真っ青な夏が滲む

9月。暦じゃ秋とか冗談だろ。日差しは暑いし、蝉だって大合唱している。歩けば汗をかくし、まだアイスは美味い。訂正、アイスは年中美味い。

「なーに見てんの?」
「ネットの記事。水族館がリニューアルされたんだって。子どもの頃、一度だけ連れて行ってもらったことがあるんだけど、よく憶えてないんだ」

懐かしそうに目を細め、どこか寂しげに彼女は言った。その手の中にあるスマホの画面に映るのは、千葉にある水族館。海の近くにあって、シャチとかイルカとかのショーで有名な所だ。

「行こっか、水族館」

自分のスマホで調べると、都内から直通のバスが出ている。車を出してもいいけど、バスの方が会話に集中できる。軽く尋ねたつもりだったのに、一向に答えが返ってこない。顔を上げて、また、心が揺さぶられる。

「行きたい」
「……了解。そんじゃ早速、プランを立てますか」

東京からだとバスで2時間。俺達の席は、正面向かって右側の列。横目で彼女の服装を再確認する────ワンピース。白い生地に、青い小さな花柄。フォーマルなパンツ姿も似合うけど、ワンピースもいいな。清楚だし、なんかデートって感じがする。隣に座っていても、彼女は窓の外に目を向けたまま。横顔には緊張なんて少しもないし、こんなに近くにいるのに、手は膝の上に置かれていた。手を繋ぎたいなんて、思っているのは俺だけだと痛感する。それでも、目を見れば楽しんでいるのが分かって、気付かれないように小さく笑った。鞄からイヤホンを取り出し、右耳に突っ込む。

「なに聴いてるの?」
「え…ああ、最近ハマってるバンド。歌詞も演奏も気に入ってんだ……聴いてみる?」

そう尋ねながらイヤホンを片方渡すと、彼女は綺麗な指でそれを受け取った。ワイヤレスじゃないから、互いに外側の耳にすると、必然的に身体が密着する。ああ、肘掛けが邪魔だなぁ。伏せられた睫毛、陽の光で透き通る髪、真っ白な頬。音楽なんて全く耳に入ってこなかった。

「綺麗な曲だね」

その言葉で我に返る。肩に回そうとしていた手を引っ込めて、無意識に近づけていた身体を勢いよく離した。その所為で思い切り背もたれに頭をぶつける。ガツンと中々の快音を響かせた後で、痛みが襲ってきた。

「いってぇ」
「ふ、はは……だ、大丈夫?」
「いや、笑い事じゃないっしょ。結構痛い……ッ、

思わず頭を押さえて身を屈めると、隣で楽しそうに笑うから、なんか負けた気がした。人の気も知らないで。抗議の意を込めて顔を上げようとしたのに、できなかった。左耳に何かが触れて、ゆっくりと優しい感触が、俺の髪の間を縫っていく。

「萩原の髪、サラサラだね……どうしたの?」

どうしたって、本気で訊いてんの。ほんと、そういう所だよ。求めてほしい時は手を伸ばしてこないくせに、なんでこういう時だけ簡単に触れてくるのかな。キョトン顔だしさぁ。音楽を停止してスマホごと鞄に放り、さっきまで俺の髪に触れていた手を掴む。

「ひと眠り。手、離すの禁止な」
「うん……お休み」

これ以上視線を合わせていたらキスしちまいそうで、目を閉じて言った。彼女はそんな俺の態度を咎めることなく頷いて、手を握り返してくる。敵わないなぁ、マジで。

「随分広いんだね。回り切れるかな」
「はは!地球一周じゃねぇんだから、そんな深刻そうな顔しなさんな。見終わらなかったら、また来りゃいいんだし。とりあえず正規ルートで回るとして、折角だからショーは見てぇよな……ま、時間は気にせず、ゆるゆる行こうぜ」

マップを広げて、心配そうに苗字が言う。人生の分岐点みたいな顔するから、可笑しくなる。もっと肩の力、抜けばいいのに。そう思うけど、難しいんだろうな。未だ不安げな瞳をしている彼女の手を取って、強く引いた。

「そうと決まりゃ、ほら!」

鮫、エイ、ペンギンにアザラシ。最初は俺が手を引いていたのに、いつの間にか彼女が一歩先を行っていた。目を輝かせて水槽を覗き込む姿に、自然と笑みが零れる。はしゃいでいるところ、初めて見た。

「……あ、クラゲ」

薄暗い廊下でそう呟くと、彼女は立ち止まった。丸型のガラスの向こうには、プカプカと沢山のクラゲが泳いでいる。変な生き物だなぁ。

「萩原は、クラゲには脳がないって知ってた?」
「マジで?へぇ……確かにただ浮かんでるだけに見えるもんな。何にも考えてなさそう」
「私……それを初めて聞いた時、クラゲになりたいって思ったんだ」

それがどういう意味なのか瞬時に理解した。悩みも苦しみも、幸せすらも捨てて、ただ生きる。そんなのは寂しすぎる。どんな言葉をかけるべきか迷ったのは一瞬だった。どうやら、そんなものは不要らしい。瞬きを一つして俺を仰ぎ見ると、微笑んで彼女は言う。

「でも今は、馬鹿だなぁって、笑い飛ばせる」
「苗字……」
「思考することをやめて、ただ流れに身を任せるのは、きっと簡単だし痛みも少ないんだろうけど……途轍もなく冷たくて、寂しいから」

心の奥底から、言いようのない感情が込み上げてくる。再び水槽に視線を戻し、彼女はどこか憐れむようにクラゲを見つめた。本当によかった。君が今、水槽の外にいることが、俺は堪らなく嬉しいんだ。暫く並んで眺めていたら、館内放送でショーの案内が流れてくる。

