蕾のまま落ちる

※交通事故の描写がありますので、ご注意を。

祝日でも誰かの誕生日でもない。だが、大学3年の3月26日に起こった出来事によって、その日付は俺の中で強い意味を持つことになった────悪い意味で特別な。

「おい、その鼻歌やめろ」
「え〜、だって今日は苗字とドライブだぜ?勝手に出てきちまうんだから大目に見ろって」
「余計にムカつく。頬が緩み切ってんだよ」
「イタッ、伸びる伸びる!」

遅めの昼飯の後、ファミレスでのやり取り。いつも以上にヘラヘラとニヤついている幼馴染の頬を伸び縮みさせる。それを見て、あと1年か、とそう思った。萩原が苗字と始めた曖昧な関係は、大学卒業までだと聞いている。その後どうなるのかは、知らない。ただ一つ確かなのは、こいつらは想い合っているってことだ。頻繁に会っていない俺でも、それは分かる。

「てか、雨やべぇぞ。こんな天気でドライブかよ」
「だな。ま、どんな天気かは正直そこまで重要じゃねぇのよ。隣にいるのが苗字ならね」
「へーへー、お熱いことで」
「……にしても遅いな」

待ち合わせは17時だと言っていた。今は17時3分。それくらい誤差だと、大抵の奴は思うだろう。だが、あの女はたぶん時間は守る。律儀で妙な所で礼儀正しい。そのあいつが、時間に来ない。なんとなく胸が騒ついて、後ろ髪に指を通す。雨の日はよく跳ねる。そんな俺の目の前で、萩原が早速電話をかけ始めた。

「あ、苗字?よかった。時間になっても来ないから……は、誰だよアンタ」

一変した声音に、思わず顔を上げる。低い声でそう言って、萩原は眉間に皺を寄せながら宙を睨みつけた。どうやら電話の向こうにいるのは苗字じゃないらしい。厄介事にでも巻き込まれたか。

「警察?なん、で……ッ、その電話の持ち主に何かあったのか!?え、俺は、その……とにかく教えてくれ、頼むから……交通、事故……」

萩原がそう呟いて、立ち尽くす。駄目だ。完全に茫然自失していやがる。スマホを引ったくって、怒鳴り声で尋ねた。

「ッ、貸せ!おい、どこの病院だ?その女はどこに運ばれたのかって聞いてんだ!!」

教えられた病院はここから車で10分程度の距離だ。詳細は分からないが、車に撥ねられたらしい。そして何故か、苗字の身元を確認された。あいつ、手ぶらだったのか。だが、そんな事を考えている暇はない。通話を切って、萩原の腕を掴む。伝票と金を店員に押し付け、釣りも貰わず走り出した。少し遠くに見えたタクシーに向かって手を上げる。

「オラ、さっさと行くぞ!おい、萩原……しっかりしろ!腑抜けた面してんじゃねぇよ!!」

なんて顔してんだ。初めて見た。あの萩原が動揺している。一瞬だけ、そのことに安堵した。こいつもただの人間なのだと、らしくもない事を思いながら、肩を揺さぶる。木偶の坊と化している親友をタクシーに突っ込み行き先を告げて、飛ばせと注文を付け足した。窓に叩きつける雨とワイパーの音が、重い。ひどい雨だ。お陰でちょっと外に居ただけで、この有り様。春先だってのに、さみぃ。途轍もなく長く感じた10分間、萩原は一言も口を聞かなかった。濡れた髪の隙間から見える瞳は、深黒を湛えながら、ここではない何処かを見つめている。視線を逸らして、一向に弱まる気配のない雨を睨みつけた────散らせたら、殺すぞ。

「お名前は苗字名前さん、年齢は21歳。間違いありませんか?」
「ああ。で、怪我の具合は?」
「まだ手術中ですし、確実なことは申し上げられません。処置が終了するまでお待ちください」

