置き去りの思い

────ちゃんと答えを出したい。

また、夏がきた。苗字と交わした契約の満了まで、2年を切ったことになる。今年は梅雨明けが遅くて、ふたりで出掛けて雨に降られることも多かった。そんな7月初めのある日、雨音に攫われるような声で彼女がそう言った。言葉が続くのかと思って待ったけれど、それきり。もしかしたら無意識だったのかもしれない。だけど、それが何に対する答えなのかは訊かなくても分かった。

「にしても、今日は暑いな」
「そう、だね」

容赦なくジリジリと照りつける日差しの下、俺のぼやきに返ってきた彼女の声も元気がない。いや、変だ。そっと様子を窺うと、頬が少し赤い。それにどこか、ぼんやりしている。咄嗟に肩を掴んで、視線を合わせた。

「もしかして気分悪い?」
「少し頭が痛いだけ。たぶん暑いから、
「いや、だけって。熱中症だろ、それ。家まで送る……と歩かなきゃいけねぇか。タクシー呼ぶわ」
「大袈裟だよ。少し休めば、大丈夫」
「んなわけねぇだろ!重症化したら…っ、ごめん。とりあえず、日陰に行こう」

つい語気が強まる。どうしてそんなに自分に無頓着なんだ。誰より、何より、大事にしてほしいのに。だけど彼女にとってそれが、いかに難しいことなのかも理解してる。だから余計にもどかしい。

「何か冷たい物買って来るから、ここにいて」

木陰にあったベンチに座らせる。視線を合わせて頼めば、彼女はコクリと小さく頷いた。子どもに言い聞かせている気分だ。さっき少し声を上げたからだろう。俺の機嫌を窺うような反応をしてくる。怒ってなんかないよ。そう伝えたくて、指先で前髪を払うように撫でた。近くの自販機でスポーツドリンクを買って、彼女が待つベンチへと戻る。後ろから声をかけようとしたけど、できなかった。髪が揺れて、頸が露わになる。伸びたなぁ。

────髪を短くするのは夏って決めてる。

今年はまだ、切らないのかな。そっと近づいて、その髪に触れる。首筋を掠めた指先に、彼女が肩を揺らして振り向いた。俺の姿を捉えて小さく笑うから、堪らなくなる。持っていたペットボトルを首に当ててやると、俺を映していた瞳が閉じてしまう。だけどすぐに開いて、また視線が交わる。

「ありがとう」
「礼なんかいいって」

苗字はそれを両手で受け取って、冷気を享受するみたいに喉元に導いた。ああ、ペットボトルが羨ましい。右隣に座って、顔を覗き込む。顔色はさっきより良くなったみたい。姿勢を戻して、背もたれに寄り掛かった。具合が悪いってのに、彼女の背中とベンチの間には隙間がある。こんな時くらい、休めばいいのに。

「少し休んで今日は帰ろう」
「……うん。ごめんね」
「おっと、そこは今度こそ『ありがとう』だろ」
「ふふ、そうだね。ありがとう、萩原」
「どういたしまして……なぁ、今年は髪短くしないの?もう夏だし」

くしゃりと笑う横顔に尋ねた。俺の質問にキョトンとして、沈黙。それから自分の髪に触れると、少し驚いた顔をした。え、何に吃驚してんの。

「こんなに伸びてたっけ」
「いやいや、毎日鏡で見てるっしょ」

真顔でそんな事を言うから、思わず肩を揺らす。女の子とは思えない発言。そういう飾らない所が好きだ。無理して流行りの服を着たり、心を偽ったりしなくていい。

「そもそもさ、なんで夏はショートなの?」
「冬は下ろしてると防寒になるでしょ。でも夏は縛らないといけないし、ドライヤーも面倒」
「防寒……理由が合理的すぎる。んで、今年は?」
「長いと、髪型のバリエーションが増える、から」
「はは、なんでしどろもどろ……ちょっと待って。いや、あの、さ……自意識過剰かもしんないけど、俺の為だったり、しないよなぁ〜。ごめん!今のナシ、忘れて。調子乗りすぎ「そうだよ」た……」

