愛しき尊い絆達

夏休みに、松田と一緒に車の免許を取った。今までいくら好きでも法律上運転はできなかったが、これで晴れてドライバーの仲間入りってわけだ。

「なぁ、陣平ちゃん。苗字とドライブ行くなら、どこがいいと思う?」
「知るか。本人に訊け」

冷ややかな視線も何のその。これからの大学生活に期待を膨らませる。春は花見をしたいし、夏は海に行きたい。ああでも、彼女は人が多い所が苦手だから、夜にしようかな。秋はどこか紅葉が綺麗な場所、冬は寒さを理由に抱きしめる。やりたい事も、行きたい場所も、山程ある。

「ドライブ?」
「そ、都内を適当に。夜景がすげぇ綺麗なんだぜ」

大学1年の秋、初めてドライブに誘った。昼間は講義があったから、夕方に待ち合わせた。まだ自分の車は持っていないし、レンタカーなのは仕方ないけど、いつか好きな車に彼女を乗せて色んな所に行けたらいい。

「萩原、運転上手だね」
「お、嬉しいこと言ってくれるねぇ」
「全然揺れない。ハンドルを通して、萩原の人間性が伝わってくるみたい。安心して乗っていられる」

思わずブレーキを踏みそうになる。また涼しい顔でとんでもない事を言ってくるな。君と過ごす時間は、実に刺激的だ。心がいい意味で疲れる。

「んー、ちょっと複雑。いやさ、車じゃなくて、俺にも身を任せてほしいなぁって」
「充分助けてもらってるよ」
「え〜、冗談だろ。俺としては物足りない……苗字ってさ、もしかして甘えるの苦手?」

この頃やっと、普通に会話ができるようになった気がする。揶揄うのも、踏み込んだ質問も。彼女の前では得意の軽口が出てこなくて、優しいだけの男を演じてきた。だけど、そんな半端な覚悟じゃ何一つ変えられない。信号で停車して投げかけた問いに、隣で息を飲む気配がした。スッと肝が冷える。調子に乗り過ぎたかもしれない。おい、慎重さは一体どこに置いて来たんだよ。と、心で自分を責めた。

「苦手というか、やり方が分からない。今まで、そういう行為を必要としてこなかったから」
「成程ね。んじゃ、少しずつ練習しなきゃだな」
「練習すれば、出来るようになるの?」
「そうだなぁ……得手不得手もあるだろうけど、そこは心配しなさんな。俺、甘やかすの上手いから」

既に手遅れみたいな声を出すから、つい笑いそうになる。それを誤魔化すようにアクセルを踏んだ。手遅れなもんかよ。まだ充分、間に合うさ。手を引いて、他の奴らなんて抜き去ってやる。相手が俺である前提で返事をすると、ふっと空気が揺れる音がした。

「あ、今笑っただろ?」
「うん……私には難しい事を、すごく簡単な事みたいに言うから」
「それは……ッ、ごめん」
「ああ、違うの。責めたかったわけじゃなくて……貴方が言うと、そういう事も全て叶えられるかもしれないって錯覚しそうになる」

前を向いていても、どんな表情をしているのか分かる。また、あの儚げな顔で笑っているんだろう。ハンドルを握る手に力が入る。運転中じゃなかったら、衝動のままに掻き抱いていた。俺を含めた大多数が当たり前だと思うことを、一体これまで何度、諦めてきたんだろう。それとも、叶えようとすることすら、やめてしまったのか。

「窓、開けてもいい?」
「え・・・ああ、勿論」

突然そう尋ねられて、反応が遅れた。その声はもう、いつものトーンだ。目一杯まで開けられたウインドウから、風が入ってくる。運転操作と会話に気を向けていた所為で気付かなかった。いつの間にか今回のドライブの目的が、すぐそこまで迫っている。長い橋の上から観えるのは、光を散りばめたような夜景。それが、視界一杯に広がっていた。

