吸っても咽せない煙

俺が苗字名前の存在を初めて認識したのは、高1の4月のことだ。つい1ヶ月前まで他人だったはずなのに、萩原と廊下を歩いていると、かなりの高確率で声をかけられた。こいつは目立つ。甘ったるい顔に、流れるように出てくる冗談めいた台詞。女は、大抵これでノックアウト。意味が分からない。

「あ、萩原くん!チョコ食べる?」
「いいの?じゃ遠慮なく、ありがと〜」
「松田くんもどうぞ」
「ああ」

便所に行って帰ってくるだけで、なんでこんなに時間を食うんだ。声をかけられる度に笑顔で応える親友に、呆れを通り越し尊敬する。ついでとばかりに差し出されたチョコを一つ摘まみ、口に放った。萩原はまだ女子と談笑している。先に戻っちまおう。そう思いながらチョコの包みを握り潰した時だ。一人の女が目に止まった。グループの端で、会話に入ることもなくスマホを弄っている。その隣にいる友人が話しかければ顔を上げて答えているところを見るに、一員なのだろう。それでも、俺達の方には少しの視線も寄越さない。女という生き物は、萩原研二という砂糖に群がる蟻のような奴らだと思っていたから、その姿はひどく異質に映った。ただ、よく観察しなければ気付くことはないだろう。上手く溶け込んでる。あいつ────苗字名前は、そういう雰囲気の女子だった。

**

それから一週間と経たないうちに、俺は苗字と会話することになる。この時期お決まりの担当割りの時間。クラス委員長やら委員会やらを決めるあれだ。あまりに退屈だったせいで、俺は突っ伏して意識を手放した。

「おーい、陣平ちゃん。いい加減起きろー。このあと委員会の集まりあんだって。せめて初回くらい顔出しとけよ」

肩を揺すられ、聞き慣れた声が鼓膜を刺激する。顔を上げれば、見飽きた野郎の面が見えた。脳に酸素を回すように欠伸をし、関節を鳴らす。やっと頭が冴えてきたところで、萩原が黒板を指差した。その先を視線で追うと、俺の名前が書いてある。その上にはこうあった────園芸委員。ふざけんな。自分で言うのもなんだが、この面で園芸はない。そもそもなんで男の俺。花と言えば女子だろ、普通。ちょっと居眠りしてただけで、好きでもない花の世話なんざ納得いかねぇ。自業自得だと言ってきたクソ真面目な委員長の顔が浮かんできて、自然に舌打ちが飛び出した。苛つきを隠さずに廊下を進む俺に、ぎょっとしたように全員が道を開ける。悪くねぇ気分だ。まあ、苛々したところで現実は変わらない。どうせ委員会への参加は必須。一年、たった一年我慢すればいいだけだ。目的の教室に着いて、ガラッと扉を開けた。

「お」

思わず声が出た。一番後ろの席にいたのは、見覚えのある女子だ。砂糖に寄り付かない変わり者。どうやらまだ担当教員は来ていないらしい。軽く会話をする奴らがいる中で、そいつはひとりペンを走らせていた。ズカズカと歩み寄って、隣の席に座る。それでも顔を上げる気配すらない。耳栓でもしてんのか。そう思って観察してみるが、髪に隠れていて耳元は見えない。

「なあ・・・そう、あんた」

仕方なく机を軽く叩きながら声をかけると、そいつはやっと顔を上げた。怪訝そうに俺を見て、首を傾げる。そして次の瞬間、度肝を抜かれた。

「陣平ちゃん」
「は・・・ハギの野郎だな。あんた、あいつの知り合いか?」
「ごめん、名前は知らない。前に困ってた時に助けてくれた人が、貴方のことそう呼んでたから」

あの野郎、もしかして女子全員と知り合いなんじゃないだろうな。それにしてもこの女、やっぱり変わってる。いくら萩原がそうしていたからって、初対面の相手をあだ名では呼ばないだろう。

「そいつは萩原、萩原研二だ。タレ目でヘラヘラした奴だったろ?俺をそんなふざけた呼び方するのはあいつだけだ」

そう教えてやると、そいつは萩原と復唱する。俺が述べた特徴と突合させているのか、暫く黙り込んだあと小さく頷いた。どうやら一致したらしい。ついでに自己紹介をする。

「んで、俺は松田陣平。あんたは?」
「苗字名前、よろしく」

そう言うと、再び視線を机に戻しやがった。終わりかよと、心で突っ込む。たぶん、こういう奴なんだろう。眉にかかる程度の長さの前髪、少し切長の目にスッと伸びた鼻筋、見た目だけで言えば美人だ。ふとその手元に目をやり、顔が歪んだ。ノートの上には頭が痛くなりそうな数式が並んでいる。

「それ、数学の課題か?」
「そう。家でやるのが面倒だから、片付けちゃおうと思って。どうせ話す人もいないし」
「現在進行形で俺と話してんだろうが」

呆れたように言えば、そいつはペンを止めて俺を見た。真っ直ぐに見返され、思わず身構える。数秒間の沈黙のあと、納得したように頷いて、広げていた教科書を片付け始めた。

「松田って呼んでもいい?」
「ああ。なら俺も苗字って呼ぶわ。それにしてもあんた、相当変わってんな。ハギに見向きもしない女なんて初めて見たぜ」
「・・・よっぽど仲良いんだね」

