聞こえないサヨナラ
2日後の11月9日、夕方。鉛のように重い足取りで、病院の廊下を歩く。嫌な役回りさせやがるぜ。いくら眠っているつったって、苗字は生きている。聴覚だって機能してんだ。そのあいつに、萩原の死を告げなきゃならない。だが、自分以外の誰かに任せたいとも思わなかった。これは、俺の役目だ。そんな使命感めいた思いが、俺の足を一歩ずつ前へと進ませた。床を踏みつける度に、脳内で二つの音が反響する。
────陣平ちゃん。
右足を踏み込めば、もう聞くことの叶わない、萩原が俺を揶揄う声。ふざけた呼び方しやがって。うざったかった。だがそれ以上に、特別だった。
────松田。
次に左足。萩原の声を追うように、苗字が俺を呼ぶ。もう久しく聞いていないから、その音が正しいのかすら分からない。それでも、間違いなくあの女のものだ。一音ずつ、明瞭に話す。誰かを呼ぶ時も、そうだった。
「五月蝿えな。今行くから、ちょっと待ってろ」
そのくせ急かすような声色に、思わずそう零して笑った。あと数メートル。いつものように涼しい顔して眠っている苗字を見れば、この騒がしい脳内も静けさを取り戻すだろう。ところが、病室の扉を前に狼狽える。壁に付いているネームプレートには、記されているはずの苗字名前の文字がない。どういうことだ。病室を移動するなんて話は聞いていない。
「松田くん」
突然名前を呼ばれ振り向くと、そこにはどこか窶れた顔で苗字の親父が立っている。その瞬間にはもう、心のどこかで予感していた。勘は鋭い方だ。だがそれが、あまりに最悪で胸糞悪い予感だったから、無意識に奥へと追いやっちまった。
「名前はもう、その部屋にはいない」
告げられた言葉で、予感が確信へと変わる。柄にもなく足元がふらつきそうになった。息が上手くできない。気道が狭くなる心地がしてきて、咄嗟に喉を掴む。努めて深く、息を吸って、吐いた。そしてそれと一緒に、喉の奥から笑みが零れる。
「は、はは……なんだよ、ハギ。結局、最後は連れて行くんじゃねえか」
「松田くん、今のは一体どういう意味だ?」
「……ッ…萩原は、
身体が、震える。未だ現実を受け入れられない。違う。俺が伝えるべき相手は、あいつなのに。奥歯を噛み締め、何とか声を絞り出そうとした。だが喉先に石でも詰まったように、音にならない。空気だけが、虚しく震える。
「名前の前でなら、話せるかい?」
「……会えるんですか?」
「ああ。明日までは安置してもらえる予定だ」
「あいつは、いつ?」
「一昨日の夜、眠るように。萩原くんに電話をかけたが、繋がらなかった。君の連絡先も聞いておくべきだったと後悔していたところだ。すまない。本当なら直接行って伝えるか、君らの職場に電話して取り次いでもらうべきだったんだが、こちらも手続きに忙しくてね」
手続きだけじゃないだろう。娘を亡くしたんだ。整理が必要なのは、心の方。廊下を歩き、階段を下りる。前を行く背中に、苗字の面影を見た。真っ直ぐな後ろ姿、静かな足音────お前は今、何処にいるんだ。経験したことはないが、地獄に続く階段を下りる時ってのは、こんな心地なんだろう。待っているのは最悪な景色だと、本能でわかる。
「席を外そうか?」
「いえ、ここに居てください。この部屋じゃなきゃ、話せる自信がないんで。だけど俺は…ッ……、
「わかっている。君が聞かせたいのは私ではなく、名前だろう?構わないよ、これが最後になる。何を言っても、咎めはしない。伝えたい事を伝えるといい。私はただの証人だ」
親になると、こんなにも強く在れるものなのか。たぶん、殴り合いなら俺の方が強い。それなのに敵わないと思った。淀んだ空気の中、扉の向こうで横たわる姿を見て、何故か安心する。萩原は、こんなに綺麗じゃなかったからだろう。もはや人だったのかすら分からない遺体だった。だから形があるというだけで、堪らなくなる。衝動的に側に寄り手を握ろうとしたが、やめた。その温度を感じてしまえば、どうしたって死を突き付けられる。ったく、ナイフはどっちだっての────嗚呼、眠ってるみてぇだな。
「遺して死んだら許さねえとは言ったけどよ……だからって、お前っ、付いて行くこたぁねえだろ。それともハギの野郎か?あいつに誘われたのか?一緒に行こうって?だとしたって、ホイホイ従うなっての。サヨナラ一つも寄越さねぇで…ッ……この、礼儀知らずが」
頬を何かが伝う。この2日で溜まりきったものが、濁流の如く目玉から外へ這い出てきた。生温かい感触が不快だ。顎先に集まった後で、重力に従い何滴か床に落ちる。おい、指差して笑えよ。今なら何したって許してやるから。いや、ないな。お前のことだ。下がり眉で覗き込んでくるに決まってる。