「綺麗……今までも、私が見落としていただけで、こんな景色が沢山あったのかな」
「これからだって遅くねぇさ」

直線に入ってアクセルを強く踏めば、車が加速する。窓からの風も勢いを増した。ふわりと香るのは、彼女の髪の匂い。

「錯覚なんかじゃない。俺が全部、叶えてみせる」
「何か言った?」
「いんや、何も」

声に出すつもりのなかった決意は、その耳に届くことなく風に攫われていった。いいさ、別に。言葉だけを並べたって、成し遂げられなきゃ意味が無い。それに、不言実行の方が格好いいだろ。本当は言葉にしちゃってるんだけど、聞こえてないならノーカン。

「今度は電車で来てさ、歩いてこの橋渡ろうぜ」
「……そうだね。楽しみ」

今度は聞こえるように、少し大きな声を出した。数秒返事がなくて、一瞬焦る。だけど、ちゃんと答えは返ってきた。跳ねるような声音に嬉しくなって、口元が緩む。歩いて眺めれば景色をより楽しめる、なんて俺には当分無理そうだ。だって、彼女が隣にいたら、そんな余裕ないし。だから次来た時、俺の目に映るのは全部、彼女越しの景色だろう。

**

「苗字はさ、暑いのと寒いの、どっちが好き?」
「……どっちも得意じゃない」
「じゃあ今日は辛いでしょ?」
「まぁね。でも、文句を言ったところで春が早く来るわけじゃないから」

潔いねぇ。男のくせに暑いって騒いでる松田も、寒いって嘆いてる俺も、今の言葉で一刀両断。12月も終わりに近付いたある日、苗字と並んで夜道を歩く。街は年明けムードで浮かれている。その様子を眺める瞳がどこか羨ましそうなのは、きっと気のせいじゃない。そんな微かな変化に気付ける距離にいられることが、俺にとってはこの上ない幸福だ。

「いつだったかな、松田に言われたことがある。お前、春が似合わねぇなって」
「は……それ、いつの話?」
「明確には憶えてないけど、3年の春だと思う」

俺の記憶にないってことは、たぶん二人だけで交わした会話だろう。あの野郎、内容もふざけてるし、今度こそ許さねぇ。後で問い詰めてやろう。ところが彼女の次の発言に、そんな俺の思考は途中で停止させられた。

「松田には、萩原とは違った怖さがあるよね」
「え、顔とか?」
「ふっ、まあ否定はしないけど。そうじゃなくて、なんて言ったらいいかな……ナイフ、みたいな」

あまりに的確な例えだ。確かに松田はナイフのように鋭い────目付き、言動、勘の良さ。それは生まれ持ってのもので、あいつの長所でもある。俺は勿論、彼女もきっとそう認識している。そのことに胸が騒つく。恐怖すら独占したいと思うとか、どんだけ貪欲なんだよ。

「だけど今のところ、致命傷は負わされてない」
「え〜、嘘でしょ。俺から見たら、結構やられてる気がするけどな」
「いや、本当に。突き付けられた程度だよ。相手が萩原なら、容赦なく刺したんだろうね。松田にとって、貴方はそれだけ大切だから」

夜なのに、どこか眩しげに彼女は目を細めた。街の喧騒から少し離れた、人通りの少ない道。鬱陶しいくらいの賑やかさはもう聞こえない。よく知ってるよ。あいつの鋭さは、優しさの裏返しだってことくらい。

「萩原だって、そうだよね?松田が無茶をしたり、自分らしさを失いそうになったら、本気で止めるでしょ。貴方達のそういう関係は、とても尊いものだと思う。手放さないでほしい……そんなことを願うようになるなんて、想像もしてなかった」

手放したりしない。松田の親友であることは、俺の誇りだから。それは彼女が望もうが望まなかろうが、変わらない。だけど今の俺にとって、守りたい絆は一つじゃないんだ。

「俺が守りたいのは、松田との絆だけじゃないよ」

薄明るい街灯の下で立ち止まる。消えかかった光が照らすのは、直径1メートル程の範囲だけだ。その少し先の、暗い場所で彼女が振り返った。小さな唇が、不思議そうに俺の名を呼ぶ。どんな選択でも受け入れる、それが君の本心なら────とんだ大嘘吐きだ。行かないでと引き止めたいのに、抗うことの出来ない程の引力が、君を連れ去ってしまう。そんな最悪な予感が、消えない。