よく言うぜ。顔に出てんだよ。こういう時ばかりは、観察眼ってのを捨てたくなる────決して、安心できるような状況じゃない。大根役者の看護師を見送って、振り返る。項垂れたままの親友に、とてもその事実は伝えられそうにない。かと言って、気の利いた台詞も出てこない。俺もまた動揺しているんだろう。1時間近く経った時、廊下の向こうから足音が聞こえた。男と女、一方は見覚えがある。苗字の父親だ。

「名前さんのご親族の方でしょうか?」
「ッ、はい!名前は、名前は無事なんでしょうか?」
「落ち着きなさい。お前が焦っても仕方ないだろう……手術が終わるまで、少し休ませていただいても構わないですか?」

取り乱した様子の母親。無理もない。むしろ隣の親父の冷静さが、俺には奇妙に見えた。だが、それも一瞬。視界に映る拳は、爪が食い込むくらい強く握られて、震えていた。まるで、身体中でそこだけに、感情を集中させるように。それからさらに数時間が経過し、やっと手術が終わった。親族でもない第三者の俺達が、医者からの説明に同席できるはずもなく、また時間が過ぎる。腕を組んで俯いていると、視界に靴先が映った。男物だ。顔を上げれば、疲れ切った表情で苗字の父親が佇んでいる。

「苗字治孝だ。君達の名前も聞かせてくれるかな。それから少し、話をしよう」

ロビーに人は居なかった。当然だ。夜の10時を過ぎている。差し出された2本の缶コーヒーを、頭を下げて受け取った。片方を萩原に握らせて、強めに背中を叩く。

「シャキッとしやがれ。デカい図体して情けねぇ」
「こんな時くらい優しくしろって……いや、悪い。ありがとな、松田。大丈夫だ」
「萩原くん。一つ質問だが、君は、名前と付き合っていたのか?」
「いいえ。ですが、誰よりも大切な女性です」
「……そうか。なら、事実をありのまま伝えよう。それが、私が君達にできる唯一だ。最初に断っておくが、明るく楽しい話ではない」
「聞かせてください。お願いします」

愚問だろう。そう言った萩原の瞳には、見慣れた光が宿っていた。ああ、やっと戻ったか。だが、これからだ。父親の口から語られた詳細は、俺ですら逃げ出したくなるくらいの内容だった。認めたくないと、誰かが叫ぶ声が聞こえてきて、耳を塞ぎたくなる。俺もそれなりに、あの女を大事に思っていたらしい。だから余計に、表情を変えない萩原の心中は、察するに余り有る。悔しさとか悲しみとか、そんな陳腐な言葉で表せるものではない。その痛みは、想像を絶するものだろう。そう、まるで、胸の中心から身体を食い破られるような。

「今後も名前の傍にいるかどうかは、君が決めなさい。私は、あれこれ口を出せるほど、あの子を知らないんだ。だから、君が望む選択をしてくれ。ただ一つ、どうか約束してほしい。決して、自分を責めてはいけない。こんな父親ですら知っていることだ。名前がそれを望まないことくらい、君なら分かるはずだ……ッ…あの子を見つけてくれて、愛してくれて、本当にありがとう」

苗字を撥ねた車の運転手は、事故を起こす前に意識を失っていたそうだ。もし相手の過失だったら、萩原は拳の一発でも食らわしたんだろう。むしろ、感情の矛先を向ける対象がいる分、その方がよかったのかもしれない。コントロールを失った車は、アクセル全開で歩道へ乗り上げた。その先で撥ねられた苗字の身体は、8メートル向こうまで飛ばされたらしい。大腿骨と右腕を骨折して、内臓をやられても、あいつは死ななかった。しぶとい奴だ。問題は脳への損傷。その所為で深い昏睡状態にあるらしい。俺は医者じゃないから、専門的なことはよく分からないが、脳死とはまた違うと説明された。目覚める可能性もゼロじゃない。同時に、二度と目覚めない可能性もあるってことだ。その日は結局、面会することは叶わなかった。そう告げられて、小さく息を吐く。直後、自分自身が安堵したことに気が付いて愕然とした。苗字の姿を目にした瞬間、萩原は壊れちまうんじゃないかと。そして俺には、そんな親友を見ていられる自信がなかった。その事実に苛つく────俺達の絆は、こんなにも脆いのか。

