その覚悟を知る者

なんで春ってのは、こんなにも強烈な眠気が襲ってくるんだ。気候と、あとは雰囲気の所為か。どいつもこいつも浮かれて見える。入学、卒業、就職。生活に変化があるのは春が多い。忙しいと吐かしている奴ほど充実していたりするもんだ。

「ねみぃ」

公園のベンチに寝転んで、雲一つない空を仰ぐ。視界の半分は、脇に植っている桜の花が占めている。今年は開花が早い。狂ったように咲く花を見て、何故かあいつを思い出した。なんでだよ。春を感じる要素なんて一個もないだろ。ましてや一年近く会ってねぇし。己の思考に舌を打ったその時、影が落ちる。淡い桃色を遮るように、誰かが俺を見下ろしていた。

「……なんでいるんだよ」
「やっぱり松田だ。久しぶり、お昼寝?」

風に髪を靡かせて、そいつは笑う。いや、俺の質問は無視か。その頭上では、何枚もの花弁が舞っている。くそ、気に入らねぇ。一瞬でも心を奪われた自分に、苛ついた。ふわついていた思考が一気に覚醒する。身体を起こして、欠伸。酸素を取り込んでから、紳士らしく説明申し上げる。

「一コマ飛んでっから、帰れねぇ。お前はハギと待ち合わせか?あいつ、今日は午前で終わりだろ」
「うん。ふたりは取ってる講義、違うんだね」
「ったりめぇだろ。違う人間なんだからよ」
「それもそうだね。隣、座ってもいい?」
「……勝手にしろ」

素っ気なく返すと、律儀に礼を言ってそいつは俺の隣に座った。ふわりと鼻先を掠める匂い。香水だろうか。不快にならない程度の、微かな香り。無言のままの横顔を盗み見る────驚いた。その輪郭があまりに明瞭で。春になるといつも、こいつの存在はより朧げになった。春が似合わないと言ってやったこともある。それをこいつが萩原にチクった所為で、後からネチネチ説教されたのは記憶に新しい。いや、別に口止めはしてねぇか。話を戻すと、だ。その朧げさが消えている。風に飛んでいきそうだったくせに、今は世界にちゃんと足を付けている。常に瞳に宿っていた儚さは、光に変わった。いや、もしかしたらこっちが素なのか。俺や萩原が知っているのは、高1からだ。たった今こいつが纏っている雰囲気は、俺達に会うまでに息を止めちまって、どっか深い所で眠っていた。それを、萩原が揺さぶり起こしたのかもしれない。

「お前、変わったな」
「整形なんてしてないけど」
「ばーか。見た目の話じゃねぇよ、雰囲気だ」
「雰囲気?それなら"変わった"じゃなく"変えられた"が正しいね」
「だろうな。景色はどうだよ」
「……すごく眩しい」

言葉少なに答えると、朝日でも見るみたいに苗字は目を細めた。悪くねぇ顔だ。そう思うと同時に、誇らしくなった。柄にもなく感傷に浸りそうになる。俺の親友が、ひとりの女の生き方を変えた。今俺の目に映るのは、あいつが見たかった苗字名前の姿なんだろう。

「目ぇ閉じるんじゃねぇぞ」
「閉じないよ。こんなに綺麗な景色だもの」

そう答えて笑った顔を、俺は一生忘れることはない。美しかったからじゃなく、ただの嫌がらせだ。1年後、俺はこの記憶を引き合いに「大嘘吐きめ」と吐き捨てることになる。

「……そろそろ行くか。お前も一緒に来い。ハギの所まで連れて行ってやる」

返事を聞かずに歩き出した。少し遅れて、足音。いつも通りの歩幅で進もうとして、留まる。意図せず速度を緩めた自分に小さく笑った。俺が待っていなくても、大丈夫だ。この女には、文句一つ言わずに隣を歩いてくれる奴がいる。だが、あいつが居ない間はくらいは、気に掛けてやってもいい。

