君の瞳に居させて

水族館を出る前に、ショップでタオルを買った。何故って、俺がずぶ濡れだったから。こりゃ良い商法だな。9月と言っても外はまだ暑いし、シャツはすぐに乾くだろう。少し乱暴に頭を拭いていると、前髪が落ちてきて視界が遮られる。折角のセットが台無しだ。軽く息を吐いて、目を伏せた。そのとき突然、額に何かが触れる。驚いて顔を上げると、その感触の正体は彼女の指だった。前髪を払われて、視線が交わる。

「どしたの?」
「萩原の瞳が見えないと、なんか不安になる」
「……そんじゃ、これでどう?」

額から後頭部へ髪を掻き上げて尋ねた。水分を含んでいるお陰で、落ちてくることはない。クリアになった視界の中で、苗字が満足そうに頷く。君の居場所は、この瞳にちゃんとある。

「どうだった、水族館」
「……すごく楽しかった。子どもの頃とは見え方が変わって、新鮮。また何年か経ったら、今日とは違う風に見えるのかな」
「かもな。また来ようぜ。んで、感想聞かせてよ」
「うん。その時は、萩原のも聞きたい」

海沿いの道を並んで歩く。ゆっくりと語る声が、弾んでいる。俺も楽しかったよ、君と一緒だから。いつからだろう。次を願えば、頷いてくれるようになったのは。その度に絆が強くなっていく気がした。彼女が想像する未来に俺がいることが、どうしようもなく嬉しい。陽が沈みかけた海岸に、人影は少ない。アスファルトの歩道から砂浜に下りる。段差があったから、手を貸そうと振り向いて、ぎょっとした。

「ちょ、何してんの!?」
「裸足になろうと思って。サンダルに砂が入ると気持ち悪いから」
「ぜってー駄目。ガラスでも落ちてたら大変だろ」
「綺麗な海岸だし大丈夫、
「いや、俺が大丈夫じゃないから。おし、それじゃあ二択で。1.砂浜には下りないでここで話す。2.俺におぶわれて歩きながら話す。どっちか選んで」
「……1で」

いや、二択目の時の顔よ。そんなに嫌そうにしなくてもよくないか。本気で言ったんだけどな。隠す気のなさに思わず吹き出した。車道から砂浜に繋がる階段。その一番下の段に腰を下ろす。したら、何の躊躇もなく隣に座ろうとするから、慌てて遮った。

「ちょい待ち、なんか敷いた方がいい。髪拭いたから、ちっと濡れてっけど……ほい、これでOK」
「別にそのままでも平気だよ」

さっき買ったばかりのタオルを右隣に広げて、その上に座るように軽く叩いて見せる。そしたら少し眉毛を寄せながら、彼女は首を横に振った。

「今日の服すっげぇ可愛い。また着てほしいから、汚すわけにいかねぇの」
「分かった。それなら自分のハンカチ使う」
「ダメ」
「なんで」
「それ、大事な物なんだろ。高校の時からよく使ってたし、いつも丁寧に扱ってる。だから、それくらい分かるよ……誰か大切な人に貰ったの?」

意地が悪い訊き方だ。水色の布で、端にはブランドのマークが入っている。見た感じシルクだろう。学生が持つには控えめなデザインだし、値段も普通のタオルより高いに違いない。俺の問いかけに彼女はハンカチを握りしめると、悔しげに下唇を噛んだ。そして、諦めたように少し皺のついた俺のタオルの上に座る。

「どうして何でも分かるの……怖い」
「嫌いになった?」
「まさか。怖いけど、それ以上に救われてるもの。そうじゃなかったら、私は変わろうとしなかっただろうし。萩原は視野が広いよね。貴方の世界が宇宙なら、私のはきっと砂粒くらいの大きさだと思う」

手を伸ばして足元の砂を掬うと、彼女は微笑んだ。指の隙間から、サラサラと小さな粒がこぼれ落ちていく。自嘲を含んだ笑い方じゃない。それでいいと思っているんだろう。その声には羨望も嫉妬も感じられなかった。

「俺は、その砂粒の中にちゃんと居られてる?」
「……それ、私の答え分かってて訊いてるよね」
「え、全然。苗字の目にどう映ってるか知らねぇけど、俺、全く自信なんて無いから。常にヒビの入った地面の上に立ってんだぜ」

