心だけが遠い

彼女と対面できたのは、悪夢のようなあの日から3日経ってからだった。その悪夢は今も続いている。否、そもそも夢じゃない。正真正銘、現実だ。松田も誘ったが、断られた。たぶん、あいつなりに気を遣ったんだろう。優しい奴だから、俺が居ない時に来るつもりに違いない。病室を訪れた俺を出迎えたのは、苗字の母親だった。明らかに憔悴しきった様子に、何も言えなくなる。

「萩原くん、よね?主人から聞きました。一度だけお会いしたのだけど、覚えているかしら?」
「はい。三者面談の時ですよね?」
「ええ。名前を聞いて、驚いたわ。名前はそんな素振り、少しも見せなかったから」

当たり前だ。今でこそ笑って会話をしたり、触れ合ったりできるようになったが、あの頃の俺は、彼女にとって異分子そのものだった。そんな男の話を、家族の前でするはずがない。

「会いに来てくれたのね……それで、その……あの子、顔に怪我をしているの。だから、
「関係ありません、どんな姿でも」

とは言ったものの、それはあくまで俺の気持ち。彼女が何とも思わないかは別問題だ。見られたくないと、そう思うだろうか。だとしたら、少し嬉しい。だってそれは、俺を男として見てくれている証拠だから。なんて、勝手に妄想して馬鹿みたいだ。だけど、尋ねたところで返事はない。手に触れても、握り返されることはない。抱きしめても、背中に腕が回されることもない。

「なぁんだ、いつも通りじゃん」

ベッドの側に立って、笑った。怪我をしていない方の左頬に手を伸ばして、撫でる───うん、綺麗。頭や手足、あちこちに包帯が巻かれ、肌が露出している所の方が少ないくらいだ。治孝さんの話では、自発呼吸はできているらしい。布団が規則正しく上下する、ただその光景に、どうしようもなく安堵した。

「よっこいせ」

窓際に置かれていた椅子を引いて、腰を下ろす。緩く握られた左手に触れれば、温もりが伝わってきて、堪らなくなる。生きているのだという証。

「ドライブ、連れて行ってやれなくて、ごめんな。俺さぁ、陣平ちゃんにぶん殴られて口ん中切っちゃったんだよね。苗字の言った通りだったよ。あいつ、俺相手だとマジで容赦ねぇの」

そうなんだ。大変だったね。柔らかく笑ってそう返してくれた君は眠ったまま。その瞳に自分が居ることは特別な現実なんだって、分かっていたはずなのに。だからこそ、一瞬一瞬を噛み締めて過ごしてきたはずなのに。

────何処にも行かないで。

彼女はきっと、あの願いを叶えてくれる。そう信じたかった。だから今、目の前のこの現実に、こんなにも胸が締め付けられるんだろう。松田に言葉を浴びせられた時より、苗字の無言の方がずっと痛い。理由は明確だ。彼女が目覚めなければ、俺達の関係は終わることはないが、同時に進むこともない。ずっと、この場所で立ち止まったまま。君はきっと、先に行って、とそう言うんだろう。寂しげに笑いながら、そっと俺の背中を押すんだろう。

「……ッ……置いて行けるわけ、ねぇだろ」

一緒じゃなきゃ意味がない。他の誰かとなんて想像すらしたくない。瞼の裏が焼けるように熱くなって、目を閉じた。白くて柔らかい手に額を擦り付ける。寿命でも何でもやるから、だから、頼むから、目開けてくれって。

────同じ香りがするのって、不思議な感じ。

最後にどんな話をしたっけ。ああ、そうだ。確か使ってるシャンプーの話。苗字がショッピングサイトの画像を見せてくれて、その下の類似商品に俺が使ってるやつが載っていた。配合されてる成分が大体同じで、「これなら一緒に使えるね」と俺がふざけた風を装って言ったら、彼女はなんてことない顔で頷いた。

