眩み、惑い、醒める

「おい、萩原。大丈夫か?」
「……え、ああ。いやぁ、格好悪いとこ見せたな」
「そんなことないよ。ただ、松田が萩原より格好良かっただけだから」
「ひぇ〜、容赦ねぇ。諸伏ちゃんって、可愛い顔して結構キツイよな」

班長に声をかけられて、やっと我に返る。なんとか笑顔で答えた俺に、眉を下げて諸伏ちゃんが一言。いや、慰めてくれてるの表情だけじゃん。言ってることはかなり辛辣なんだけど。苦笑しつつも返事をする。

「確かに男前だよなぁ。俺が女だったら惚れてるかも……しっかし、言葉だけだったのが意外だな。ぜってぇぶん殴られるかと思ったのに」
「そっちの方が痛えからじゃないのか?」
「うわ、なんかマジでそんな気がしてきた」

今もまだ心が軋んでる。完全に無意識だった。今まで通り、行動していたつもりだった。だけどいつの間にか、彼女が肯定してくれた自分でいたいという思いの方が先を行っちまっていたわけだ。それをまるで誇らしい事みたいに、俺は松田の前で語った。

「はは、ほんとクソダセーな。松田は?」
「向こうに。今はゼロが一緒……あ、戻って来た」

振り向いて、目に飛び込んできた光景に思わず吹き出しそうになる。ポーカーフェイスが苦手なのは知ってるけど、少しは練習した方がいいと思った。

「え、陣平ちゃん。もしかして泣いッ、
「てねぇわ、クソが!!」

指を差しかけたその時、尻に回し蹴りされた。相変わらず嘘が下手だなぁ。フイと視線を逸らす横顔に、心で礼を言う────ありがとな。お前が親友でよかったよ、本当に。

「それで、惚れた女って誰なんだ?」
「え、ちょ、諸伏ちゃん?そこ広げるの?」
「言葉のまんまだろうが。この女誑しを骨抜きにしてる奴がいるんだよ」
「萩原を骨抜きって、まさか魔女か何かか?」
「班長よぉ、真顔で言うのやめてくれって……でもまあ、魔力的な魅力って意味なら正解かもな」
「いや。むしろ呪いだろ、あれは」
「よく言うぜ。自分だって当てられてるくせによ」

苦い顔で呪いだなんて言うから、笑った。どの口が言うんだか。ついさっき、その誰かさんの事であんなに声荒らげてたくせに。ギロリと睨んでくるから、肩を竦めて見せる。

「萩が夢中になる女性か……会ってみたいな」
「────オゥよ、いつかな」

**

やられた。扉を開けた瞬間、そう思った。何が普通の飲み会だ。嘘っぱちじゃねぇか。笑顔で俺を誘ってきた同期は、知らん顔でビールを飲んでいる。

「おい、どうするよ。帰るか?」
「いんや、付き合うさ。女の子達に悲しい顔させるのは俺らしくねぇからな」
「ふーん。あとで苗字に言っとくわ」
「おま、自分らしさを捨てんなって言ったのはどこのどいつだよ……頼むから、絶対やめてくれ」
「ぶっ!必死かよ、色男」

先に来ていた降谷ちゃんの話だと、俺を餌に彼女達を釣ったらしい。その事実を知らせようとしたが、俺の方が先に着いちまったってわけだ。ったく、モテる男はこれだから困る。まあ、彼女持ちの班長もいるし、大丈夫だろう。と、安易に同席した俺が馬鹿だった。

「萩原くん」

トイレに立った時、廊下で呼び止められた。振り向けば、今日の合コンに参加している子のひとり。俺が言うのもなんだが、警察学校に通っているにしては派手な方だ。顔も可愛い。なのにちっとも心動かされないんだから不思議なもんだ。我ながら一途すぎて泣けてくるぜ。

