焼き付くひと夏の記憶

夏が来やがった。毎日毎日仕事をして、太陽様はご苦労なことだ。だが、喜ばしいこともある。学生限定の素晴らしき長期休暇、そう夏休み。7月中旬。一学期が終わり、明日から夏休みが始まる。口煩い教師の説教も、眠くなる現代文の授業もない。なのに、だ。終業式が行われている体育館は異常な暑さで、お決まりの校長の有り難ーい話はクソ長い。昼寝できればいいが、生憎と環境が悪い。寝苦しいに決まっている。

「長ぇ、あちぃ、ダルい、帰りてぇ」
「陣平ちゃーん。そんな古文の活用みたいに言ったって現実は変わらないよ」

身長順に並ばされているから、俺の隣は萩原だ。男子二列、女子二列。この野郎、いつの間にか身長抜かしやがって。暑さで些細なことに苛つく。校長の顔も見飽きてきた。なんとなしに視線を壇上から外す。

「このクソ暑いのに、なんで長袖なのかねぇ」
「女の子は色々あるからね。日焼けとかさ」
「少しくらい焼けてた方が健康的でいいだろ」
「それは陣平ちゃんの好みでしょ」

女子は皆、揃いも揃って長袖を着ている。見てるだけで暑い。あのうちの何人かは、絶対後悔しているに違いない。だからか、半袖の女子は目立つ。俺達の一つ前の列、女子だから位置で言えば斜め前だ。隣の奴と話したり、退屈で船を漕ぎ出す奴がいる中で、そいつは涼しい顔で校長の話に耳を傾けていた。苗字名前。袖から伸びる腕は白くて、折れそうなほど細い。全然健康的じゃねぇ。ちゃんと食ってんのか。驚いたことに、天下の(笑)萩原研二はこの女のことが気になっているらしい。止めておけとは言わない。萩原は身の引きどころは見極められる男だ。アクセルしか付いていない俺とは違う。そこでやっと、長い話が終わりの兆しを見せた。やっとかよ。窓から生暖かい風が入ってくる。この程度じゃ全く涼しくない。むしろ不快だ。ふと、鼻腔をくすぐる夏らしい柑橘系の匂い。へえ、女子らしいところもあんだな。少し意外で、口角が上がる。それを誤魔化すように、萩原に声をかけた。

「腹減ったな。なんか食って帰ろうぜ」
「いいね、乗った」

**

夏休みの三分の一が過ぎた、8月の初め。俺はその日、目覚まし時計を分解していた。壁に投げつけた所為でぶっ壊れた。あの程度の攻撃に耐えられねぇとは、柔な野郎だ。だが、お陰で至福の時間を堪能できる。たまにこういう褒美があるから、便利だからってスマホばっかに頼る気にはならねぇんだよ。道具片手に座って、舌舐めずりしたその時だ。

「陣平ちゃーん、いるー?」
「いねぇ」

なんとも気の抜ける声が俺を呼んだ。なんてタイミングで来やがる。居留守を使えばいいのに、思わず返事をしてしまった。いるじゃん、と早速突っ込まれる。

「今から楽しい分解タイムなんだよ。邪魔すんな」
「実はさ。今度、皆で映画に行こうって話になったんだけど、陣平ちゃんもどう?」

人の話を聞けよ。勝手にペラペラと用件を話し始めた幼馴染に、盛大に溜息を吐いた。加えてその内容に段々と眉間に力が込もっていく。予想通り、最後に誘いがきた。それに用意していた答えを返す。

「映画だぁ?パス」
「そう言わずにさ。女の子も来るって」
「ハギよ、それで俺が行くって言うと思うのか?」
「まあ、そうなんだけど。折角の夏休みなんだし。陣平ちゃん、機械としか遊ばないじゃん」

本人がいいって言ってるだろうが。結局、半ば引き摺られる形で同行させられた。待ち合わせ場所の駅前には、すでに何人か集まっている。同じクラスの連中もいるが、それ以外もいるらしい。

「あ、松田くんだ。あたし、話してみたかったんだよね。来てよかった」
「わお。陣平ちゃん、モテモテだね」
「うるせぇ」
「遅れてごめん」

背後から聞こえた声に、ニヤついていた萩原の表情が強張る。萩原の反応で、誰だか見る前に分かってしまった。振り向けば、想像通りの女子の姿−−−勇者、苗字名前。フリルやらリボンやら装飾の多い服を着た女子ばかりの中で、パンツにシャツというシンプルな服装。だが、決して見劣りはしない。背が高めなのと、姿勢がいいからだろう。そんな事を考えながらチラと隣の幼馴染に視線をやると、いつも通りに戻っていた。ヘラヘラと笑いながら、別の女子と話している。気になるんなら、声くらいかければいいものを。なんてのは余計な世話か。観せられた映画は、あろうことか恋愛ものだった。よりにもよって。絶対あのボクシング映画の方が面白いだろうが。

「面白かった〜。最後泣きそうになっちゃった」
「そうだね。ラストシーンはすごく感動的」

ピッタリと横に張り付き俺に声をかけてきたのは、最初猫撫で声で話しかけてきた女子だ。萩原が気を遣って俺の代わりに返事をする。距離が近い。思わず腕を振り払いたくなる。やっぱり来るんじゃなかった。ファミレスに入った頃には、本気で後悔し始めていた。

「折角だから男女交互に座ろうよ」

何が折角だ。露骨に顔に出ていたのだろう。萩原が顔を覆う。こいつも精々後悔するといい。そんな俺達の横を素通りしたのは、苗字だ。異性の隣と聞いて、他の奴らが逡巡する中、そいつは迷わず一番端に座った。しまった、先手を取られた。まあ、この隣にいる女が離れない以上、最悪の時間になるのは同じか。佇んだままの萩原の腕を引っ掴む。