「どうしたの?」

佇んだまま、心配そうに尋ねてくる。駆け寄って来てくれないかな、なんて考えが頭を掠めるから、自嘲気味に笑った。受け身で手に入るものなんて、高が知れてる。踏み出した足は、思ったよりも軽かった。触れられるくらいの距離で覗き込めば、俺に焦点を合わせるみたいにその瞳が少し大きくなる。

「何処にも行かないで」

無意識に漏れた願いが、白い息になって宙へと舞った。拒絶されることへの恐怖半分、少しでも触れていたいという邪心半分で、細い肩口に顔を埋める。首に巻かれているベージュ色のマフラーから、彼女の匂いがした。このまま眠っちまいたいなぁ。

「萩原……」

困ったように名前を呼ぶから、胸がチクリと痛む。ほんと、正直だよな。ノリで頷いちゃえよ。「何処にも行かないよ」と、そう言ってくれるだけでよかった。だけど君は、守れない約束はしない。優しい嘘すらつかない。そういう女性だ。

「答えを聞かせてほしいって言ったのは俺の方だけど…俺もさ、君に伝えたい事があるんだ」
「そう……分かった。憶えておくね」

ゆっくり頷いて、微笑む気配がした。距離が近いから、いつもよりも声がよく聞こえる。ずっと、これくらい近くにいてほしい。触れた場所から、俺の思い全部、伝わっちまえばいいのにな。苦笑しながら大きく息を吸って、顔を上げる。

「帰ろっか」
「……そうだね」

何か言いたげに唇が震えたことに気付かないフリをした。苗字が言わないと判断したのだから、きっと不要なことなんだろう。心にかかった靄を払い除けるように、手を繋いだ。そこから彼女のアパートまでの5分間、会話はなかった。誰かといて無言だなんて、息苦しいだけだと思っていたけど、彼女の隣だとそうでもない。息遣い、足音、掌の温度。そういう、生きている音がひどく特別に感じるから。部屋の前まで送り届けて、手を振った。泊めてほしいと強請ったら、どんな顔するんだろう。なんか普通にOKしてくれそうだから怖い。そんで、無防備に眠る彼女の横で、俺は一睡もできないっていうオチ付き。

「送ってくれて、ありがとう」

苗字はよく「ありがとう」と言う。礼儀正しいと言えば、そうなんだろうけど、切なくなる時がある。だって全部、当たり前のことばかりだ。俺自身の為だと言ってもいい。そんな風に綺麗な笑顔を向けられるほど、立派なことはしていない。

「何のこれしき、むしろ俺の方が楽しんでっから。って、苗字?えっと……何してんの?」

少しささくれた心を誤魔化すように、いつもの調子で返事をした。そんな俺を見上げると、何か思い付いたように彼女はマフラーを解き始める。そして背伸びをして俺の首にそれを掛けると、微笑んで言った。

「首が寒そうだったから」
「あり、がとう。借りてていいの?」
「うん。代わりがあるから大丈夫」

まだ温もりの残るマフラーに、なんとも言えない気持ちになる。寂しくなったら、これに顔を埋めよ。俺がそんな変態みたいなことを考えているなんて、これっぽっちも思ってないんだろうな。

「帰り、気を付けてね」
「平気平気。こんな大男、滅多に襲われねぇって」
「そうじゃなくて、ほら、車とか」
「ああ、そっちか。了解…ちゃんと注意すっから、そんな顔しなさんな。着いたら連絡するよ」

やけに不安そうにするから、つい頭を撫でちまった。そっと手を離して、身体の向きを変える。最後に小さく手を振ってくれるから、笑い返して歩き出した。

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