それまでと違う声音。言われた内容より先に、その変化に気を取られた。前に向けていた視線を隣の席へと戻して、戸惑う。どこか眩しげに、焦がれるように目を細める横顔を、窓から差す光が照らしていた。我に返って、平常心を装い返答する。

「なんでそうなるんだよ」
「ふたりとも一番にお互いを褒めたから。その、萩原も言ってた。松田はいい奴だって。どんなに仲が良くても、自然に出来ることじゃないと思う」
「なッ・・・別に褒めてねぇだろ、俺は」
「そうなの?どんな女の子でも好きになるくらい魅力的な幼馴染だって言ってるように聞こえた」

理解した。こいつは厄介な女だ。その声に揶揄いの色はなく、ただ真摯に讃えてくる。俺と萩原の関係が、さぞ美しいもののように。冗談めいた口調だったら、笑い飛ばせただろう。だが、そこに宿るのは紛れもなく本心だと、簡単に分かる。いくら俺でもその実直さに不誠実で応えることはできない。

「まあ、あいつは俺に無いものばっか持ってるからな。女を口説くスキルは欲しかなぇけど」
「そう」

俺の精一杯の抵抗に、苗字は小さく頷いた。笑うでもなく、たった一言だけ返ってくる。少し低い声は妙に耳障りが良い。その時ちょうど担当教員が入室してきた。苗字は、会話は終わりとばかりに前を向く。その横顔を見て、僅かに口角が上がった。つい10分前は最悪な委員に割り当てられたと思っていたが、今はそうでもない。どうやら退屈せずに済みそうだ。

「花が好きなのか?」
「別に。ただ、人を相手にするより花の世話の方が気楽そうだったから。誰も立候補する人いなかったし、丁度良かった」
「いや、いねえだろ普通。お前、自分が少数派だって自覚ないのか」

これから世話をすることになる花壇の前で尋ねてみると、包み隠さず本音が出てくる。名前も知らない花に指で触れる所作は、どこからどう見ても普通の女子。見た目詐欺もいいところだ。

「自覚はあるけど、変わるつもりはないかな。こうしていれば、ただ音もなく生きて死ねるから」

いつか溶けて消えちまうんじゃないかと思うくらい静かに、そして儚く笑う奴だった。それから幾度となく見るその顔は、最初こそ目を奪われたが、時が経つほどに嫌いになった。本当に一人で生きていくことを望んでいるなら、何も言わない。勝手にすればいい。だが、こいつは違った。心の奥底では温もりを望んでいるくせに、手を伸ばさない。結局最後までその意地を突き通すことを、当時の俺は知る由もなかった。すぐそこに差し出された萩原あいつの手があったのに。その手を取ることなく、消えちまった。そもそもこの時は、苗字との繋がりが続くことすら想像していなかった。この目の前の風変わりな女が、親友にとって一等大事な存在になるだなんて、予想できるはずがないがないだろう。

**

「悪りぃ、先帰っててくれ」
「え、まさかまた呼び出し?」
「ちげぇよ。花の水やり」

なんでそうなる。速攻で否定すると、ポカンと間抜け顔を晒した後で吹き出しやがった。こいつ、絶対締める。いや、今やるか。それがいい。そう思ったときには、未だに口を覆って笑っている野郎の後頭部に拳を飛ばした。ところが、ムカつくことに阻止される。

「ちょ、暴力反対!悪かったって!だって、陣平ちゃんが怖い顔して花の世話なんて言うから」

自分が一番驚いてるわ、クソが。まさかこの俺が一生のうちで"花の水やり"なんて単語を吐くことになるなんて思っていなかった。自慢じゃないが、俺は他の人間より粗暴だ。少し力を込めれば死んでしまう花の世話なんざ向いてない。そう口にしたら、目の前の男は言うだろう────自分の世話から始めないとね。

「でもまあ、思ったよりも楽しめそうだ」

耳で拾った自分の声が、予想以上に弾んでいて驚いた。少し目を見開く萩原の視線から逃れるように、じゃあなと手を振って背中を向ける。教室を出てから、口元を手で覆う。そんなに楽しみなのかよ、俺は。タイプ、ではないと思う。何を考えているか分からないし、深く付き合うとしたらかなり骨が折れそうだ。そんなことを思いながら顔を上げた廊下の先に、件の女がいた。外に向けられていた視線が、俺を捉える。よおと手を上げようとしたら、苗字は一度瞬きをして階段を下りて行こうとする。おいおい、行き先は同じなんだから普通は声かけるだろ。なんて、普通じゃない女に言っても無駄か。

「煙みてぇ」

開け放たれた窓から春風が入ってくる。靡く髪を見て、そう呟いた。好きだったのか────分からない。あの日に観覧車の中で吹っ飛んじまうまで、まあつまりは最期まで、俺は自分がこの女をどう思っているのかなんて考えようとしなかった。それに、萩原以外の男がこいつの隣にいる景色を思い描くことができなかった。たとえそれが俺自身でも。

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