望まねば次はない

雨のにおいがする。玄関を出て、スンと鼻を鳴らしそう思った。泥や埃が混ざり合ったようなその臭いは、好きじゃない。梅雨の季節だから仕方ないが、朝からこうも雲行きが怪しいとやる気がなくなってくる。忘れずに傘を持って家を出た。

「お、今日は一段と元気だね」
「あ?うるせーよ、触んなッ」

いつにも増してふわっふわな松田の髪に、ほんの少し憂鬱が晴れる。怒らせると分かっていながらも、頭を撫でた。ジロリと睨んでくる。予想通りの反応に俺が思わず笑うと、松田は一転、怪訝そうな顔をした。

「なんだ、腹でも痛いのか?」

目敏いな。体調は悪くない。ただ少し、気怠いだけだ。別にと返して席に着く。俺の席は窓際の列の真ん中だ。最初の席替えでここになった。松田は隣の列の一番前。それでも堂々と居眠りをするのだから、勇者と言わざるを得ない。疑わしげな松田の視線から逃れるように、窓の外へと視線を向けた。来る途中で降り出した雨は、どんどん強くなっている。登校中の生徒を流れ見て、思わず声を漏らした。

「雨の日でも自転車なのか・・・」

徒歩で登校する生徒の間を、自転車で走り抜けるのはあの子だ。2階の窓から見ても判別できた。雨ガッパを着ている。こんな日くらい親に送ってもらえばいいのに。それとも本当にすぐ近くに住んでいるとかだろうか。それなら歩いてくればいい。女子にしては長身で、いつも背筋はピンと伸びている。細身だけど、か弱い感じはしない。声は少し低め。持っている情報はそれくらいだ。名前は結局、直接聞くより先に自然と耳に入ってきた−−−苗字名前。可愛いというより綺麗系。基本的に男子とは話さないらしい。廊下ですれ違う時も、彼女は俺を見ない。あの日の出来事を忘れたように、一度も視線が絡むことはなかった。何度か声をかけようかと思いながら、早2ヶ月。

「幻だったのかもな」

もしかしたら、入学式でのやり取りは全て夢だったんじゃないか。そんなことを思うくらい、彼女は俺に無関心だった。だけど、それは少し違う。合同での体育の授業中、たまたま見かけた放課後、昼休み中の教室での様子。彼女は、俺以外にも無関心だ。注意深く観察してみると、それがよく分かった。冷たいとまではいかなくても、周りには淡白な子だと認識されているに違いない。誰に対しても同じ態度、同じ温度で接する。だから、反感も買わない。人間関係が面倒なのか、そういう質なのかは分からないけれど、見てると妙に不安になる。器用に生きてる−−−そんなわけない。あれはまるで、いつ自分が居なくなってもいいように、そういう生き方だ。例えば、彼女が死んだところで、一体何人の人間が大人になるまで覚えているだろう。

**

放課後、コンビニに寄った。小腹が空いていたし、喉も渇いていたから。食べ盛りの高校生に、昼飯から夕飯まで何も食うなってのは無理な話だ。

「あ」

無意識に声が漏れた。それに気付いた松田が、俺の手元を覗き込んでくる。お菓子のコーナーを見ていて目に入ったのは、あの日彼女が二つくれたのと同じ飴だ。何種類かの味が沢山入っている、よくあるやつ。俺が貰ったのは、りんご味とオレンジ味だった。

「お前そんなの好きだったか?」
「いや、前にこれと同じやつ貰ったのを思い出してさ。買おうかな」
「飴玉持ち歩いてる男子とかいるのかよ」
「違う違う、女の子だよ」
「・・・まさか彼女、
「なんでそうなるかな」

ドン引きな顔で見てくるから、笑ってしまう。俺ってそこまで軽薄なイメージなのか。まあ今のは松田も冗談半分だった。この幼馴染は兎も角として、他の奴らからの認識は似たようなものだろう。真面目なつもりはないが、女たらしだと思われるのは正直微妙だ。好きな子ができたら、誰より大切にしたいと思っている。ただそれまでは、少し位のやんちゃは許してもらいたい。

「もしかして、初日の放課後に喋ってた女子か?」

コンビニを出たところで、質問してくる。ていうか、その話まだ続いてたの。まさか松田があの日のことを覚えているとは思わなかった。驚き半分、動揺半分で受け止める。この2ヶ月で何回か思考に乱入にしてくる程度には彼女が気になっているわけだが、これは好意というより純粋な興味に近い。

「怖いな、当たりだよ。陣平ちゃん、あの子が誰だか知ってるの?」
「いや、後ろ姿しか見てねぇし。でも、うちのクラスではねぇな」
「へえ」

軽く返事をしながらも、内心苦笑した。席替えするまでは一番後ろの席だっただから、クラスの人間の背中はよく見えたのだろう。松田は鋭い。俺自身もよく気が付く方だと思うが、こいつのそれは少し毛色が違う。俺のを観察力に基づいたものだとすれば、松田のは直感とでも言えばいいだろうか。時々、何の根拠もないのにピシャリと言い当てることがある。怖い怖い。

「分かったら教えてよ。答え合わせしよう」
「なんだそれ」

意味不明だと言いたげな声だ。別に深い意味はない。ただ、誰かと彼女のことを話してみたいと思った。他の奴らとの会話では、話題に上がったことはない。よくある、どの子がタイプだとか、あの二人が付き合い始めたとか、そういう類の会話で彼女の名前は出てこない。当然と言えばそうだろう。滅多に男子と話さないらしいし、愛想を振りまくタイプにはとても見えない。今頃この雨の中、自転車を漕いでいるのだろうか。そんなことを思いながら空を見上げた。雨はまだ、止みそうにない。小さく溜息を吐いて、差していた傘を持ち直したその時、我が目を疑った。視線の先に、見覚えのあるシルエット。自転車を漕いではいなかった。交差点沿いにあるカフェ、窓際のカウンター席に彼女が座っている。テーブルの上には、マグカップが一つだけ。

