記憶の彼方から

「よォ、随分と派手にやられたな」

最初の見舞いは、一人で行った。何故って、隣に萩原がいたら、言いたい事も言えやしないと思ったからだ。だが扉を前にした今、やっぱりあいつと一緒に来るべきだったと後悔した。対面した瞬間、何を感じるのか、そしてどう行動するのか分からない。取り乱す気もしなければ、冷静でいられる気もしない。しかし、ここまで来て帰るのは、なんとなく癪だ。そんな曖昧な心持ちを誤魔化すように軽く頭を掻いてから、病室に入る。結局、いつもと何ら変わらねえ挨拶が勝手に出てきて、悩んだのが馬鹿らしくなった。

「お前よ、約束破りやがったな。目ぇ閉じねぇって言っただろうが……この大嘘吐きめ」

窓枠に寄り掛かって、その横顔を見下ろした。あまりに穏やかな面で寝ているもんだから、笑いながら説教してやる。刹那、開け放たれた窓から入り込んだ風が、髪を撫でていった。ごめんね、とそう言われた気がして、舌打ちが飛び出す。テメェの所為じゃねぇことで謝るなっての。

──── 松田は悪いと思ってないことに謝罪はしないでしょ。どっちかって言うと、尊敬するかな。私には出来ないから。

ああ、そうだったな。真顔で喧嘩売ってくるくせに、妙なところで臆病な奴だ。そんな女が、やっと歩き始めたってのに、これかよ。やっぱり神様なんて居ねえじゃねぇか。賽銭入れなくて正解だったな。こいつは、まだ辛うじて世界と繋がっている。だがそれは、神の加護なんかじゃない。俺はそんな非科学的な力よりも、苗字の生命力と、萩原との絆が理由だと信じている。

「根性見せてみろ。自信がねぇとか、ふざけたこと吐かすなら、女だろうが容赦しねぇからな。お前は、萩原が惚れた女だ。奪うだけ奪って投げ出すなんざ、あり得ねえだろ。死ぬなら、あいつの想い受け取ってからにしろや……ったく、シカトかよ」

溜息ごと吐き出して、空を見上げた。どんなに悔やもうが嘆こうが、世界ってのは滞りなく進む。苗字の存在だけを乗せたまま。こいつの心は、あの日で止まっちまってるのに。嗚呼、やっぱり見舞いなんか来るんじゃなかった。らしくもない感情が湧いてくる。瞬きを堪えながら、病室を後にした。俺には、この女のために流す涙はない。深呼吸をして、眉間に力を込める。滲んだ視界のまま、廊下を歩き出した。

**

「萩原くん、松田くん。少しいいかな?」

3月31日、病室から出たところで苗字の父親に声をかけられた。断る理由もないから頷けば、萩原とふたり、院内の休憩スペースに連れて来られる。机を囲むように座ったのを合図に、目の前に二つの箱が差し出された。

「……これは?」
「名前から君達に。妻があの子の部屋を掃除した時に見つけてね。今日の日付が書かれたカードと一緒に置いてあったそうだ」

萩原が驚いたようにこっちに視線を寄越す。いや、そりゃ俺の反応だろ。お前は兎も角、なんで俺もなんだよ。相変わらず掴めねえ女だ。戸惑う俺達に、父親が付け足すように再び口を開いた。

「用意したのは多分、今年の正月だろう。実家に帰って来た時、紙袋を持っていたから中身を訊いたんだよ。そしたら、大切な人達に贈るんだと、名前はそう言って笑ったんだ。あんな顔をしたのも、そんな事を言ったのも初めてで、ひどく驚いた。私から渡されるのは複雑だろうが、君らが警察学校に入ると聞いて、渡せるうちに渡しておこうと思ってね」

大切な人達ねぇ。だから、なんでそこに俺が入ってんだっての。親切にした覚えなんか少しもない。むしろ傷付けるような言動の方が多かった。それで萩原に何回咎められたことか。だが思い返してみれば、俺が何を言っても、苗字は礼を言うか笑うかだった。妙な気分だ。つまり何か。親切心なんて込めたつもりのない言葉を、あいつは俺の優しさとして捉えていたってことかよ。曲解しずぎだろ。頭で突っ込みながら、改めて二つの箱を見下ろした。大きさが違う。

「こりゃ一回開けなきゃだな。箱の大きさだけじゃ俺宛てか陣平ちゃん宛てか分かんねえ」
「俺がデカい方を開ける。お前はそっち」
「デカい方って、子どもかよ……まあ、いいけど」

蓋を開けて、口元に笑みが浮かぶ。萩原の方を見なくても断言できる。こっちが俺宛てだ────箱の中にはさらにケースが入っていた。中身は形で分かる。たぶん、サングラス。

「お、流石。良い趣味してるねぇ」
「なんだそれ、首輪か?」
「いや、ネックレスな」

派手なこいつに贈るにはシンプルなデザインだ。だがまあ、そこは贈り主のセンスだろう。それに恐らく、似合うかどうかは、萩原にとってそこまで重要じゃない。好きな女が自分の為に見繕ったという事実だけで充分なんだろう。それくらい、俺にも分かる。

「今日は、何か意味がある日なのかい?」
「……はい、とても」

それだけ返して、萩原は笑う。正しくは、意味を持つはずだった、だろうが。こんなことにならなきゃ、お前らは晴れて恋人同士になれたはずだ。名前で呼んで、笑い合っていたに違いない。そんな甘ったるい光景を見たかった。死んでも口にしてはやらないがな。

