難解は褒め言葉

年が明けてから、もうひと月が経とうとしている。冬休みは2週間以上前に終わった。構内のベンチでぼーっと空を眺めていると、聞き慣れた声が俺を呼ぶ。

「陣平ちゃん!んなとこで寝たら風邪引くぞ」
「うっせ、ちゃんと起きてら。てかお前が遅いのが悪いんだろ。また女か?」
「言い方!!ちょっと呼び出されただけだって」
「ふーん。ちょっと、ねぇ」

含みを込めて返事をしてやると、萩原は顔を引き攣らせた。こいつは常に、女の前じゃ鼻の下を伸ばしているような男だ。ただ苗字名前の前では、その余裕すらなくなるってだけ。まあ別に、俺がどうこう言うことじゃねぇ。こいつらは別に付き合ってるわけじゃない。そもそも、萩原が他の女と何をしていようが、苗字は嫉妬なんてしないだろう。

「あ…そう言えば、この前、苗字と陣平ちゃんの話になったんだけどさ。ナイフみたいだって言ってたぜ、お前のこと」
「……いや、意味分かんねーし」

重い腰を上げたところで、そんな事を言われた。なんだよ、ナイフって。相変わらず意味不明。動物とかなら分かるが、刃物に例えられたのは初めてだ。そんな俺の心情を感じ取って、萩原が笑う。

「そう?俺はすっげぇ適切な例えだと思うけど」
「どこがだよ。んで、そういうテメェは何に例えられたんだよ?綿飴とかか?」
「……そんなの、怖くて訊けるわけねーじゃん」

軽く投げかけた問いに返ってきたのは、弱々しい声。思わず立ち止まった俺を、萩原は苦笑いで見つめた。なんだよ、その顔はよ。まだそんな迷いがあったことに、戸惑う。初対面の相手なら遠慮も必要だろうが、あの女は例外だ。遠慮なんざしていたら、見失っちまう。

**

それから2ヶ月が過ぎて、あっという間に大学生活は2年目に突入した。萩原の様子に特段変化はない。敢えて上げるとすれば、苗字の事でうだうだ悩む回数が減ったように思う。訊いてもいないのにデートの話をされるのは変わらないが、その横顔は以前よりどこか穏やかで、俺の目にはそれが妙に不気味に映った。

「松田」
「な、なんだよ」
「今度のデート、お前も来い」
「……はあ?そりゃもうデートじゃねぇだろ」
「仕方ないだろぉ!苗字が松田に会いたいって言うから…俺は好きな子の望みは全部叶えるって決めてんの。たとえどんなに不本意な望みでもな。まあ、年一くらいは会わせてやらないでもない」
「どんだけ上からだよ。おい、忘れてるようだから言っとくが、お前は彼氏でも何でもねぇんだ。ちょっと懐かれたからって浮かれんな」

まるで恋人のように語り出すから、語勢を強めて釘を刺す。苗字が俺と会おうが会わまいが、こいつにそれを制限する権利なんざ無い。とんだ思い上がりだ。

「それに、だ。どんな望みでもは嘘っぱちだろ。あいつは、ひとりを望んだ。テメェはその望みをガン無視して傍にいる……どっか間違ってるかよ?」
「いや、何も────忘れちゃいねぇよ。俺のこれは、優しさなんかじゃない。ただの我儘だって、ちゃんと分かってるさ」

まただ。散々惚気た後にふと見せる顔は、奇妙なほどに穏やかだ。俺にはその表情の意味が分からなかった。何が起きようと受け止めると決めたのか。それともまさか、どこまでも一緒に行くつもりなのか。たとえそこが光のない場所でも。だとすれば、それは諦めだ。そんなのは救いでもなんでもない。

「ほら、この店だよ。苗字は先に入ってるって」

いつも通りのヘラヘラ顔で萩原が笑う。その背中を、重い足取りで追いかけた。店は落ち着いた雰囲気で、客も少ない。入って店員と話す萩原の横で、ぐるりと中を見回した。そしてすぐにその姿を見つける。窓際の席で、頬杖を突いている女がひとり。萩原の肩を叩き、顎で教えてやる。俺達が近付いても、視線を寄越しもしない。2メートルくらい離れた場所で萩原が苗字を呼ぶと、そいつはやっと振り向いた。

「ごめん、待った?」
「いや、そうでもないよ……松田、久しぶりだね」

我が目を疑う。この女、こんなに柔らかく笑えたのか。あのふざけた笑顔は一体どこいったんだよ。あまりの衝撃に佇む俺を、二人揃って不思議そうに見返してくる。こいつら、なんで恋人にならねぇんだ。訳が分からない。俺が苗字の向かいに腰掛けると、萩原は隣に座ってきた。いや、なんで野郎二人で並ばなきゃなんねぇんだ。狭い。

「あれ、もしかして…ふたりは卒業以来?」
「……そうだね。大学生の松田、なんか新鮮」

へぇ。嘘が上手くなったもんだな。5月に偶然会ったことを萩原には言うなと、俺がそう頼んだ。苗字はそれを律儀に実行している。変わっているが、こいつは素直で真面目な女なんだろう。