足先で砂を巻き上げて笑えば、彼女は瞳を見開いて俺を振り返った。どんだけ驚いてんだよ。前からそんな感じしてたけど、俺のこと超人だとでも思ってんのかな。君と同じ人間なんだけどな。小さな手を取って、自分の肩に導いた。

「こんな風に苗字がちょっと押したら、俺はあっという間に奈落行き。だけど、さっきの君の反応で少しだけ足場が強固になったかも────片隅でいいからさ、置いといてよ。そうしたら、いつだって助けに行けるだろ」
「片隅って……本気で言ってるなら吃驚。ほとんど埋め尽くしてる人の台詞とは思えない」

今度は俺が驚く番だった。つい「は?」と強めに聞き返す。予想以上にデカい声が出て、俺だけじゃなく苗字も目を丸くしている。咄嗟に掌で口を覆うけど、もう出ちまったんだから遅い。格好悪くて視線を逸らしたら、隣でクスクス笑う声がした。

「自覚がないなんて、やっぱり怖いね、萩原は。私の世界を支配している存在は、片手の指で足りるくらいしかないよ────家族、少ない友達、松田、それから貴方。ただでさえ面積が狭いのに、萩原は場所取りすぎ」
「はぁ〜。なぁ、俺をどうしたいの?今のは流石に期待するぜ。勘弁して、自制が効かなくなるから」
「それは困る。私、今でもかなり精一杯だから」

照れて見せるどころか真顔で断られる。閉店だとでも言うように、目の前でシャッターを閉じられた気分だ。あまりに彼女らしくて思わず笑った。精一杯に見えないんだよなぁ。掴んだままだった左手に、指を絡ませる。一瞬戸惑うように震えた指先を、逃がさないように力を込めた。

「水族館でのことだけど……俺、苗字の傍に居るのは、自分じゃなくてもいいのかもって思ったんだ。気の迷いってやつかな。だけど一瞬でも考えちまったら、すぐには消えねぇの。それで今日、初めて君を拒んだ……傷付けた、よな。情けねぇから言いたくなかったけど、それは卑怯だろ?知りたいとか吐かしておいて、自分は鎧着けたままとかさ」

ああ、本心を曝け出すのって、こんなにキツいものなのか。それがダサい中身だから尚更。全部吐き出した後の沈黙がやけに長く感じる。たぶん10秒もないのに、体感では地球1周できそうなくらいに長い。なんて言われるのか。どんな顔をされるのか。その全てが悪い予想ばかりで、ただ前を向いて言葉を待った。響く波音に耳を傾けるフリをしてみても、鼓膜は彼女の声を拾おうと必死だ。

「ずっと、雨が降ってた」
「え……雨?」

返ってきたのは、否定でも肯定でもなかった。雨という単語に釣られて、反射的に空を仰ぐ。だけど今日の天気は快晴だ。そんな気配は微塵もない。そうして初めて、苗字の言った雨が、現実の天気の話じゃないのだと悟った。たぶん、心の話。俺が見当違いの行動をしていることに気が付いていないのか、彼女は海を見つめながら続ける。

「台風みたいな雨じゃない。しとしと静かに降り続ける、弱い雨。嫌いじゃなかった。雨の中でなら泣いても誰も気付かないから」

そう言って、懐かしむようにそっと目を閉じる。そうすると、今もまだ見えるのかもしれない。瞼を上げてほしくて、小さく苗字と呼べば、扉が開いて黒い瞳が顔を出す。それだけで妙に安心していたら、俺の方を見て彼女は微笑んだ。

「それまでも傘を貸してくれる人はいたんだ。使ってくださいってさ。結局、全部差さずに捨てちゃったんだけど……意地っ張りでしょう?」

悪戯っ子みたいに笑う顔に、釘付けになる。そんな表情もするのか。裸足で砂浜を歩こうとしたり、服が汚れるのも気にしなかったり、もしかしたら意外にお転婆なのかもしれない。俺が笑い返すと、嬉しそうに目を細める。

「そしたらある時、自分の傘に入れてくれる変人が現れた。いいって言ったんだけどね」
「変人って……ひでぇ言い草だなぁ」
「ふふ、褒め言葉だよ。私が濡れないように気遣って、自分の肩まで濡らしてしまうような人」
「誰かさんが水溜まり歩こうとするからっしょ」