「名残惜しい?」
「ううん、全然」

そっと手を繋いで尋ねた。俺の問いかけに戸惑いなく首を横に振るから、また嬉しくなる。さっきのシリアスな雰囲気が嘘みたいに、ショーの会場まで他愛のない話をしながら歩いた。俺の冗談に目元を緩めて微笑む横顔を、ずっと見ていたいと思う。守りたい、彼女を苦しめる全てのものから。この手を一生、放したくない。欲望ばかりが溢れてくる。俺は一体いつまで、優しい男でいられるだろう。こんなにも貪欲な奴だと知ったら、彼女は幻滅するかもしれない。

「前の席にしようぜ。階段だから、気を付けて」
「うん、ありがとう」

先に下りて、エスコートする。この手を思い切り引いちまいたい。飛び込んできてくれたら、いつだって両手を広げて迎えるのになぁ。ショーが始まると、最初にイルカが出てくる。並んで泳いだり、高く飛び上がったり、中々に見応えがあった。他の観客と同じように、拍手をして夢中で見ている姿が愛しい。その時、一際大きな歓声が響き渡る。どうやらこのショーの目玉である海のギャング、シャチの登場らしい。好き放題泳ぎ回る様は、どこかの天パに似てる。

「なッ!?」

そんな呑気なことを思っていると、視界の中でその巨体が宙を舞う。マジか。あんなにデカいんだ。水面に落ちた時の衝撃は、考えなくても分かる。咄嗟に隣にいる苗字の肩を掴んで、頭だけでもと抱え込んだ。次の瞬間、大波みたいな水飛沫が襲いかかってくる。

「あっぶねぇ……大丈夫?」
「私は平気、だけど……大丈夫はこっちの台詞。ずぶ濡れなのは萩原の方だよ」

風呂上がりみたいに髪から水が落ちてくる。シャツが身体に張り付いて気持ち悪い。腕を緩めて尋ねると、彼女は眉をハの字にして真下から覗き込んできた。え、近すぎないか。予想以上の至近距離に、心臓が暴れ出す。

「いやぁ、水も滴るいい男でしょ……あれ?あのーもしもし、苗字さん?ここ、笑う所だぜ」
「ごめん、別に面白くないから笑えない」
「わぁ〜、急にドライ!」
「萩原は、水をかぶらなくたって綺麗だよ」

また真顔でぶっ込んでくるなぁ。掻き乱される。全てを曝け出してくれないのに、人の心には簡単に触れてくる。言葉はいつも真っ直ぐで、嘘がない。こういう所、あいつに似てるんだよな。好きな子に親友の面影を感じるとか、なんか複雑。別に、それが理由で彼女に恋をしているわけじゃない。だけど俺が、この手のタイプに弱いのは事実。自分と違うから、惹かれるんだ。いくら望んでも、俺にはきっと、彼女と同じものは一生見えない。でも松田は、目を凝らさなくてもそれが出来ちまう気がする。ふたりは似ているから。なら、この場所にいるのが俺である必要なんて、ないのかもしれない。

「−−わら、萩原!」

いつの間にかショーが終わって、周りの客達はもう席を立ち始めていた。歓声は止んで、家族連れや恋人同士の楽しげな会話が飛び交っている。それを引き裂くように名前を呼ばれて、我に返った。

「え……ッ、ごめん。ぼーっとしてた」
「もしかして疲れてる?それとも体調が、

いつも通りの笑顔を浮かべたつもりが、容易く見透かされる。たった一瞬の迷いの所為で、さっきまで純粋に楽しめていたはずの時間が、途端に色を変えた。まずい。波の立ち始めた心を、どうにか穏やかに保とうとするけれど、上手くいかない。気遣わしげに俺を映す瞳を見返すことができなくなって、腕に触れようとする手から距離を取った。その時の彼女の顔を、俺は一生忘れることはない。瞬時に誓う────これは、最初で最後の拒絶だ。二度とその手を拒むことはしない。

「ごめん、今の感じ悪かったよな」
「萩原は……どうしていつも謝るの」
「え?」

無意識だった。指摘されて初めて気がつくなんて、笑える。だって、謝罪以外に君を繋ぎ止める方法を俺は知らない。いや、違うな。それが一番安全だったからだ。選択を誤った時のセーフティネットとして、その常套句を準備しておく。今回だって、そうだ。本音を曝け出すより先に、謝った。拒絶の理由すら明かせずに分かり合いたいだなんて、傲慢にも程がある。

「いつも『ごめん』って言うでしょ。私は謝罪よりもッ……いや、なんでもない。今日はもう、帰ろ」

途中で言葉を切ると、苗字は手の甲で自分の口を覆う。謝罪よりも、なんだ。なんて言おうとした。聞き返されるのを拒むように立ち上がり、歩き出そうとする手を掴む。もしもこのまま帰したら、絶対後悔する。

「寄り道してもいい?」
「いいけど、どこに行くの?」
「海。さっきの行為の理由を、聞いてほしい」

いつだったかな。告白を断ったら、狡いと返されたことがあった。全くその通りだ。これじゃ立場が逆じゃねぇか。本当は俺が聞かなきゃならないのに、今の場所が少しでも揺らぐと、冷静じゃいられなくなる。必死に"苗字名前の特別"というポジションを守ろうとする。その為に気持ちを押し付けようとしているんだ。それが分かっているから、目は逸らさなかった。こんな、なけなしの誠実さしか、今の俺には無い。

「うん」

いっそ罵倒してくれればいいのに、やけに優しい瞳を向けてくるから泣きたくなった。どうして、そんな簡単に許しちまうかな。俺は、君が思うほど善良じゃないのに。

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