愛が牙を剥く

もうすぐ、大学3年の冬休みが始まる。去年も一昨年も帰省しなかった苗字が、今年は実家に帰るらしい。この機を逃す手はない。いつかのように初詣に行って、一緒に年を越したい。勿論、ふたりベッドの中で元旦を迎えられたら最高だけど、それは無理な話だ。そもそも恋人同士でもないし。ああ、何度この言い訳をしたのか知れない。たぶん、彼女も俺の事はそれなりに好意的に思ってくれている。それは隣に居れば分かるけど、今はただ待つ。終わりまでは、これまでどおり傍にいる。それくらいの甲斐性は持ち合わせてるつもりだ。

「苗字、大晦日はやっぱり家族と過ごす?」
「うん、そのつもり」

冬休み直前。コーヒーショップの新作が飲みたいのだと、苗字が珍しく望みを口にしたから、嬉しくなって連れ出した。生クリームの乗ったカップに顔を綻ばせるのを、向かいの席から眺める。コーヒーはミルクしか入れないくせに、限定ものは甘くても飲むんだな。

「だよな。いやさ、一緒に初詣行けたらなぁって思ったんだけど……難しいか」
「初詣?ううん、行きたい。あ、でも……出掛ける予定があるから、夜になっちゃうけど」
「出掛けるって、ひとりで?」
「そう」
「なら俺も、
「それはダメ」

ピシャリと即答されて、黙り込む。なんか久しぶりだな、この感覚。掴んだと思ったら、すり抜けていく感じ。こういう瞬間があるから、忘れずにいられる────油断大敵。安心なんて、する暇はない。

「そっか」
「……ごめんなさい」
「怒ってねぇって。男に会いに行くとかだったら妬けるけど、違うだろ?言いたくない事は言わなくていい。あ、だけど、抱えるのがしんどい時は必ず教えて。俺の胸はいつでも何時間でもレンタルオッケーだから。勿論、君限定で」
「ふふ、わかった────本当に、ありがとう」

眩しい。冗談のつもりなんて少しもないけど、笑ってほしくて無意識に出た言葉すら、彼女は受け取ってお礼を言う。そのうち、胸に秘めたこの想いが溢れて、勝手に君の耳に飛んでいきそうで怖い。好きだと伝えても、同じ反応をするんだろうか。それは嫌だな。だって、告白の返事が「ありがとう」とか、絶対フラれる流れじゃん。希望としては、「私も」って言いながら微笑んで、手を握ってほしい。そんな夢みたいな結末が、今は目を閉じれば簡単に想像できるんだ。笑っちまうだろ。慎重が取り柄だったのに、これかよ。それも全部、君の所為。俺の前で綺麗に笑うからだ。その横顔が幸せだと語るから、馬鹿みたいに美しい未来を願わずにはいられなくなる。

**

「で、なんで俺も一緒なんだ?」
「いや、こっちの台詞だからな、それ。松田は行かないのって訊かれた時の俺の気持ち、分かる?」
「知るか。惚れてんだから二人で行きたいって言やあいいだろ。いつもの調子でよ」
「それが出来たら苦労してねぇって!!」

大晦日、夜11時より少し前。隣で松田が不満げな声を出すから、嘆き返す。有難いことに同行を許されてるんだぞ、お前は。なのに来てやってるみたいな態度だし。それもムカつくけど、聞かれたとおりに誘っちゃってる俺もどうなんだ。二重でムカつく。そりゃ松田が言ったように、素直に二人で行きたいって伝えることはできた。そしてたぶんOKしてくれたと思う。だけど彼女が、この幼馴染との時間を気に入っているのも知っているから。

「めんどくせぇ奴」

そして、松田にも苗字にも言えない理由がもう一つ。これは、保険だ。彼女には、俺以外にも命綱を用意しておきたい。投げ出すつもりなんて微塵もないけど、俺がこの役目を全うできなくなる可能性はゼロじゃない。たとえ俺が居なくても、苗字は強いから、ひとりで歩いて行けるだろう。でも万が一、彼女が救いを望んだ時のために、命綱を最も信頼のおける男に託しておく。正直そんな未来は御免だし、とても口には出せない。押し付けんなって青筋立てて怒られるのが目に見えてる。

「あ、萩原!松田も、久しぶり」
「え、なんで…迎えに行くって言っただろ」
「そろそろかなと思って」
「頼むから、夜なんだし中で待っててくれって」
「どんだけ過保護なんだよ、お前」
「心配かけて、ごめん。待ち遠しかったから」

呆れたように言う松田に、彼女は眉を下げて謝ってくる。なんか俺だけ子どもみたいじゃね。深呼吸をして、笑顔を引っ張り出す。若干一名、余計な天パがいるけど、折角の初詣。楽しまないと損だろ。