────綺麗だね。

桜並木の下で顔を綻ばせる姿。春が似合わないだなんて宣った松田に、見せてやりたいと思った。なんであの日、キスしとかなかったかな。視線も交わらなくなるなら、いっそ、欲望に従った方がよかったんじゃないか。たとえ傷付けることになっても。なんて、馬鹿だよな。そんなのは、畜生のすることだ。

────最後の一つ、萩原にあげる。

ふと、耳によみがえった声。それに導かれるようにポケットを漁って、指先に触れた何かを取り出した。掌にあるのは、くしゃくしゃになった飴の包み。桃の絵がプリントされたそれを、握り潰す。こんな最悪なカウントダウン、あって堪るかよ。突き返しておけば良かった。

「大丈夫。俺はちゃんと、ここで傘差して待ってるから。だからさ、そんな顔しないで笑ってよ」

そう頼んだのに、瞼の裏の彼女は、決して微笑み返してはくれなかった。泣きそうな顔で何かを言っている。だけど俺には、聞こえなかった。聞きたくなかっただけかもしれない。説教なんて御免だと、そう思うけど、もう一度声が聞けるなら、お咎めの一つや二つどうってことない。いくらだって聞いてやる。

**

隣に彼女がいない時間は、驚くほど経つのが遅い。だけど、着実に季節は移り変わっていく。世界に置いてけぼりにされる心地がした。そんな俺に松田は何も言わなかったが、澄んだ鋭い瞳で訴えかけてくる────心を殺すなと。お目付け役、恐るべし。都合がいい解釈だけど、それはまるで、親友を通しての彼女からの叱責に思えた。少し手厳しくて甘え下手で、背筋を伸ばして人生を歩く。心が綺麗で、誰もが見落としてしまうような景色を慈しむ、世界一愛しい女。

「ッ、萩原……お前それ……代わりのつもりかよ」

大学4年の秋、初めて煙草を買った。俺がそれを口に咥えるのを見て、松田は顔を歪めながら尋ねてくる。こんなもんで代わりになるわけねぇだろ。笑い飛ばしてやるつもりだったが、結局できなかった。吸い込んだ煙が肺を満たす。その感覚が予想以上に心地が良くて、泣きたくなった。苦いのに甘く感じてクセになる。確かに気休め程度にはなるかもしれねぇな。苗字名前で満たされていた胸の真ん中に、染み渡っていくみたいだ。

──── 陽炎みたいに消してくれたらいいのに。

ゆっくり吐き出して、宙を漂う煙に手を伸ばす。掴もうとした掌の中には、何も残っていなかった。拳を握り、額を寄せる。一緒に足掻いているつもりだった。どんな事からも守ってやるって、思っていた。だけど、現実はあまりに残酷。俺にはただ祈ることしかできない。素晴らしい医術で彼女を目覚めさせることも、超能力で時間を巻き戻すことも、できやしない。世渡り上手とはよく言ったもんだ。いつの間にか、ひとりじゃ歩くことすら難しくなっていた。情けない。不甲斐ない。そう思うけど、弱さだと表現したくはなかった。大事な存在ができたら、人は弱くなるだなんて、嘘に決まってる。

「おい、俺の前で吸うな。目障りなんだよ」
「……はいはい」
「テメェ、今笑っただろ?ぶん殴るぞ!」
「はは!だって陣平ちゃん、苛ついてるって顔じゃないっしょ、それ……煙見るとチラつくから?」

挑発するように尋ねたら、舌打ちされた。図星かよ。目障りだって言い切っちゃうんだから強いよな。偽物じゃ意味がない。現実の姿こそが本物。分かってるよ、そんなことは。でも俺はお前みたいに強くないから、幻想だろうが夢だろうが、縋らなきゃ笑顔すら浮かべられねぇんだよ。煙草を吸っている間は、あの病室に居なくても、彼女を近くに感じた。