シリアスな話をしているはずなのに、口元には笑みが浮かぶ。揶揄うように喉を鳴らすから、少しだけ反抗してみる。飛び越えられなそうな水溜まりでも、傘が飛んでいきそうな強風でも、そのまま進んで行こうとするからだ。雨が止むまで、待てばいいのに。いつまでだって一緒に待ってやるのに。

「歩幅を合わせて歩こうとしてくれたのは、萩原だけだった。貴方に出会ってなかったとしても、そういう誰かが他に現れたのかもしれない。だけど、最初に見つけてくれたのは萩原だよ。それだけは変わらない事実だから。それに貴方は、私が立ち止まっても怒らずにただ隣にいてくれる。その優しさに甘えすぎちゃってるわけだけど」
「成る程、甘えすぎ、ね……いや、どこが!?」

記憶を辿ってみても、全く身に覚えがない。いつどこで甘えたのか教えてほしい。ちょっと大袈裟にリアクションしてみると、困ったように微笑み返される。ああ、そうか。甘え方、知らないんだっけ。もどかしくなって、立ち上がる。そして向かいに佇んで、座ったままの苗字を見下ろした。瞬きを繰り返しているから、ジェスチャーで立つように促すと、素直に従ってくれる。思ったよりも距離が近かったのか、彼女が自然と階段の一段上に立ったせいで、目線が同じくらいの高さになった。握っていた手を放して、両腕を広げる。

「ん」
「なに?」
「なにってハグだよ。甘えレベル1。初歩だぜ?」
「これが、初歩……レベル0は、
「いや、これ以下とかないから」

正気を疑うみたいに俺を見てくる。ハグならしたことあるじゃん。あと、キスも。そう心で突っ込んでから気がつく。どっちも俺からだったな。なら今回は、意地でも動かない。じゃないと練習にならねぇし。彼女が胸の前で手を握ったり閉じたりを繰り返すのを、緩む口元を隠さず見守った。ああ、焦ったいなぁ。でも、可愛いからいいや。そして、俺が折れないと悟ったのか、意を決したように腕の中に入ってくる。その背中に腕を回して、包み込んだ。段差のお陰で、肩の上に彼女の顎が乗せられる感覚がする。ぽすん、と音がするみたいな抱擁だった。首を傾けて、すぐ横にある髪に頬を寄せる。そしたら安心したように力を抜いて笑うから、また愛しさが積もった。右手で後頭部に触れて、髪を撫でながら一言。

「よく出来ました。ほらな、すげぇ簡単だろ」
「簡単……たぶん、相手が萩原じゃないと無理」
「は?当たり前だろ!松田ともダメだからね!」
「わ、分かった」
「本当に分かってる?甘えたくなったら俺を呼ぶこと。地球の裏側にいたって飛んでくっからさ」

何を言い出すかと思えば、とんでもねぇな。俺以外とスキンシップなんて、考えただけで相手に殺意が湧いてくる。あれ、俺ってこんなに嫉妬深かったっけ。心で問うてみたら「今さらだろ」と親友の声が返ってきた。すみません、そうでした。

「あ、そういや……あの時、なに言いかけたの?」
「あの時って?」
「ほら、俺が謝ってばかりいるって言った時だよ。『謝罪よりも』で言葉切ったでしょ」
「言えない」

耳元で呟かれた声には、迷いが滲んでいた。言いたいけど、言えないってことか。それなら吐き出してもらわなきゃだな。今こそ持ち前のスキルを活かす時。

「どうして?」
「それは……ッ、
「大丈夫だから、聞かせて」
「……謝罪に隠れた貴方の気持ちを知りたかった。我儘だよね。私は何一つ、明かしていないのに」
「なんだ、さっきの俺と同じじゃん」

どこかで聞いたなと思ったら、ついさっき自分が吐き出したのと同じ内容だ。それが愛おしくて、抱き合ったまま笑った。そっと力を緩めて向き合うと、不安そうに見返してくる。

「言えないことなんて、誰にだってあるさ。もちろん、君にも、俺にもな。だから、おあいこ」

揺れる瞳は、怒られるのを待つ子どもみたいだ。頬にかかった髪を右手で優しく払った。頬を髪も全部が柔らかい。食べちまいたいなぁ。露わになった左耳に顔を寄せて、唇で触れる。警戒するように距離を取ろうとするから、左手を背中に回して阻止した。逃すかよ。

「知りたいなら、強請ればいい。誠心誠意、応えるぜ。だけど、生半可な覚悟なら、やめておいて────たぶん君が思うより、ずっと重いから」

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