別れの足音が響く

死んだ人間を指して、眠っているみたいだと言うことがある。だが俺は今、真逆の感想を持った────死んでいるみたいだ。ベッドの上で眠る苗字を見て、そう思った。真っ白なシーツに真っ白な肌。まるで死装束のようだと。

「おい、いつまでそうしてるつもりだ。いい加減、その無関心どうにかしろよ」

眠り続けるそいつを見下ろし、問いかけた。表情をコロコロ変える女ではなかったが、今の眠り顔よりはマシだろう。あのふざけた横顔でもいいからと、そんな事を思うのだから俺も随分と優しくなったもんだ。暫く待っても、問いかけに答えはない。瞼一つ動かない。胸の奥から得体の知れない思いが湧いてきて、その襟元を掴み再び語りかける。

「眠り姫って柄じゃねぇだろうが・・・さっさと目ぇ覚ましやがれ。頼むから…ッ、見てられねぇんだよ、あいつのあんな顔はよ」

萩原は、苗字がこうなってから今まで以上にヘラヘラと笑っている。泣いたのは一度きりだ。あの笑顔の下に隠れた苦しみに、気付いている奴はほとんど居ないだろう。あいつは元々、隠すのが上手い。どうにかしてやりたいが、俺には無理だ。痛みの根源は俺ではなく、この女。俺が何をしたところで、その傷は癒えやしない。そもそも慰めるのなんて得意じゃねぇし。

「起きねぇんなら、解放してやってくれ」

懇願する声が馬鹿みたいに情けなくて、思わず笑った。酷い八つ当たりだ。誰かを責めないと、自分の不甲斐なさに押し潰されそうだった。そもそも萩原は、解放なんざ望んでいない。たとえ苗字を忘れることができるとしても、あいつは今の苦しみを選ぶだろう。それだけが、苗字名前が居たという証だから。俺も、忘れてやるつもりはない。誰にも知られずに死にたいという、この女の望み通りにしてやるのは癪だしな。いや、そもそも死んでねぇか。もし俺に後悔があるとすれば、ただ一つ。萩原に「掴んで離すな」と言わなかったことだ。やはり俺は、ブレーキ役には向いていなかったらしい。

────陣平ちゃんの所為じゃないでしょ。

五月蝿ぇな。言われなくても分かってら。ズカズカと心に踏み入ってくるくせに、こういう時は全部自分一人で抱え込む。一言物申したいのは、萩原に対してだけじゃない。この女にも、言ってやりたいことがあった。誰にでも一線を引くくせに、容易く好きだとか言いやがる。どいつもこいつも、ふざけんなよマジで。巻き込まれる方の身にもなれってんだ。心でそう吐き捨てながら、ふと視界に入った手を握ってみる。

「はっ、ちっせぇ手だな……お前、こんなに柔だったのかよ」

驚いた。凛々しいと思っていた女の手は、ひどく柔らかくて小さかった。俺の手にすっぽり収まってしまうくらいに。今この時、萩原を支えているのは紛れもなく苗字だ。まあ、崩れ掛けている理由もまた同じなんだが。だがどんな出来事であれ、打ちひしがれそうになった時にあいつを奮い立たせるのは、こいつなんだろう。消えちまいそうで、他人に興味ゼロだった女が、俺の親友の心を生かしている。純粋に凄ぇな、とそう思った。

「おい、聞こえてんだろ……あいつを遺して死んだら、俺はお前を許さねぇからな」

**

10月某日。今日、俺達は警察学校を卒業する。苗字はまだ目を覚まさずにいる。眠った姿を見慣れちまった所為で、笑った顔は記憶の中で霞んでいく。そのくせふとした時に、あいつにかけられた言葉が脳を掠める瞬間がある。だがそれも、一言一句そうだったか、記憶が定かじゃない。当然だ。こうなると分かっていたら、もっと耳を傾ける努力をしたかもしれないが、こんな未来を予期できるわけがないだろう。それこそ人生やり直しでもしない限り無理な話だ。

「松田……その、萩原のことなんだけど」

そう遠慮がちに声をかけてきたのは諸伏だ。その隣には幼馴染のゼロもいる。俺達3人は、諸伏が兄貴への手紙に入れるための写真を撮りに来ていた。無事にポストに投函して会場へと向かう途中の会話。