「ん?どうかした……ッ、

身体を向けて返事をした途端、距離を詰められた。瞬時にまずいと脳に信号が走る。なのに、足が地面から生えてるみたいに動かなかった。決して、断じて、男の性が理由じゃない。鼻先を掠めた匂いの所為だ────それは今、ここには居るはずのない彼女が纏っていた香り。頭では理解している。目の前のこの子は、苗字じゃない。彼女はこんな不快になる量は付けなかった。身体を密着させて初めて感じるくらいの控えめな香りだった。だがその一瞬の迷いが、俺の動きを鈍らせる。肩に触れてくる細い指先を、ただ見つめることしかできなかった。

「おい、女。何してやがる?その手、離せ」
「キャッ!」
「ま、つだ……」

横から伸びてきた手が、今にも俺の首に回されようとしていた腕を掴み上げる。女の子にその扱いはないだろ。と、そんな事を思う余裕すらなかった。

「いいか、よく覚えとけ。こいつに触れていい女はな、この世でひとりだけだ。それは間違ってもお前じゃねぇんだよ。分かったら、とっとと失せな」

地の底から出したみたいな声と、冷たさと鋭さを混在させたような瞳に、俺も息を飲む。向けられた張本人は堪ったものじゃないだろう。怯えたように小さく謝ると、そそくさと奥に消えて行く。

「クセェな……ったく、ガードが緩いんだよ。匂い一つで惑わされてんじゃねぇ」

犬みたいに鼻を動かした後、松田が言う。生憎と、ガードの仕方なんて忘れちまった。だって今まで攻めなきゃならない相手だったんだから。香りだけで身体の自由が効かなくなるなんて、松田が『呪い』と評したのは強ち間違いじゃなかったのかもしれない。自覚はある。街中で似た姿を見つけると、足を止めずにいられない。もしかしたら目が覚めて、俺を探しているんじゃないかって。だけどよく観察した後で、一気に現実に突き落とされる。髪の色、仕草、声の感じ、後ろ姿。相違点が一つでもあると、途端に心が冷えていく。

「おい、萩原。まさかお前、そこらの女で埋められるとでも思ってんじゃねえだろうな?」

視界が揺らぐ。ほんと容赦ねぇな、こいつ。心の端まで見透かされている気がする。さっき、ほんの一瞬だけ頭を掠めた思考────この子が苗字だったらなぁ。間違いなくその言葉は、俺の声で再生された。こんなもの、本心じゃない。そう断言できる。だけど、一欠片でもそんな愚かしい望みが自分の中にあったことが、許し難い。誰でもいい。そこだけ切り取って焼却炉に捨ててくれよ。黙ったままの俺を、ナイフのような瞳が射抜く。ああ、こりゃまた刺されるな。

「中途半端な事してみろ。ぶっ飛ばす。その場凌ぎの馴れ合いで、全部棒に振るつもりか?お前それで、あいつが目ぇ覚ました時、本気で笑えんのか?」

おいおい、超怖いんだけど。謝罪も反論も受け付けませんって顔だ。たぶん、喧嘩なら買ってくれる。絶対嫌だわ。松田と殴り合って無事でいられるのなんて、降谷ちゃんくらいだろ。

「お前が諦めたところでな、あいつは別に怒りやしねぇよ。あのふざけた顔で笑うだけだ、仕方ねぇってな。たぶんそれが、お前にとっちゃ一番キツいだろうが、今のあいつはそれすら出来ねえ。だから、俺が代わりに言ってやってんだ。無駄に長く一緒にいるからな、どんな言葉が沁みるのかくらい分かるんだよ────親友様を舐めんじゃねーぞ」
「……陣平ちゃんって、マジで良い男な。すっげぇ刺さったわ。致命傷なんだけど」

