしかして汗臭い!?」
「ふふ、違うよ。あったかくて、優しい、春の陽だまりみたいな香り……安心する」

おいおい、無意識でやってるなら相当だぞ。俺じゃなかったら襲ってる。こんないつ誰が通るかも分からない所で、盛る俺もどうなんだ。TPOは弁えてるつもりだけど、濁流のように溢れてくる欲望を、なけなしの理性で抑えるのが精一杯だ。喉の奥から、声にならない唸るような音が漏れる。獣かよ。

「萩原」
「ん?」
「図々しいけど、もう一つお願いしてもいい?」
「オウよ、何なりと」

身体を離して、言いにくそうに尋ねてくるから、ちょっと気取って返す。むしろもうちっと貪欲になった方がいいと思うし。でもその願望を叶えるのは俺だけでいい。他の奴らには絶対に譲らねぇ。

「悪癖を直したいの」
「悪癖……ああ、さっき言ってた」

彼女は言った。消えてしまいたいと思うことに慣れてしまったと。それを悪癖だと、気付いてくれたことが堪らなく嬉しい。

「それが叶ったら、この契りともお別れできる」
「そっか。んー、消えたくない理由を探す。言い換えれば、生きていたいと思う何かを見つける……なーんて、簡単に言うなって話だよな」
「生きていたいと思う何か……」
「苗字?どうかした?」

俺の言葉を復唱しながら、彼女はじっと見つめてくる。首を傾げた俺に、ふっと華やかに笑うから、益々謎だ。そんなこっちの心情を見透かして、彼女は目を細めて言った。

「別に。ただ、改めて探す必要はないかもしれないって思っただけ。今はまだ、そう断言できないけれど……たぶん、それはもう私の傍にある。いつか自信を持って言えるように、頑張ってみるね。今日は本当にありがとう、萩原」

段々と君が前向きになっていくのを、感じていた。その行く先を見届けたかったし、そのつもりでいた。笑い合う未来を信じられたあの頃が、今はただ懐かしい。

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