「萩原が何処にいるか分かるの?」
「教室は知ってっけど、講義はもう終わってんだろ。たぶんその辺歩いて……、
「松田?」
「あいつ、また囲まれてやがる。引き摺って来るから、ここで待ってろ」

視線の向こうには、探していた野郎の姿。女子の群れの中心で、ヘラヘラ笑っている。一瞬、しまったと思う。あれを見て、苗字がどう感じるのか不安になったからだ。ところが、当の本人は表情を変えない。それに何故か、苛つく。地面を指差し待機を命じて、背を向けた。未だこっちに気付いていない幼馴染の名を叫ぶ。

「萩原!!」
「…あれ、陣平ちゃん?なーに怖い顔してんの」
「他の女に感けてる余裕あんのかよ!」
「うわ、ちょ!?え、結構マジで怒ってない?なんで……ッ、苗字?」

やっとその存在を認識したのか、萩原は目を丸くした。だが、どうも様子が可笑しい。振り向いて、俺も驚いた。苗字の横には、知らない男の姿。妙に人好きのする笑顔は、どっかの誰かに似ている。しかし驚愕すべきは、そこじゃない。あの苗字が、相手に微笑み返したことだ。

「おい、松田。誰だよ、あいつ」
「知らねぇよ。てかお前…顔怖すぎ、
「名前!!」

俺の言葉を掻き消すような声。我が目を、耳を、疑った。萩原のそんな焦った顔を見たのも、そんな大声を出すのを聞いたのも、初めてだった。余裕がある、飄々としている。こいつを評する時、誰もがそういう形容詞を挙げた。付き合いの長い俺も、そう思っていた。だが、驚きだけじゃない。胸を支配したのは、驚喜。その覚悟が生半可なものじゃないと確信した瞬間だった。一方で、呼ばれた張本人も、目を見開いている。声のデカさにか、それとも下の名前を叫ばれた所為か。たぶん、両方。そしてすぐに、苗字は困惑を見せた。俺の隣にいた萩原が、険しい顔で近づいて行ったからだ。周りの女を放って歩き出す親友を、慌てて追いかける。やべぇ。殴りかかるんじゃねぇだろうな。そんな事を案じる側になるなんて、思ってもみなかった。

「はぎ、わら」

苗字が怯えたように萩原を呼ぶ。馬鹿か。惚れた女を怖がらせてどうすんだ。俺なら兎も角、お前は萩原研二だろ。たぶん苗字は、こいつがなんで怒っているのか分かっていない。当たり前だ。自分は他の女と談笑してんのに、相手には他の男と話すなとか、どの口が言うんだっての。だが、杞憂に終わる。引き止めようと伸ばした腕が、宙を掻いた。

「ごめん。私、何か……ッ……?」
「俺はこっちだよ」

抱き寄せて、そう言いやがった。ぞくり、と身震いしそうになる。声音に滲んだ独占欲、逃さないと言わんばかりの束縛。それを向けられても、苗字は逃げ出そうとはしなかった。それどころか、萩原が背中をひと撫ですると、安心したように身を委ねる。腕の隙間からそれが見えて、何も言えなくなった。次いで、ザワザワと萩原を取り囲んでいた女共が騒ぎ出す。面倒臭いことになったな。とりあえず、自分の世界に旅立っている親友の頭を拳で殴る。

「イテッ!!なにすんだ、松田ァ!!」
「うるせぇ!!いいから場所変えんぞ」

口答えたぁ、いい度胸だ。関節を鳴らすと、途端に大人しくなる。そんな萩原の腕を右手で掴み、左手を隣の女に伸ばす。否、伸ばそうとした。俺達のやり取りを見つめる瞳には、まだ不安が見え隠れしている。臆病なのはお互い様か。鼻から息を吐いて、軽くデコピンを見舞ってやった。

「ちょ、陣平ちゃん。俺の前で何してんの?」
「嫉妬男は黙ってろ……おい、苗字。んな不安そうな面すんな。お前に非はねぇから。いつもみたいに背筋伸ばせ。らしくねぇぞ」