「目が覚めて、俺がベビースモーカーになってたらさ、なんて言うと思う?」
「顔歪めて臭えって言うに決まってんだろ」
「いやそれ、陣平ちゃんの感想じゃん」

真面目だから、眉を寄せて叱るだろうな。身体に悪いって尤もなこと言いながら。希望としては「萩原の匂いが消えちゃう」が良い。そして俺の手から煙草を取り上げて、笑ってほしい。口寂しいって言ったら、仕方ないなって顔でキスしてくれるかな。無意識に狡いところがあるから、頬かもしれねぇけど。それでもいいや。それだけで、こんな棒切れ捨てられる。煙草とキスする時間があるなら、君と話をしていたい。もしも、もう一度が叶うなら、今度こそ溢れる想いを全部言葉にする。鬱陶しいくらいの愛情を、その心に捧ぐ。今はきっとその為の準備期間なのだと、そう自分に言い聞かせながら、日々を過ごした。毎秒肥大していく恋心で、胸が軋む。渡せないのに、お構いなしに育っていくもんだから、恐ろしい。

**

「もうすぐ1年か」
「そうだね。陣平ちゃん、最近顔見せに行った?」

大学の卒業式。桜を眺めながら、松田がぽつりと呟いた。順応性は高い方だと思うが、俺は未だ彼女のいない右隣に慣れない。まあ、慣れるつもりなんて少しもないんだけど。ただ、気に入らないこともある。見舞いに行っているお陰で姿を思い描くことはできても、声を上手く思い出せなくなった。動画でも何でもいいから、記録に残しておいたらよかったな。

「そこまで暇じゃねぇ」
「まーたそんな嘘ついて。この前行った時、お母さんが教えてくれたぜ。窓際のお花、松田くんが持って来てくれたのよーって」

子どもみたいな嘘をつくから面白くて揶揄ってやると、松田は決まり悪そうに視線を逸らす。仏頂面で花を買う姿を想像して、思わず笑った。ああでも、高校の時は園芸委員だったんだっけ。改めて考えると、凄え人選。

「包帯、だいぶ取れたみたいだな」
「そうなんだよ〜。寝顔が可愛いからってキスしたらぶっ飛ばすぞ」
「誰がするか!お前の匂いが付いた女なんて願い下げだっつーの」

この春、俺達は警察学校に入校する。見舞い一つも難しくなるだろう。ましてや彼女は眠ったままだから、俺が自発的に会いに行かなきゃならない。電話もメールも手段として選べないわけだ。あ、そもそもメールは無理か。億劫だなんて露程も思っちゃいないけど、警察学校ってのはかなり厳しい場所らしい。その忙しさに感化されて、苗字との時間をいつか義務だと思いそうで、怖かった。そんな恐怖を抱いている時点で失格かもしれない。だけどこの1年、どんな女性と話してみても、心は全く動かなかった。たぶんあの日以来、俺の心は凍っちまったんだろう。溶かせるのはたった一人だけ。触れてくれるだけで息を吹き返すだろうに、彼女の瞳は今も固く閉じられたまま。

「こっちの台詞。頼まれたって、やらないよ」

その次の日、ある許しを得るために苗字に会いに行った。あと数日で、彼女と始めた関係は終わりだ。今の所、そういうことに、なっている。

「契約延長するけど、いいよな。だって、あの時の答え聞かせてもらう約束だろ?」

手を握って、語りかける。無言は了承、だなんて言ったら卑怯だって怒るかな。この時を、ずっと待ち侘びていた。まさかこんな形で迎えることになるなんて、思ってもみなかった。人生ってのは上手くいかないもんだな。伝えたい事がある。そいつは喉先で今か今かと待ってるってのに、出番はまだ先みたいだ。ちゃんと目を見て言うって決めてるから。不服そうに胸の奥に引っ込む想いに、笑いながら謝罪をした。

「頑固な主で悪りぃな」

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