「安心しろって。中身はぜーんぜん変わってねぇから。幼稚で可愛い陣平ちゃんのままよ」
「誰が幼稚だコラ」
「そういう所だって。てか、可愛いは否定しないのな」

頭を撫でようとしてくる手を振り払う。その時ちょうど、店員が水を持って来た。コーヒーを注文して、思い切り息を吐く。この面子で何話せってんだ。頬が引き攣るのが分かる。ふと顔を上げると、苗字が愉快そうに笑うからさらに苛ついた。

「あれ、すげぇ嬉しそうじゃん。そんなにこの仏頂面に会いたかった?ジェラっちゃうなぁ」
「松田があんまり不機嫌そうだから。なのに、こうして来てくれるんだから、やっぱり優しいよね」
「勘違いすんな。暇だったからだっつーの」

精一杯の抵抗をしてみても、苗字は少しも傷ついた様子はない。それどころか笑みを一層深くしてくる。視線を合わせ続けるのが癪で、窓へと顔を逸らした。そして、今日何度目かの衝撃。そこに映った萩原は、見たことのない顔をしていた。いつも以上に目元を緩めて、苗字を見つめている。それを目にしたら、些細な苛つきは何処かへ消えた。

「おっと、電話だ。ワリ、ちょっと外すね」

軽く手を振って、萩原が外に出て行く。それを見送り、俺は苗字に声をかけた。次に会ったら、訊くと決めていた事がある。

「お前、俺のことナイフとか吐かしたそうだな」
「……気に障った?」
「いや、別に。俺がナイフなら、萩原は何なのかって思っただけだ」
「────毒、かな」

たった一言、そう呟いた。返って来た答えに、思わず顔を上げる。その瞬間、俺は自分を恥じた。単語だけを聞いて、悪い意味だと判断しちまったから。だけど、違った。顔を見れば分かる、真逆の意味だと。俺から視線を逸らし、窓の外を見る苗字の視線を追えば、電話をする萩原の背中。なんて顔しやがる。ふっと笑う横顔には、心底嫌いだったあの雰囲気は影も無い。本当に、厄介な女だな。

「こうして遠くから見てるだけなら何ともないのに、触れたり嗅いだりしたら、やっぱり駄目だね。もう、解毒できそうにない。心全体に回って、支配されていく。優しくて、温かくて……苦しい」

あまりに切なげな声色に、狼狽する。おいおい、本気か。そこまで分かってんのに、恋だって気付いてないのか、こいつは。俺より傍にいるんだ。萩原は勘付いているに違いない。ひょっとして、待っているのか。この女が認めるのを。有り得ねぇ。どんだけ懐深いんだ。言い訳をするが、褒めてない。正直、ドン引きしている。

「お前も、萩原にとっては毒だろ」
「流石は幼馴染。分かるんだ」
「ばーか。関係ねぇよ。第三者的視点だ」
「そっか。同じ毒でも、私は害毒だよ」
「……なら、いっそ混ざっちまえばいい。そうすりゃ中和されんだろ」

そう吐き捨てると、苗字は瞳を見開いて、呆然と俺の名を呼んだ。初めて見る顔だな。いっつも涼しい顔で、たまに静かに笑うだけ。こんな顔で驚いたり、大声で騒いだりしているところは見たことがない。

「私の毒性の方が強かったら、どうするつもり?」
「ないな。あいつは屈しない。そういう男だ」
「お待たせ〜…って、あれ。なーんか妙な雰囲気。さては陣平ちゃん、また余計なこと言っただろ?」
「俺は必要なことしか言わねぇ」

**

また季節は流れて、夏がきた。あれから苗字とは会っていない。萩原は頻繁に会っているらしい。態度で分かる。

「おい、陣平ちゃん。見てよ、これ!」
「んだよ……写真?」

夏休み。実家に帰省している時のことだ。調子の悪かった扇風機をバラしていると、萩原がやって来て写真を見せられた。

「そうそう、高校の時の。部屋整理してたら見つけてさ。したら、ほら!憶えてる?1年の体育祭、リレーの後に撮ったやつ」

そこには俺と萩原、それから苗字が写っていた。ああ、そういえば撮ったな。こいつは妙にハイテンションで、気持ちが悪かった。確かあの時からだ、萩原が苗字と呼び始めたのは。それは今でも変わっていない。

「なぁ、お前さ。なんで名前で呼ばねぇの?」
「……理由は3つ」
「はあ?そんなにあるのかよ」
「ひとーつ、今さらっしょ。に、普通じゃない感があって、らしいだろ。最後にさん……嬉しそうにするんだよね、苗字って呼ぶと。友達とかに名前って呼ばれた時より、さ」

萩原が名前と呼んだのは初めてのはずなのに、とてもそうは思えないくらい自然だった。もう何度も呼んだみたいに、慣れているような声色だ。

「お前、ひとりでいる時に練習でもしてんのか?」
「あれ、バレちゃった?心の中ではさ、いつも呼んでんだ。名前って。一緒にいると、たまに無意識に出そうになるから焦るわ」

はにかんで、萩原が言う。嬉しそうに、か。同じく苗字で呼んでいても、俺はそんな風に感じたことはない。つまり、あいつは苗字と呼ばれることが嬉しいわけじゃなんだろう。呼び方なんか関係ない。苗字にとって大事なのは、誰に呼ばれるかってこと。この幼馴染は目敏いくせに、テメェの恋愛にはどこか盲目だ。

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