想いは時より早く

大学2年、11月の中旬。俺は苗字とふたり、電車に乗っている。しかも今日は、少し遠出だ。箱根に行こうと俺から誘った。紅葉の時期だし、何より彼女は都会の喧騒よりも自然が似合う。全席指定の座席に隣り合って座る。

「来年の今頃は、もう就活生だね」
「あ〜、考えたくねぇな。苗字は就きたい仕事とかあんの?」

窓から外を眺めながら、ぽつりと呟かれた言葉。俺がそれに態とらしく顔を歪めると、苗字は苦笑いを浮かべた。堅実な彼女のことだから、将来設計はしているのだろう。そもそも、ひとりで生きていこうとしていたのだから────いや、過去形にするのは間違いだ。それは俺の願望にすぎない。

「一応ね。食品メーカーに就職したいと思ってる」
「へぇ……理由、訊いてもいい?」

予想以上にピンポイントな答えが返ってきた。食に特別な拘りがあるようには見えないし、すごく食べる方でもない。数ある中でその仕事を選んだ理由が思い付かなくて、遠慮がちに尋ねてみる。すると、彼女は窓から俺の方に視線を向けて、少し迷う素振りをした。だけどすぐに目を伏せてから、答えてくれる。

「食事って、生きる為に欠かせないことだから。他にも呼吸とか睡眠とか色々あるけど、仕事にするには専門的な知識がいるし、それを学ぶには今以上にお金も時間も必要になる」
「今の、もしかして経験論?」
「そう。人が健やかに暮らしていくには、心身の健康を保たなきゃならない。実際、私は一番苦しかった時でも、お腹が減った。同じような立場にいる人の助けになりたい」
「苗字らしいね」

そう語る横顔は、見たことないくらい凛として眩しい。好きだなぁ、とそう思った。元々か弱い女の子じゃないのに、どんどん逞しくなっていく。それが嬉しくて、寂しい。だって俺はまだ、臆病なままだ。"一番苦しかった時"がいつだったのか、それがどんな出来事だったのか、尋ねることすら躊躇している。結局、いつも通りの当たり障りのない返し。

「微力も微力だけどね。私には、誰かの心を救うことはできないから」
「おっと、そいつは聞き捨てならねぇ台詞だな。すぐ隣に救われてる張本人がいるってのに、なんで気が付かねぇかな……ま、そういう所も好きだけど」

困らせてみたくなって、意図的に少し大きな声を出した。チラと視線を送れば、彼女は目を丸くして俺を見ている。作戦成功。どの部分に驚いているんだか。もしかしなくても『救われてる』ってところかな。無自覚ってのは恐ろしいねぇ。内心苦笑しつつ、追い討ちをかける。

「君と過ごす時間は、俺の心の栄養なの」
「……それが本当なら、すごく嬉しい」

駄目だ、負けた。笑顔ひとつでK.O.される。打たれ弱すぎるだろ。それだけ骨抜きにされてるってことだけど。気持ちを落ち着かせるために、深呼吸をした。まだ往路なのに、すでに心は疲労困憊だ。

「萩原は?どんな仕事に就きたいの?」
「俺はね、警察官。だから卒業しても、また学校通わなきゃなんねぇんだ」
「警察官?てっきり工学系の仕事だと思ってた」
「親父の工場が潰れてなかったら、それもアリだったんだけどな……ああ、言ってなかったっけ。俺の実家、車の修理工場だったんよ」
「そっか。萩原、車好きだもんね」

色んな感情が詰まった「そっか」だ。親の工場が倒産したんだから、それなりに苦労した。それこそ大学なんて行かずに就職しようと思ったこともある。だけど俺は、あの家に生まれたことを後悔したことは一度もない。そんな事、何一つ話してなんかいないのに、彼女はまるで全部分かっているみたいだ。

「あれ、バレてた?」
「そりゃ分かるよ。だって萩原、珍しい車が通ると目で追ってるし。だけど、どうして警察官なの?」
「陣平ちゃんがなりたいって言ってたのと、あとは実家の倒産を教訓にした結果さ。警察は絶対潰れたりしねぇだろ?」
「ふふ、萩原らしい……辛い事も笑い飛ばしちゃう所、尊敬する。それに、ピッタリな仕事だと思う」
「マジで?それは初めて言われたな。どんなに甘く見積もっても、俺は真面目じゃねぇし」

ピッタリだなんて、自分でも思ってなかった。見た目だけなら、警官よりホストだろ。こんな髪形だし、それなりにヤンチャもしてきた。いや、現在進行形でしてる。それに、こんなヘラヘラしてる警官なんて見たことない。なんとなく志した夢だけど、彼女が言うなら本気でやってみようかと、そんな風に思っちまうんだから、俺も中々にチョロい。

「誰かを守るためには、強さ以上に優しさが必要になる。萩原が誰より優しいこと、周りの人達はよく知ってるもの。だから、大丈夫。不安なら、私が保証する。そんなんじゃ効果は薄いかもしれないけどね」

髪を耳にかけて、苗字が笑う。ああ、なんでこうも眩しいんだろう。惚れてるからか。いや、違うな。この気持ちを抜きにしても、彼女は綺麗だ。その事実に、俺以外の誰も気が付かなければいい。知っているのは、俺だけでいい。って、なんだこれ。手に入れてすらいないのに、独占欲じみたものが湧いてくる。彼女がそんな俺に曇りのない表情を向けることに、何故か無性に胸が騒ついて、少し身を乗り出した。細い肩に手を回して、頬に顔を寄せる。聞こえるように微かな音を立てながら、唇を押し当てた。