心なしか猫背気味だ。大事なもんが無い方が、胸張って歩けるなんて可笑しい。堂々としてろ。そう言いたくなるのは、俺が第三者だからなんだろう。それはそれで、なんかムカつく。何も答えない苗字を見下ろすと、視線が交わった。さっきまで揺れていた瞳が、真っ直ぐに俺を見返してくる。そして、あろうことか笑いやがった。

「おいコラ、なに笑ってんだ」
「いや、松田の切っ先は丸いなぁって……心配してくれて、ありがとう。次、講義あるんだよね?」
「あ、ああ」
「私は萩原と帰るから大丈夫……またね」

いや、その萩原が問題なんだろ。あと、今笑いかけんじゃねぇ。火の粉が飛んでくる。俺がそんな事を思っている間に、苗字は萩原に声をかけて、返事を待たずにふたり並んで去って行く。萩原だけが一度、決まり悪そうに振り返った。さっさと行けよ。説教なら、後でしてやる。ガンを飛ばして、俺も背を向けた。

**

その日の夜、萩原から電話がきた。家へと帰る道中。笑い飛ばしてやろうと息巻いて出たら、開口一番に「ありがとな」と言われてタイミングを逃す。何に対する礼だよ。対面で話しているわけじゃないのに、俺の疑問を汲み取ったかのように、答えが返ってくる。

「ど突いてくれて助かったわ。危うく見当違いの嫉妬、苗字にぶつけるところだった」
「いや、漏れ出てただろ。てかよ、隠したままで分かり合えると思ってんのか?」
「ほーんと、容赦なく抉ってくるよなぁ。俺にも苗字みたいに優しくしてよ」
「嫌だね。お前の場合、つけ上がるに決まってる」

なにを安心してんだ、俺は。いつも通りの声のトーン、口調、雰囲気。それにホッとしている。自分の知らない姿を見た所為だ。バレないように小さく息を吐いた。

「はは、だよな」
「んで?誰だったんだよ、苗字と話してた奴」
「あ〜……後輩だって、バイトの」
「ぶはっ!バイトの、後輩!あんだけ嫉妬丸出しにして、後輩かよ!!」
「うっせ!仕方ねぇだろ……あんな風に笑い返すなんてこと、なかったし」
「あいつも普通になったってことだろ。どこかのお節介のお陰でな。ちょっとは喜べよ」

確かにそうだ。あの女には、誰彼構わず笑いかけるような器用さはない。まあ、俺も人の事は言えないけど。少なくとも、苗字よりは人間らしいと思う。あいつは他人に嘘を言わないが、テメェの心には平気で嘘を吐く。俺とは違う。真似したくもない。

「喜べって、そりゃ無理だろ。そんな普通なら要らねぇ……笑顔も優しさも全部、俺だけに向けてくれればいいのに」
「お前……今すげぇ事言ったぞ」
「……なぁ、松田」
「んだよ」
「底がさ、見えねぇんだ」

聞こえた声は、震えていた。規則正しく気怠げに地面を踏みつけていた足が、止まる。歩くことを放棄して、一言一句を聞き逃さないように、全神経を鼓膜に集中させた。これは、マジな時の声だ。そう瞬時に感じ取った。だが今まで、萩原がその声で自分の事を語ったことはない。時には俺の為、千速の為、親の為、赤の他人の為。萩原研二は、そういう男だった。

「この世界に居てくれるだけでよかった。それだけで……っ、充分だったはずなんだけどなぁ」
「俺はちゃんと気を付けろって忠告したぜ」
「ふは、そうでした」
「それにお前は、後悔なんざしてねぇだろ」
「してねぇし、しねぇよ」

自信満々な答えに、喉が鳴った。そして再び、歩き出す。早い段階から、こうなる予感はしていた。苗字を映す瞳の熱量が増していくのを、語る声に愛しさが帯びていくのを、傍で感じていたから、なにも驚きはしない。俺はただこれからも、二つの毒が溶け合っていく様を、ここで見守るだけだ。

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