「ん、とりあえず何もなくてひと安心。あと、俺もめっちゃ楽しみ。そんじゃ、行きますか」

松田が一番先を歩いて、その斜め後ろに苗字で、俺は最後尾。見慣れた親友の後ろ髪、真っ直ぐな彼女の背中。俺にはこの景色だけ、あればいい。そんなセンチメンタルな事を思った。デカい欠伸をしながら松田が話を振って、俺が冗談混じりに返す。その真ん中で彼女が穏やかに笑い、時々一言だけコメントする。そんな会話を数回繰り返した頃、目的地に着いた。きちんと賽銭を入れた俺と苗字の横で、松田がまた欠伸をする。神に払う金はねぇって言いながら。呆れる俺に、彼女は「あくまで形式だしね。松田らしい」だなんて笑った。全く、褒めてんのか貶してるのかどっちなんだか。

「さてと、陣平ちゃん!一人で帰れる?」
「へーへー、喜んで……程々にな」
「はは、誰に言ってんの」

投げかけた問いに、松田が戸惑いなく答える。しかも要らぬ忠告付きで。程々に、なんてお前には一番言われたくない。苦笑しながら隣に視線を移し、不思議そうに俺達のやり取りを見つめている苗字に笑いかけた。

「行きたい所があんだけど、付き合ってくれる?」
「うん、わかった……松田、今日は来てくれてありがとう。来年もよろしくね」
「……おう」

驚いてる驚いてる。素直に返事しちゃってるし。まあ、吃驚の理由は想像がつく。彼女が先のことを語るのは珍しい。思わず口元が緩む。そんな俺に一瞥を投げてから去って行く背中を、ふたりで見送った。

「苗字はどんな願い事したの?」
「言ったら叶わなくなりそうだから、言わない」
「よく言うよな、それ。でも安心して。そん時は俺が叶えるからさ」

そう笑って、手を繋いだ。聞かなくても、それが前向きな願いだと声音で分かる。誰にも譲らない。たとえ相手が神様でもな。いつかと同じ坂道を、あの頃より穏やかな心を携えて歩く。

「もしかして行きたい所って、
「バレたか。そう、前にふたりで星を観た丘だよ」
「高3の時だっけ。なんか懐かしい」
「あれからもう3年だもんな。早いよなぁ」

あの日、俺がキスしたことを彼女は憶えているだろうか。あれ以来、一度もその唇に触れていない。もう20歳になるってのに、まさかこんなプラトニックな恋愛をしているなんて、我ながら尊敬する。好きな子との甘い青春を夢見てた中坊の俺は、さぞ驚くに違いない。だけど、これだけは断言できる────この恋を選んでよかった。ほんの少し切なくて、堪らなく愛しい。知れば知るほどに溺れていく。端からじわじわと全体に広がって、今の俺の心は彼女一色だ。他の誰と恋をしたって、同じ経験はできやしない。たとえ違う恋を選べるとしても、俺は何度だって彼女の手を取る。

「残りの1年なんて、あっという間なんだろうね」

そう呟く声が切なげに揺れて、俺の心臓も呼応するみたいに脈を打つ。もう答えは決まったの、とそう尋ねることはしなかった。ただ今は、繋いだ手の温かさに身を委ねていたいと思う。たとえこの夢みたいな時間に終わりが来て、いつか思い出になるとしても、本来の輝きのままで仕舞っておけるように。

「そんな悲しそうな顔しないでさ。ほら、笑顔。俺達まだ学生だぜ?今を楽しまないとだろ」

強く手を引いて、丘を駆け上がる。驚いた顔、震える指先、吐く息の白さ。彼女が見せる変化を感じられることができるのは俺の特権だ。少し息を切らしながら、頂上で夜空を仰ぐ。

「あれ……」
「ん、どうかした?」
「いや、なんか…あの時よりも綺麗に見える。前も今も隣にいるのは萩原で、時期も同じなのにね」

不思議そうにそんな事を言うから、また抱きしめたくなる。だってそれは、彼女の中で俺の存在がより大きくなったという証明だから。同じ景色でも、大切な誰かと一緒の方が、何倍も綺麗に映る。こうして意図せず舞い上がらせてくるんだから、天才だと思うわ。募る愛しさを伝えたくて、繋いだ手に力を込めた。それに気が付いて、彼女が俺を見上げる。臆病なくせに真っ直ぐ見つめ返してくる瞳が好き。視線が交わった瞬間、何を血迷ったのか、無意識に尋ねていた。

「キスしてもいい?」
「……萩原は星を見るとキスしたくなるの?」
「ぶはっ、どんな病気だよそれ。星は全く関係ねぇから。むしろ四六時中したいと思ってるし」
「四六時中……でも今まで一度もそんなお願いされた覚えないよ」

真顔で意味不明な質問はやめてほしい。星見たらキス魔になるとか、月で豹変する人狼みたいだ。でもまあ、強ち間違いってわけでもねぇか。

「そりゃ雰囲気に乗らなきゃ無理だろ。ただでさえ勝算が低いんだし。ほんと、打算的だよな」
「勝算?それって、どうなったら勝ちなの?」
「どうってそんなの決まって……おいおい、今日は珍しく意地が悪りぃのな」
「ふふ、ごめんね。萩原、何でも答えてくれるから、つい。じゃあこれが最後の質問。単純に疑問なんだけど、どうして勝算が低いと思うの?」