「なんだよ、黙り込んで・・・お、苗字じゃん」
「え…陣平ちゃん、苗字さんと知り合い?」
「同じ委員会だからな。隣のクラスだし、名前くらい知ってる。まあ、そこまで親しくはねぇけど。だってあいつ、他人に興味ないだろ」
「そう、なんだ」

同じ委員会だなんて初耳だ。報告する義務なんてないけど、なんか複雑。親しくないとか言っておいて、なんで苗字呼びなんだ。ああでも、女の子をさん付けで呼んでるのは聞いたことないか。気にせず歩き出す松田にバレないように、傘の下からそっと盗み見る。相変わらず、視線は合わない。無意識に尋ねた。

「君は、何を見てるの」
「何って・・・車だろ」

零れた問いに返ってきたのは、松田の声。その答えは確かに当たっているかもしれない。彼女の視線は、歩道で立ち止まる俺達を素通りして、車が走り抜ける十字路を見ている。そんなのを眺めて何が楽しいのかと、普通なら思うだろうが、車好きな俺としては気持ちは分からないでもない。でもあの目は、車を見ているというより、この空間そのものを捉えているようだった。まるで、カメラで写真を撮るように。

「早く行こうぜ」
「そうだね・・・って、どしたの陣平ちゃん。すっげえ機嫌悪くない?なんで?」

松田は気が長い方じゃないが、やけに急かしてくる気がした。ここに居たくない、そんな雰囲気を感じる。態と軽めのトーンで理由を訊いてみる。彼女に気付かれたくないとかだろうか。いや、そもそも親しくないって言っていたし、向こうだって俺達のことを認識していない。悲しいけれど。

「あ?そりゃ誰かさんがこの雨の中で女に感けてっからだろうが」

やっぱり答えてくれないか。いつも通りの不機嫌顔で予想通りの回答が返ってきた。言いたくないってことかね。それなりに付き合いは長い。お互い一番気を許している、と思う。それでも、言えないことはある。たぶん、俺にも松田にも。ほんと人間って難しい。とりあえず、通常運転には通常運転で応えますか。

「なになに、嫉妬?可愛いなぁ、いてッ・・・なにも叩くことなくない?俺が将来禿げたら、陣平ちゃんの所為な」
「そりゃ日頃の行いが悪いからだ」

グーでど突かれた。すぐ手が出るんだから、困る。ジンと痛む頭頂部を撫でて文句を垂れると、まさかの追撃。素行の悪さで言ったら、絶対に松田の方が上だ。なんと言っても、俺は笑顔だし。いつものノリに戻って歩き出そうとした時、目の前の扉が開く。思わず身構えると、運が良いのか悪いのか、出てきたのは彼女だ。視界の端に入っているだろう俺達の横で、傘を広げた。態とやってるんじゃないのか。そう、あの日から俺のことが気になっているけど恥ずかしいとか。そんな淡い期待を持ってみたけど、悲しいことにその動作はあまりに自然。俺も松田もただの景色の一部だと、全身で語っている。

「はい、大丈夫です。近くにいるので、すぐに行きます。上がりも時間通りで」

左手に傘、右手にスマホ。電話の向こうの誰かにそう言いながら、喫茶店の前にある横断歩道の方へ歩いて行く。いつも通り、背筋を伸ばして。ああ、今日が雨でよかった。もし晴れていたら、傘は差さない。その背中を見れば、あの日俺が話した生徒が彼女だと、松田なら気が付いただろう。なんで安心しているんだ。知られたくないのか。何故。格好悪いからか。違う、俺が認めたくないだけだ。たった一度話しただけの、名前と見た目しか知らない女の子が気になっているという事実。認めてしまえば、関わりを持ちたくなる。もっと他の、普通の子が相手なら素直にそうしていただろう。持ち前のコミュニケーション能力を活かして近付いて、彼氏の座をゲットできる自信がある。だけど生憎と、そんなイージーモードではなさそうだ。彼女にとって俺は、そこを歩いているサラリーマンと同じで通行人Aにすぎない。

「バイトか」
「え?」
「今の苗字の電話」

松田の言葉に、改めて思い返す。"上がり"と言っていたし、そうかもしれない。バイトしてるのか。社会勉強か、家庭の問題か。どちらにしても意外というか、大丈夫なのかと心配になった。高校生のバイトと言えば、ファミレスとかコンビニとかだろう。彼女みたいな無関心ガールに接客の仕事は向いていないように思う。

「へえ、意外だな。萩原くんは苗字サンが気になるんですか?」
「陣平ちゃん・・・そう見える?」

ニヤニヤと茶化される。いつもと立場が逆だ。真面目なトーンで返すと、松田は少し驚いた顔をしてから笑った。そして、彼女が去って行った方向を見て一言。

「気を付けろよ。あれはかなり難解な女だ」
「いや、でっかい機械を分解するときと同じ台詞だからね、それ」
「はっ、冗談だろ。ぜってー分解したくねぇな。何が出てくるか分かったもんじゃねぇ。見てると息詰まりそうになんだよ、あいつ」

そう言って、松田は心底嫌そうに顔を歪めた。ああ、お前はそうなのか。俺は違うよ。知りたくなる。なんで、そんな風に生きてるのか。普通の女子高生を謳歌しない理由を、いつか訊いてみたい。

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