「え、陣平ちゃん!?」
「お前、そこ座れ」

半ば無理矢理、ソファの奥へと押し出した。戸惑うように見てくるが、シカトする。一方、苗字は狼狽える萩原を気にする素振りはなく、メニューを広げ出した。俺はその向かいに腰を下ろす。すると案の定、例の女が隣に座ってきた。それに続き、他の連中も席に着いていく。

「松田くんってワイルドだよね。その髪の毛、天パなの?」
「ああ」

適当に返事をしながら、斜め前の幼馴染を睨み付ける。居心地が悪いのか視線を逸らしやがった。その隣では、苗字が持ってきたドリンクを啜っている。俺達四人の間だけ妙な空気が漂っていることに、周りは気付かない。正しくは、俺と萩原しか気付いていない。この隣の女も、苗字も、全く気にしていない。ところが、驚くべきことが起きた。

「体調悪いの?」
「え・・・」

凛とした声が鼓膜を揺らす。思わず凝視してしまった。萩原にそう尋ねたのは苗字だ。会話を持たせるためじゃない。本気で訊いているらしかった。まあ確かに今の萩原は落ち着きなく、顔色も良いとは言えない。だがそれはテメェが理由だと、悩ましている張本人に教えてやりたい。

「いや、そんなことないよ」
「そう、ならいいけど。ああ、私の隣だと退屈だよね。気にせず向こうの会話に混ざっていいよ」

自虐じゃなく、ただの事実のようにそう言って、談笑している他の奴らを指差した。なんとか会話を盛り上げようとしないところが、あまりに清々しくて思わず吹き出しそうになる。話す気はないらしい。こいつ、何で今ここに居るんだ。俺と同じで付き合わされただけなのか。

「しないよ。折角、苗字さんの隣に座れたのに」

あーあ、怒らせたじゃねぇか。苗字はそれに僅かに目を見開いたが、一瞬で元に戻る。そして奇怪なものでも見るように萩原を見つめ返した。こいつ絶対、何で怒ってんのか分かってねぇな。その時、隣の女が不満げな声を上げる。観察していたせいで返事が疎かになっていたのだろう。

「うるせぇな。ベタベタ触んな、あ」

盛大に舌打ちし、腕を振り払ってから気付く。思わず本音が漏れた。俺の言葉に驚いたのか、女はポカンとした後、腕を引っ込める。そして立ち上がると、走り去ってしまった。シンとなんとも言えない空気が立ち込めるが、ぶっちゃけスッとした。やめろ、俺が悪者みたいじゃねぇか。苦笑いの萩原を睨み付ける。

「あの子の会計、誰が払うのかな」
「・・・そりゃ泣かせた本人じゃない?」

苗字が全く見当違いな疑問を口にすると、萩原が俺を見て笑った。結局、不本意ながら俺の財布から金が抜かれる。最悪な一日だった。帰りは自然と解散になる。俺と萩原は同じ方向だから、当たり前のように並んで歩き出した。すると、萩原が立ち止まる。

「んだよ、帰ろうぜ」

今日はさっさと帰って、風呂入って寝る。俺の言葉に頷くことなく、萩原は別の方向を見ている。その視線を追えば、未だ解散場所で電話をしている苗字の姿。暫くすると、スマホをポケットに入れて俺達とは逆方向に歩き出した。その背中に声をかける。

「おい、苗字」
「ちょ、陣平ちゃん」
「・・・ああ、松田。なに?」

声をかけると、苗字はゆっくりと振り向いた。そして、俺達の方に近付いてくる。身長は160cmくらいか。不思議そうに見てくるそいつに、尋ねた。

「お前、これからバイトか?」
「そう、だけど。よく分かったね」
「この間、偶然電話してるとこ見かけてな。女一人じゃ危ねぇだろ。この優男が送ってやる」

隣で突っ立っている親友を指差した。「おい」とブツブツ言ってくるが、無視無視。俺の提案に、苗字は訳が分からないという顔をした後、一言。

「いらない。まだ明るいし、人通りも多いから。用事はそれだけ?なら、もう行くね…ッ、

妙な遠慮じゃなく、本気で不要だと思っているようだ。おーおー、一刀両断かよ。それで焚き付けられたらしい。想像通り断ろうとする苗字の腕を、萩原が掴んだ。やるじゃねぇか、優男。

「悪い、松田。先帰っててくれ」
「おう」

軽く手を振ると、萩原は僅かに口角を上げる。その背中を見送って、さあ帰るかと思った時だ。踏み出そうとした足が止まる。親友の隣を歩く苗字の後ろ姿を見て、無意識に口元を覆った。あの入学式の日に見た背中と同じ。なんで今まで気付かなかったのか不思議だ。苗字は女らしくない。誤解がないように言っておくと、褒め言葉だ。なんと言うか庇護欲が刺激されない。つまりは他の女より立ち姿が凛々しい。だから見れば一発で分かったはずだ。そう言えば、今まで背中を見たことはないかもしれない。だからか。それに何より、"あの入学式の女"が萩原の中で他より特別なのは感じていた。そうじゃなければ、正体が分かったら答え合わせをしようだなんて言わない。それに、苗字名前のことも気にしていた。そこをイコールで結ばなかった自分と、心中穏やかじゃないだろう親友を鼻で笑う。

「はっ、誰が"ただの同級生"だよ。思ったより早く答え合わせ出来そうじゃねぇか、ハギ」

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