空耳か。空耳だよな。つい10秒前まで雑談だったのに、今はひと呼吸すら難しい。纏わりつくような生温い風が、頬を冷ましていく。綺麗でいたいとか、そんなこと考えたりしないと思っていた。それに限らず、楽しく生きる為の努力はしないんだって、決めつけていたのは俺の方か。

「面倒だなって思うより、どんな髪型にしようかなって考えるようになった。たぶん……ううん。確実に、萩原が理由。髪型だけじゃない、人生もね」

おいおい、心臓が何個あっても足りねぇぞ。正直すぎるのも考えものだな、こりゃ。照れもせずに、自然に微笑んで本心をぶつけてくるんだから恐ろしい。どうにかして一本取ってやりたいなぁ。恋愛は勝ち負けなんかじゃないって分かってるけど、少しだけ悔しい。でもその悔しさごと楽しみたいとも思うんだ。

「すげぇ嬉しいけど、俺の為に背伸びなんかしなくていいよ。どんな服でも髪型でも、着飾る本人が充分魅力的だから何にも問題ナシ……って、なーに笑ってんの。本気で言ってんだぜ?」
「うん、ありがとう。萩原が言うと、自分が素晴らしい人間みたいに思えるよ」

自分の美点ほど、気が付かないものなんだな。灯台下暗しってね。いつか、苗字名前がいかに魅力的なのか、語って聞かせてやろう。コーヒーでも飲みながら、ふたりで並んで。その時は少しくらい照れてくれるかな。

**

いつだって抱きしめたいけど、触れ合っていて心地が良い季節といえば秋だと思う。少し肌寒くて、冬よりも薄着。身体を密着させたら、体温を感じやすい。だからと言って、実行に移せるかと問われれば、無理だ。悲しいことに、俺と苗字は理由もなく抱き合ったり、そんな願いを気軽に吐き出せるような関係じゃない。

「だいぶ日が短くなったね。秋は過ごしやすくて好きだけど、すぐに終わっちゃうから寂しい」
「わかる。この間まで半袖だったのに、気付いたらコートにマフラーだもんな」

今日は映画を観て、都内で人気のあるパンケーキを食べた。それから彼女が欲しがった新しいハンドクリームを買いに雑貨屋に寄って、今はその帰り道。まだ18時前なのに、辺りは暗い。

「本当に。急に寒くなったから衣替えしようとしたけど、一昨日は夏日だったし。夏物を仕舞うに仕舞えないから、ちょっと困ってる……なに?」
「いや、小言なんて珍しいなって」
「どうしてそんなに嬉しそうな顔するの?」

あ、拗ねた。最近は山の天気みたいにコロコロ表情を変える。微笑んだり、はしゃいだり、時にはこうして子どもみたいな顔を見せたりして。逆に、切なげな横顔は滅多にしなくなった。

「どうしてって、そりゃ愚問だな。理由なんて決まってる。幸せだから」
「しあわ、せ……今のが?」
「そうだよ。苗字が平凡な事で悩んだり、笑ったりしてくれる。それが、俺の幸せ。覚えといて……ッ……どうかした?」

急に立ち止まるから、一歩進んでから慌てて振り向いて、尋ねた。彼女はそれに答えずに、繋いだままの手を強く握り返してくる。俯いているから表情は窺えない。何か気に障る事を言ったかと、自分の発言を反芻してみるけど、生憎と全部本心だし、撤回は難しそうだ。時間にして数秒、やっと彼女が顔を上げた。視線が交わって、胸が軋む音がする。ご無沙汰だった表情が、そこにあった。泣き笑いと言えばいいのかもしれない。少し潤んだ瞳で微笑まれて、身体が硬直する。どうすべきか分からない。経験も知識も、こういう時に役に立たなきゃただのゴミだ。