夜空の下で、彼女が笑う。また乱される。周りの評価は真逆だと思うけど、俺は慎重な男だ。楽観的な方でもない。特に大事なものに対しては。なのに、無駄に目敏い所為で気付いちまうから、苦労するんだ。時々、自分がもっと鈍ければと、そう思うことがある。今がまさに、それ。揶揄うでもなくただ純粋に投げかけられた問い。そこに潜んだ彼女の本音が俺の心を揺さぶってくる。今日くらいは、馬鹿になってもいいかな。

「なぁ、一体どこまで俺を弄ぶわけ?んな反応されて期待するなってのは無理な話だぜ。都合よく捉えっけど、後悔しないでね───ま、もう遅いけど」

引き寄せて、髪を耳にかける。俺を見つめ返す瞳を覗けば、怯えと一緒に期待が混在していた。言葉はいくらでも繕える。まあ苗字は嘘が下手だし、それすら難しいだろうけど、一般論としてだ。逆に身体は正直で、偽るのはかなりの難易度。こういう瞬間、人間の態度には心内が如実に表れるものだ。だからその瞳が語るのは本心だと、そう信じさせてほしい。視線を絡ませたまま顔を近づける。直前、きつく目を閉じるから、笑いそうになった。親指で頬から耳を伝うように撫でながら、唇を合わせて、離す。それを3回繰り返しても、未だそこは強張ったまま。あまりの愛おしさに笑みが漏れる。

「緊張してんの?」
「うん。緊張しすぎて、苦しい」
「なら、お揃いだな。俺もね、すげぇ緊張してる」
「嘘」
「嘘じゃねぇって、ほら」

微かに眉を顰める様子に苦笑しつつ、胸の前で握られていた手を取りあげる。上着のチャックを下ろして、心臓の辺りに導いた。服越しでも、その指の感触にまた胸が鳴る。ただほんの少し、隠すのが上手いだけ。君が笑う度に、手に触れる度に、こいつは五月蝿いんだ。これは、心が幸せだと叫ぶ音。掌から鼓動が伝わったのか、彼女は一瞬目を見開いて。そしてすぐに瞳を震わせると、猫にでも触れるみたいに服の上で手を滑らせる。

「怖い」
「…何が?」
「私の方が破裂しそう。自分の心臓じゃないみた、

最後の一音を飲み込むように唇を塞いだ。食んで、ひと呼吸。角度を変えて、もう一回。懐柔するみたいにゆっくりと、舌を侵入させる。その瞬間に彼女が身を硬くするのを感じて、背中から腰にかけて努めて優しく撫でた────怖がらないで。後頭部に手を回して、もっと深く。隙間を覆うように呼吸を分け合う。その身も心も、俺だけに曝け出してほしい。

「ん……ふぁ…」

嗚呼、理性が犯される。そんな声出すとか、態とじゃねぇの。じゃなきゃ質が悪すぎる。キスの感触だけでも持っていかれそうだってのに、鼓膜まで揺さぶってくるとかさぁ。越えちゃいけねぇラインは分かっている。いや、分かっているつもりだった。手を繋いで、緩く抱き合う。それ以上の触れ合いをすれば、こうして溢れてくるに決まってんだ。胸の奥で燻る身勝手な想いを、口移しで流し込みたくなる。

「はぎ、わら……ッ…ちょっと待っ、て」

そう懇願されて、やっと我に返る。そして、これまた今さら理性が仕事を始めた。無意識に右手で自分の口元を覆う。ところが、涙目で縋るように俺の服を握る姿を見たら、また喉が鳴った。抱きしめることで、噛み付きたい衝動をなんとか抑え込む。

「ごめん。調子に乗りすぎた……怖かったよな?」
「いや、怖くないよ。なんか犬みたいだった」
「犬……え、それってフォローしてくれてるの?それとも本気で言ってる?」
「半々、かな。萩原、前に実家で飼ってた犬にちょっと似てるんだ」
「すっげぇ複雑なんだけど!?」
「ふは、あとで写真見せてあげるね。あと、謝らないで。萩原と触れ合うと、緊張するけど安心する……好きな時間だよ。これからは、もし貴方が私に触れたいと感じたなら、言ってほしい。その時はきっと、私も同じ気持ちだから」

いや"きっと"って、断言しないのかよ。それにさっきのキスを触れ合いって表現されるのは正直微妙。心でそう突っ込んだけど、そんなのは些細な事だ。また、一歩前進。明日からは会う度にキスを強請ろう。そしていつか、言葉なんかなくても自然に触れ合える関係になりたい。そう願いながら、甘い匂いのする髪に頬を寄せた。

「あ」
「どした?」
「えっと、明けましておめでとうございます」
「……やべ、忘れてたわ。ん、おめでと」

腕の中で小さくお辞儀をするのが可愛くて、思い切り抱きしめた。背中に回された腕の感触に、ちゃんと仕舞っていたはずの想いが溢れそうになる。たった2文字の言葉だ。出ちまったところで誤魔化せるだろう。それでも口から漏れたのは息だけ。まだ辛うじてブレーキは機能しているらしい。そんな自分に尊敬と軽蔑を込めて苦笑しながら、柔らかな温もりに身を委ねた。

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