**

22歳の春、俺と萩原は警察学校に入った。そこで出会った奴等は、俺にとって後にかけがえのない存在になる。だが、面倒だからコメントは一人一言ずつにしておく。まず降谷零、パツキン野郎。次に諸伏景光、ヒロの旦那。んで最後に伊達航、班長。以上だ。

「あれ、随分と重そうな荷物じゃん。手伝おっか?どこまで運ぶの?」
「あ、ありがとう……資料室まで」

まあ、予想はしていた。萩原研二は生きているだけで目立つ。だからって、笑顔を振り撒くなとか言ってやる気にもならない。そもそもあいつは"フリー"なわけだし、デートだろうが合コンだろうが、するのは勝手だ。だけど、なんかムカつく。苛ついている自分自身にも。

「なーに怖い顔してんだよ、陣平ちゃん」
「っるせ、話しかけんな」
「ははーん。思ってること当ててやろうか?惚れてる女がいるくせに、他の女子に構うとか正気かよ……と、こんなとこか?どうよ、当たってる?」
「あーあー、そうだよ!」

肩に回された手を振り払う。余裕な態度で返されるから余計に神経に障るんだよ。たぶん苗字は、この場にいたとしても何も言わない。だがそれは、何も思わないのとは違うだろ。あの女だって、萩原を想っている。それはこいつも分かってるはずなのに、なんでヘラヘラと愛想振り撒けるのか、俺には理解できない。

「警察官になるには優しさが必要なんだって」
「はあ?」
「警察官を目指してるって話した時、苗字が俺に言ったんだよ────誰かを守るためには強さ以上に優しさが必要だって。例えばさっきの子が野郎でも、助けが必要そうな場面なら、俺は声をかけたぜ。だから、いくらお前に責められようが、この生き方ばっかりは譲れねぇんだわ。苗字にとって、理想の男でありたいからな」

瞬間、覚えたのは恐怖。この時には、苗字が傷付くだとか、こいつが女にだらしないとか、そんな事は二の次になっていた。恋ってのは、温くて綺麗なだけじゃないらしい。まさか苗字の存在が、萩原を堕落させるだなんて、思いもしなかった。どうすりゃいい。

──── 殴ってでも、目を覚まさせてあげて。それはたぶん、松田にしか出来ないから。

言われた通り飛び出しそうになる拳を、奥歯を噛み締めて止める。今になって、あの時の言葉に背中を押されるとはな。俺が萩原の目を覚ますだなんて、何を馬鹿なことをほざいているのかと思ったが、流石は苗字名前だ。未来予知かよ。毅然とした表情を思い出して、笑った。そんな俺を怪訝そうに見返してくる阿保面を、睨みつける。

「見損なったぜ。お前は、苗字の為に他人に優しくするのかよ?だとすれば、そりゃ偽善と同じだろうが。お前の優しさは常に、ひとりじゃなく誰かの為だったはずだ。それが、俺の知ってる萩原研二だ。一体どこに落っことしてきたんだよ……ッ…お前は今、惚れた女を理由にして、自分らしさを捨てようとしてんだぞ!?それがどんなにクソダセー事か、お前に分からないはずがねぇだろ!!」

右手で胸倉を掴んで詰め寄った。まさか俺がこいつを叱る時がくるなんてな。人生分からねえもんだ。これで響かないなら、絶交するぜ。騒ぎを聞きつけて、見慣れた3人が駆けて来た。一方で萩原は、呆然と俺の名前を呼んで、瞳を揺らす。なんて顔してんだよ。母親を見失ったガキみたいだ。痛感した────いつの間にか苗字の方が道標になっていたことを。最初は逆だったはずだ。萩原があいつの手を引いていた。近くにいたのに、俺はその変化に気づかなかったってのか。

「おいおい…どうしたんだ、お前ら」
「何でもねえよ」

班長にそう尋ねられてやっと、大きく息を吐く。素っ気なく返事をして背を向けた。これ以上この場にいたら手が出そうだ。いやでも、苗字は殴っていいって言ってたな。やっぱ一発殴っとくか。

────きっと、殴る方も痛いよね。

儚げな声が鼓膜を撫でる。ああ、痛えよ。現実でそんな会話を交わしたことなんてない。俺も大概だな。あの女に絆されているのは萩原だけじゃなかったってことだ。自分を諌めるために、ここには居ない苗字を利用した。今欲しい言葉を、あいつの声で再生したのがその証拠。

「松田」
「……なんだ、ゼロか。説教でもしに来たかよ?」
「いや。君に非がないことくらい、萩の顔を見ればわかるさ。ただ、泣いてるんじゃないかと思って」
「はっ、誰が泣くかよ。ガキじゃあるまいし」

その声に揶揄いの色がないから、上手く笑い飛ばすことができなかった。こんな所で、立ち止まってるわけにいかねえだろ。なあ、萩原。置いて行きたくないって、そう思ってることくらい分かってる。俺だって、忘れるつもりなんか微塵もない。だが、お前のそれは、ただ囚われてるだけだろうが。抱えて行けよ。苗字は弱くない。目覚めたら、お前の所までひとりで歩いて来るさ。あいつをそこまで強くしたのはテメェだろ。

「…ッ……雨が降るなんて、聞いてねぇぞ」
「そうだな。大丈夫、通り雨だ。すぐに止むさ」

瞼が熱い。誤魔化すように空を仰いで目を閉じた。出てくるんじゃねえよ。最後に泣いたのはいつだったか、何が理由だったのか、憶えていない。ひとりだったのかも、萩原が隣にいたのかも。だが少なくとも、ここまで遣る瀬無くはなかった。それだけは確かだ。

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