「ハギがどうかしたか?」
「いや、さ……なんか時々、少し寂しそうな顔するだろ?松田なら何か知ってるのかと思って」
「知ってるけど、言わねえ」

即答すれば、二人揃って微妙な面で俺を見てくる。あの馬鹿、こいつらにもバレバレじゃねぇか。まあ普段があれだからな。少しでも憂いを見せようもんなら、勘付かれるに決まっている。

「お前らのことは信頼してる。ただ俺も、あいつの思い全部を理解しているわけじゃない……いや、違うな。たぶん、できない。俺が語ったところで、本物じゃねぇんだよ」
「君は本当に、友人思いだな」
「なっ!?べ、別にそんなんじゃねーよ!!いくら幼馴染だからって、分からねぇ事の一つや二つあるだろうが……お前らだって、そうだろ?」

ゼロが目を細めてそんな事を言う。こいつは時々、こんな風にしれっとぶっ込んでくるから油断ならない。ふと、既視感を覚えた。だがそれも一瞬、すぐにその正体に行き着く。そういや昔、あの女と似たようなやり取りをしたことがあった。

──── どんなに仲が良くても、自然に出来ることじゃないと思う。

真顔でそう言いやがった。思えば最初から変な女だったな。あの頃に比べれば、随分と人間らしくなったもんだ。今はただ、萩原の隣で笑う姿ばかりを思い出す。その横顔は何処にでもいる普通の女だ。

「確かにそうだね……ごめん。オレが皆に助けてもらったように、何か力になれたらって思ったんだ。萩原はたぶん、自分からは話さないだろ?」
「まあ、そうだな。諸伏の時とは場合が違う。あいつのは、憎む対象がいるわけじゃねぇし、気合いでどうにかなるもんでもねぇ」

だから余計に傷が疼く。瘡蓋どころか、未だ癒えずに燻ったまま。萩原はたぶん、綺麗さっぱり、だなんて望まないだろう。あの痛みがあるからこそ、憶えていられる。忘れずにいられる。本当に、呪いのようだ。苗字は、自分のことで苦しむあいつを見たら、なんて言葉をかけるのか。想像しようとして、すぐに自嘲した。そんな事を考えたところで無意味だ。そんなのは、ただの自己満足。

「それなら僕達は、今まで通りでいいな」
「あん?」
「うん。オレもゼロも、そして班長も、この空の下にいる。だから、もし助けが必要になったら、絶対に教えてよ。萩原だけじゃなくて、松田もね」

自分の傲慢さに気が付いて、足を止めた。重荷だなんて死んでも思わねえが、萩原の苦しみは、俺が理解してやらなきゃならない気がしていた。だけど、そうか。お前らが居る。苦しみは分け合って、その逆は倍になる。ここで手に入れた絆は、存外尊いものだったらしい。俺にとっても、そして萩原にとっても。

「松田、どうした?」
「早く行かないと遅れちゃうぞ」
「なんでもねぇよ……行こうぜ」

**

そして、忌々しいあの日がやって来る。11月7日、警察に一本の電話が入った。都内の高級マンション2ヶ所に爆弾を仕掛けたというもの。金持ちが住んでいる、家賃もだが文字通り馬鹿高いマンションだ。要求は、10億円。普通の人間じゃ、一生働いても手にできない金額。提示された条件は『住民が一人でも避難したら即爆破』というもの。その解体に駆り出されたのが、俺と萩原だった。

「どっちが本命かね」
「さぁな。どちらにしても、二つも拵えるたぁ、ご苦労なこった」
「ほんとにね〜。んじゃ、俺は向こうだから」
「オゥ、また後でな」

なんで、言わなかった。気を抜くなって。分かってる。あいつはそんなヘマはしない。俺と萩原の現場が逆だったとしたら、死んでいたのは俺だろう。それから4年間、何度も同じ問答をした。その度に同じ答えに辿り着く。やり直すことなど、出来やしないのに。