「誰が優しいって?」
「前言撤回。たまに意地悪」

眉間に皺を寄せて、不満げな声でそう言われる。頬を染めたりしないから、照れてるのか本気で嫌がっているのか判断がつかない。だけど、別にいい。こっちを向いてくれるなら、なんだっていいんだ。

**

「もっと混み合ってるのかと思った」
「確かに。電車も普通に席取れたし。たぶん、平日だからじゃね?」
「そういえば、大学の方は平気だったの?私は講義がなかったからいいけど…萩原、こっちの予定に合わせてくれたでしょ」
「だいじょーぶ。陣平ちゃんに出席カード出しといてって頼んどいたから」
「いや、全然大丈夫じゃない。松田、よくOKしてくれたね……あ、もしかしてお互い様だったり?」
「へへ、当たり〜」

疑うような視線が珍しくて、自然と笑みが浮かぶ。だから言ったのに、真面目じゃないって。俺も松田も、興味のない授業は適度にサボってる。後で板書は見せてもらうことになってるし、単位はまあ、なんとかなるだろ。まだ2年だから、必修科目も多い。だけど3年になれば、それが減る。言い換えれば、自分の好きな科目を選ぶ余裕ができるようになる。そしたら、こうして出掛ける機会も少なくなるんだろうか。就職したら、それ以上に。ああ、大人になりたくねぇな。そう思う反面、もっと遠くに連れて行ってあげたいし、キスより先のことをしたいとも思う。人生って、難易度高すぎじゃね。

「苗字と会うより大事な講義なんてねぇから」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、私の為に萩原が何かを我慢するのは嫌だな」
「あ〜、頼むから今の撤回してくんない?」
「……本心だから無理だよ」
「分かった、オーケー。聞かなかったことにする」

こういう時は異常なくらい頑なだ。たぶん俺と苗字では我慢の対象が違う。彼女はきっと、私生活での我慢という意味で言ったんだろう。だけど、俺は違う。その単語を聞いた時、理性の話だと思っちまった。実際、彼女と一緒にいるうえで私生活での我慢はしていない。今日だって、別に出たい講義じゃなかったし。俺が我慢していることと言ったら、ただ一つしかない────もっと触れたい。髪に、肌に、心に。これは、曝け出しちゃ駄目なやつだ。だって、気持ちすら通わせていない。自分で自分に幻滅しそうだ。

「ねぇ、萩原」
「ん、どした?」
「あれに乗ってみたいんだけど、いい?」
「あれって……ああ、勿論いいぜ」

彼女が指差した方へ視線を移せば、ロープウェイ乗り場の看板が見えた。自分から望みを言うなんて、珍しいな。でも確かに、箱根のロープウェイと言えば有名、らしい。俺もネットの情報だけだから、偉そうには語れない。乗り込んだゴンドラは思ったよりも広い。20人弱は乗れそうだ。

「箱根に行くなら絶対乗った方がいいって、友達が教えてくれた。紅葉の時期は特にお勧めみたい。天気も良いし、富士山が見えるかもしれないよ」

頬を緩めて話す姿を、目に焼き付けた。ちょっと待て、可愛すぎる。紅葉は秋が見頃だけど、彼女のことなら年中見ていられる。最強。ゴンドラが動き出すと、その瞳がさらに大きくなった。俺も釣られて視線を移す。ガラスの向こうには、赤や黄色に染まった木々と、青く澄み渡った空。無意識に感動していると、視界の端に彼女が映り込む。前のめりになって、食い入るように景色を見つめている。いつも俺が願う100倍くらい楽しんでくれるんだよなぁ。心臓の辺りがキュッとなった。愛しさが増した音。

「消えちゃいたい?」

無意識に尋ねた。高い場所からの景色に、あの日の観覧車でのやり取りを思い出した所為だ。俺の問いに振り向いた瞳を見て、祈った。頼む、否定してくれ。彼女は聡明だし、鋭いところがあるから、質問の意図は察しているに違いない。そして、同時に正直だ。俺の為に心を偽ることはないだろう。これから紡がれる言葉は、全て本心。そう知っているから、投げかけたのは俺なのに、怖くなった。

「ううん。この世界にいたいって、そう思うよ……どうして萩原がそんな顔するの?」
「そんなって、俺今どんな顔してる?」
「すごく情けない顔」
「ふは、正直すぎる。も少しソフトに頼むって」

自分でよく分かってる。だって泣きそうだ。てか、どうしてって本気で訊いてるのか。誰の所為だよ、誰の。発言の威力、分かってんのかなぁ。一撃必殺なんだけど。俺が満身創痍になってんのに、ひとりで箱根観光再開してるし。翻弄されるって、まさに今の俺みたいな状態なんだろう。湧き上がってくる気持ちと涙を抑え込もうと、目を伏せる。だけど彼女はそれすら許してくれなかった。

「折角の景色なのに勿体ないよ」
「いや、なんで笑ってんの」
「だって、そう教えてくれたのは萩原だから。まさか私が貴方に言う日が来るなんて思ってなかった」
「ほんと、末恐ろしいな」

可笑しくて堪らないって顔。弄ばれてる気分だ。こんな恋愛をすることになるなんて、想像もしてなかった。もっと優雅に余裕を持ってできると思ってたのにな。揶揄ったり、掻き乱したり。されるよりする側だと思ってた。実際、得意だし。なのに、蓋を開けてみたらこれだ。悔しいけど、別にいいや。だって、こんなにも幸せだから。君に恋をして、本当に良かった。

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