なんかもう、人間として尊敬するわ。今更ながら焦る。気を抜いたら、掻っ攫われそうだ。口では厄介だとか言ってても、知ってるよ。お前なりに彼女を大事に思ってること。人間関係には不器用で、愛想もないけど、男気があって真っ直ぐで。好きな女には、信じられないくらい優しく触れるんだろう。嗚呼。考えれば考えるほど、お前の方が、こんな情けない男よりずっと彼女に相応しい────それでも、無理だ。苗字が俺以外でよくても、俺が、彼女じゃなきゃ駄目なんだ。最後に拒絶されたとして、俺はこの手を離せるだろうか。あの日からずっと息をするのも辛いってのに。

「はぁ〜。こんなザマじゃ、幻滅されちまうな」
「……ばーか。お前がみっともない姿を晒したところで、あいつは見限ったりしねぇよ。こんな風に眉下げて、飴玉寄越すだけだ」
「ははっ、それ真似してるつもりかよ?全く似てねぇからやめろって!」

人差し指で眉を下げて、顔真似をかましてくる。クオリティ低すぎだし、お前じゃ可愛さ半減どころか全滅なんだよ。てか、誰がやったって響かねぇわ。欲しい言葉も、観たい景色も、感じたい温もりも。その全てを俺に齎すことができるのは、たったひとりだけ。

**

「それで昨日もさ、陣平ちゃんにきつ〜いお灸を据えられちゃったわけ」

静かな病室に、俺の声だけが響く。窓からの風が、緩やかに頬を撫ぜていった。季節は夏から秋に移り変わろうとしている。

「……俺、もうすぐ卒業するんだ。あ、ちなみに!俺も陣平ちゃんも、爆発物処理班ってとこに入ることになってさぁ。まあ名前の通り結構ヤバい仕事なんだけど、何とかなるっしょ……あの日から時間が経つのがすげぇ遅かったのに、警察学校に入ってからの半年はあっという間だった。面白い奴らがいてさ、結構ヤバい橋何本も渡ってよぉ────楽しかった。楽しかったんだ……なぁ、苗字。俺は、大丈夫だよ。ちゃんと笑ってる。だから心配しないで。少し先を歩いてっからさ、歩けるようになったら呼んでよ。そん時は走って迎えに行くから……ッ…絶対、約束する」

その時、一際強い風が吹いた。少し冷たい温度に思わず笑う。返事のつもりかな。ふと握った手を見れば、その指先は綺麗に整えられていた。爪は適度に短く切ってあって、少し光沢がある。看護師さんか、それともお母さんかな。そういえば、髪の長さもあの日から変わらない。今はもう包帯は全部取れたし、本当に眠ってるだけに見える。

「じゃあ、また来るな」

そっと頬を撫でてから気がつく。甘い匂い。その行方を探すと、机の上に置いてある花瓶からだ。そこに挿さった花を見て、あれ、と首を傾げた。何故ってそれは、今日俺が持って来たのと同じ種類だったから。でもついさっき、苗字のお母さんに手渡して、まだ戻って来ていない。たぶん気を遣って、俺が病室から出るのを待ってくれている。じゃあこいつは一体────小さな疑問をそのままに扉に手を掛けた。

「お待たせして申し訳ありません」
「いいえ。気の所為だって笑われちゃうと思うけど……萩原くんが来てくれた日はね、あの子、顔色が良いのよ」
「そう、なんですか。嬉しいです……あ、あの、一つお訊きしてもいいですか?」
「ええ」
「あの花は誰が?」
「ああ、あれは松田くんが。私も驚いちゃった。ふたり、同じ花を持って来てくれるんだもの」

あいつ、いつの間に来たんだ。てか、同じ花って。それはそれで複雑。思考が顔に出ていたのか、目の前の女性は肩を揺らして笑った。そしてその後で、少し表情に影を落として言う。

「でも、ちょっと元気がなかったわね。もしかして学校で何かあったの?」
「え……いや、特に何も。腹でも減ってたんじゃないですかね」

平静を装ってそう返した。原因は俺だから。こりゃ、思ってるより心配かけちまってるみたいだな。まあ散々ボコられたけど。戻ったらそれとなく大丈夫アピールしとくか。久方振りの晴れやかな心持ちで帰路についた。

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