「(余裕だな。いつも通り焦らずやれば、時間内に解体できる。)」

10億円を釣る餌にしては単純な作りだ。暑苦しい防護服の中で、浅く呼吸をした。どんな対象だろうと、油断は禁物。指先と脳に神経を集中させ、解体を開始する。一本、また一本とコードを切っていく。見積もったとおり、時間内に処理は終わった。萩原のいる第二現場へと向かう車内で防護服を脱ぐ。何度着ても息苦しい服だぜ────あの頃の苗字も、こんな心地だったんだろうか。会ったばかりの頃の、あいつの世界。だとすれば、大した根性だ。涼しい顔で佇む姿を思い出して、僅かに口端が上がった。

「ご苦労だったな、松田」
「……萩原の方は?」

車から降りた俺に、上司が労いの言葉をかけてくる。本部の責任者だ。どうやら萩原はまだ上にいるらしい。スマホを耳に当てながら、あいつがいるだろう場所を見上げた。空にはテレビ局のヘリが飛び交っている。コールが4回響いた後、聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。

「松田、何の用だ?」
「萩原、お前なにのんびりやってんだ?さっさとバラしちまえよ」
「おいおい、そうがなりなさんな。タイマーは止まってんだ。そっちは終わったのか?」
「ああ。開けてみたら、案外単純な仕掛けだったんでね。あの程度なら、
「3分もあれば充分だ、だろ?」

俺の言葉に繋げるように、得意げに萩原が笑う。一言一句、準備していた言葉を唱えられて、舌を打った。そんな俺を、また揶揄うように喉を鳴らす音が聞こえる。

「そっちはどうなんだ?」
「ああ。こっちは3分ってわけには、いかないようだな。基本的には単純なんだが、何しろトラップが多くて…どうやらこっちが本命だったみたいだな」
「ああ……ところでお前、ちゃんと防護服は着てるんだろうな?」
「あはは!あんな暑っ苦しいもん、着てられっか」
「馬鹿野郎!!死にてえのか!?」

容易く笑い飛ばしてくるから、怒鳴り返す。こいつは器用だが、些かそれを過信している節がある。余裕の中に油断があるんだよ。俺にはそれが、時々恐ろしく感じる。だがまさか、その恐怖が数十秒後に襲いかかってくるだなんて、この時の俺は夢にも思っていなかった。

「ま、そん時は仇を取ってくれよ。あと、苗字のこともお前に任せる」
「……怒るぞ」
「はは、冗談だよ冗談。俺がそんなヘマ、するわけねぇだろ」

冗談に聞こえる冗談を言え。特に後者。本気で言ってるとしたら、幻滅する。あの女はお前以外じゃ手に負えないんだよ。もし仮に萩原が本当にいなくなったとしたら、苗字はきっと、俺からも離れていくだろう。そして二度と、誰かの手を取ることはしない。昔のように、たった一人で生きることを選ぶに決まっている。死んでも御免だが、例えば俺が抱きしめて耳触りの良い言葉を囁こうが、効果はゼロ。縋れば楽になれるとしても、あいつは俺を選んだりしない。断言できる。そういう女だ。お前が一番よく知ってるはずだろう。頑なに生き方を変えようとしなかった。それを数年かけて解いたのは、他ならぬお前なんだから。

「とにかく、さっさと終わらせて下りて来いよ。いつもの所で待ってるからな」
「お、いいねぇ。そういうお誘いとあらば、エンジン全開といきますか…ッ、なに!?」
「どうした?萩原!!」
「みんなっ、逃げろ!逃げるんだッ!!タイマーが生き返ったぞ!!」

焦りが滲んだ声。只事じゃないと、そんな矮小な思考しか浮かんでこない。親友がいるだろう場所を仰ぎ、ただ何度もその名前を呼んだ。電話越しに聞こえた言葉の意味を、上手く咀嚼できないまま。俺の呼びかけに返事はなく、けたたましい足音と叫び声が響いてくる。なんだよ、これ────刹那、耳を劈く爆発音。視線の先で、黒煙と共にコンクリートやガラスの破片が飛び散る。サングラスの所為で、全てがモノクロに見えた。いや、絶望感が理由か。

「はぎ、わら……」

小さな塵が俺のいる地上に落ちてきた時、萩原の名前が再び唇から漏れた。そうしてやっと、何が起きたのかを理解する。

「萩原ァーーー!!!」

喉が潰れるほどに叫んだ。お前を連れ戻せるなら、この声だろうが何だろうがくれてやる。逝くな。置いて行くな。果たしてそれは"誰のことを"だったのか────わからない。ただ、そう思った。

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