「松田、今日はありがとな。お前がいてくれてマジで助かった。先に帰ってくれ。俺は少し風に当たって来っから」

片手を上げてそう言った顔は、笑っていた。いや、笑顔と呼べるのかすら怪しい。それは、苗字のあの表情にどこか似ていた。少しの衝撃で崩れそうなほど危なげで、夜の闇に簡単に呑まれちまうくらい儚い。俺の返事を待たずに、萩原は背を向ける。その肩に手を伸ばして、引き戻した。口元には未だに不自然な笑みが浮かんでいる。ふざけんな。両手で胸倉を掴み上げ、喉奥に詰まっていたものを一気に吐き出した。

「お前、どうして笑ってんだ!!そんなんで、俺の目を誤魔化せるとでも思ってんのか!?」
「……笑う以外にどうしろって?」
「泣けって言ってんだよ!聞こえてんだろ!テメェのココは、泣き叫んでるだろうが!!心と身体が矛盾してんの、分かんねぇのか!?こんな時までッ、器用でいるんじゃねぇよ……見破られるくらいなら、最初から隠すなっての。俺の前で仮面なんて着けやがって、クソが!!」

最後にその頬に右拳を見舞う。声を漏らして倒れ込んだ萩原を見下ろして、深呼吸。ああ、スッとした。苦笑しながら「いってぇ」と零した後で、俯いたまま語り出すから、仕方なく俺も座り込む。

「ドライブに誘ったのは俺なんだ。財布を忘れたって連絡がきて、俺が払うから持って来なくていいって返した。今日、あの時間あの場所に、苗字が居たのは俺が、
「あいつの親父の言葉、もう忘れたのか?」
「…今日だけじゃない。名前だって声に出して呼んでないし、一番伝えたかった想いも伝えられてないままだ。清々しいくらい後悔ばっかりで……ッ…吐き気がする」

両手で顔を覆って、悔しげに萩原は言った。こんなに感情的なのは初めてかもしれない。だからか、俺は逆に冷静になれた。さっきから聞いてりゃ、あちこち間違ってんだよ。

「後悔してんのがお前だけだと思うなよ。俺も、あいつの両親も、それに……苗字自身も、悔しいに決まってる。あとよ、自惚れんのも大概にしろ。お前のそりゃあ逃げなんじゃねぇの。自分の所為だって思った方が楽なんだろ?そうでもしないと耐えられねぇから、態と自責してる……違うか?」
「はは……ほーんとナイフみてぇ。グサグサくるじゃん。ちっとは手加減しろって」
「甘えんな。いてぇなら、図星ってことだろ」

俺の言葉に、力無く笑う。その頬は濡れていた。決壊したように、止めどなく。それを拭うこともせず、萩原は立ち上がった。

「陣平ちゃん、絶対幸せになれるぜ」
「んだよ、急に」
「ほら、俺の涙は激レアだから。流れ星的な」
「はっ、野郎の泣き顔なんざ一回で充分だ」

笑い飛ばしてやると、喉を鳴らして肩を組んでくる。少し赤くなった目元が、いつものように緩い弧を描く。その横顔はもう、覚悟を決めていた。大した奴だ。あいつは、二度と目覚めないかもしれない。萩原の名を呼ぶことも、触れることも、笑いかけることもなく、消えちまうかもしれない。それでも傍に居るって、お前がそう決めたなら、俺は何も言わねぇよ。乗りかかった船だ。最後まで、見届けてやる。

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