「ごめん。俺、今からすげぇ卑怯なこと訊くけど許して────どうしたら、笑ってくれる?」
「………て、ほしい」
「っ、もう一回」
「抱きしめて、

本当はちゃんと聞こえていたのに、信じられなくて尋ね返す。全てが宙に舞う前に、握っていた手を引いて抱き竦めた。お得意の話術が通じないから、どうにか行動でカバーする。こんなに強い力を込めたのは初めてかもしれない。背筋の伸びた姿は凛々しくて強かなのに、初めて触れた時、想像以上に柔らかくて、少し力を加えたら壊れそうだと思った。俺達の関係と同じように、脆くて儚い。腕の中で彼女か身動ぐ。だけど、優しく抱きしめるなんてとても無理。こうしていないと、狂いそうだ。

「萩原っ、く、苦しい」
「うん、分かってるよ。分かってるんだけど、ごめん。君がここに居るってこと、確かめさせて」
「でも、これじゃ抱きしめ返せない」
「…ッ…どうぞ。思いっきりお願いします」
「うん」

愚直と言ってもいい姿勢に、乱れていた心が瞬く間に凪いでいく。乱したのもそっちだろ、と叫びたくなった。少しだけ力を緩めると、背中に腕が回されて、隙間がなくなる。ちょうど鳩尾の辺りに感じる弾力に、意識がいきそうになるのを鉄の理性で堪えた。そう、大福だと思えばいい。

「さっき、悲しくてあんな顔したの?」
「ううん。嬉しさと……あとは自己嫌悪」
「なにその両極端な二つ!そんじゃまずは、自己嫌悪の方からで」
「やっぱり言わなきゃダメ…だよね」
「当たり前だろ。言うまで離さねぇし」

俺の反応なんて予想済みだったのか、溜息混じりに微笑む気配がした。ここで笑っちゃうんだから、らしいよな。まあ別に、俺はこのままずっと抱き合っててもいいんだけど。

「わかった。でも、両方一緒にでもいい?引っ括めて私の気持ちだから」
「ん、いいよ」
「…私、萩原と一緒に居る時の自分が一番好き」

初っ端の破壊力に、喉の奥からグッと音が鳴った。自己嫌悪からつったのに。苦笑しながらも、大人しく次の言葉を待つ。我ながら素晴らしい忠犬ぶりだな。

「他愛もない話をするのが楽しくて、なんてことない景色がとても綺麗に見える。さっきの貴方の言葉で初めて知った、私のこの思いを幸せって呼ぶってこと。そしてね、もしかしたら私と貴方の幸せはイコールなんじゃないかって、そんな風に思って。あんまり自惚れがすぎるから、少し嫌になっちゃった……えっと、終わり、です」
「はは、終わりですって、発表会じゃねぇんだから────でも、うん。花丸!ちゃんと伝わったぜ、苗字の気持ち」

背中を撫でて、褒める。腕の中でホッとしたように肩の力を抜いたりするから、また甘やかしたくなった。だけど、ここは心を鬼にしてちゃんと採点してやらないと。勉強は出来るのに、こんなに簡単な問題が解けないんだから笑っちまう。

「頑張りは花丸だけど、中身は満点じゃねぇな。ではここからは研二先生の解説で〜す」
「っ、はい…お願い、します」
「なーんで確かめもせずに結論出しちゃうかな。検証しろって。ま、いいや。苗字の仮説が正しいってこと、俺が苗字自身に証明するから」

そのイコールは間違ってなんかいないって、俺の全てを懸けて君に思い知らせる。自惚れじゃなく、ただの奇跡だ。迷いなんて欠片も伴わずに、幸せだと微笑んでほしい。そしてどうか、その視線の先に居るのは俺でありますように。

「苗字……顔、上げて」

腰に両腕を回して、引き寄せる。上目遣いで見つめられて、思わず唇に噛み付きそうになった。理性、理性。そう自分に言い聞かせながら、左腕はそのままに右手の親指で顳顬を撫でる。擽ったそうに目を細める姿を記憶に刻みながら、髪を払って額に唇を落とした。

「これは、その誓い」

- back -