「あいつがよ、死ぬ前に言ったんだ。自分が吹っ飛んだら、お前のこと頼むって。ほんっと、馬鹿野郎だよな。大体、俺じゃコミュ力が足んねぇし。オメェみたいな厄介な女、手に負えるかってんだ。そもそも、苗字名前があいつ以外の手ぇ取ると思ってる時点で、正気を疑うわ。あんだけ惚れ込んでたくせに、何にも分かってねぇ…いや、だからか。お前のこととなると、阿保みたいに臆病だったからな……産まれたての子鹿かよって」
さっきの感覚が幻だったみたいに言葉が出てくる。返事なんてねぇのに。これじゃただの独り言だ。それでも他の誰かに話す気にはなれない。痛みを分かち合える奴らはいるが、こんな無様な姿を見せるわけにいかねぇだろ。わかってる。あいつらは笑わず一緒に嘆いてくれるって。それでも、萩原の死を理解した時、真っ先に脳を掠めたのは苗字だった。いつからだ。親友を思い浮かべる時、隣にこいつの姿が見えるようになったのは。いつの間にか俺にとってはそれが、当たり前の景色になっていた。こいつが眠っていても、それは変わらなかったのに。今は思い起こすだけで、感じたことのない痛みが襲ってくる。
「なんなんだ、クソったれ……健康優良児だってのに、痛えんだよ。お前も萩原も、俺にこんなの抱えて生きていけってか?あーあー、そうだろうな。あいつは昔っから、笑いながら無茶言ってくる。お前もお前で、いつも涼しい顔で無理難題を押し付けてきやがるしよ」
瞼をきつく閉じて吐き捨てる。頭を乱暴に掻いた後で、額から首元までを撫でるようにして涙を拭った。唇に付いた水滴を舐めれば、ひどく塩辛い。掌が濡れている。閉じ込めるように拳を握って、深く呼吸をした。
「まだやり残したことがあんだよ。お前らの後なんざ、追ってやらねぇからな。俺の命はそこまで安くねぇ。ジジイになるまで生きてやらぁ。指咥えて見てやがれってんだ」
**
「よォ、御三方」
軽く手を上げて、声をかける。努めていつも通り挨拶をすると、揃って暗い顔を向けてきた。辛気臭えな。こんなんじゃ萩原に笑われるぜ。初めての墓参り、同期4人で集まった。
「おい。その花、どうして2つも買ったんだ?」
「萩原って、花好きだったっけ?」
「いや、好きだったのは女性だろう?」
「ああ……1つはハギの分じゃねぇよ。あいつの女の分だ。どうせ向こうでイチャコラしてんだろ────なあ、班長。魔女ってのはそんな簡単に死ぬもんなのか?」
俺の言葉に、今度は揃って狼狽える。その様があまりに間抜けで、思わず吹き出した。なんだ。ちゃんと笑えるじゃねぇか。それが少しだけ悔しい。口角を上げる俺とは裏腹に、顔を歪めて班長が呟いた。
「まさか……亡くなっていたのか」
「いんや、あの馬鹿が連れて行きやがったんだよ。元々、テメェの人生にすら執着しない女だったが……そのふざけた生き方を捨てられる寸前まで来てたってのに、結局最後は煙みてぇに消えちまった」
「松田……もしかしてその彼女のこと、
「はっ、誰が。いっぺん会えばわかる。会話するだけでも難易度高いぜ。だがまあ、萩原が惚れるくらいだ────認めたくはねぇが、いい女だった」
一度たりとも女として見たことがないと言えば嘘になる。黙っていれば美人だし、頭もいい。深く関わらなければ、優良物件だろう。俺が知らなかっただけで、そういう表面的な印象に惹かれて告った奴もいたのかもしれない。十中八九、苗字は振ったんだろうが、そいつらにとってはむしろ幸運だったと言っていい。そんな中途半端な覚悟で受け止められるほど、あの女は簡単じゃない。たぶん、苗字自身がそれを最もよく理解していたと思う。だからこそ、安易に萩原の手を取ることはなかったし、他人と深く関わることを嫌っていた。
「ただ、それだけだ」
そう、好きとか嫌いとかじゃない。ただ、いい女だった。惚れる隙なんざ、なかった。本能的に回避したと言ってもいい。アクセルしか付いてねぇくせに、笑えるぜ。だが、これで良かったと断言できる。仮に手を伸ばしていたとして、どんな結末になっていたのか容易に想像がつく───訣別だ。俺には萩原のような愛し方はできない。爆弾相手なら焦りはしないが、相手が人間、それも惚れた相手だとすれば話は別だ。俺なら少しくらい荒療治になろうと、苗字の心を覆っていた氷をぶち壊す選択をしたに違いない。その衝撃で内にある本体を傷付ける結果になったとしても、そんなのは後から癒せばいいと、そんな取り返しのつかない選択を。俺はそういう人間だし、曲げるつもりもない。テメェの選択に後悔もない。これからも、そうやって生きていく。
「あの女を愛せるのは、萩原だけなんだよ」
ずっと昔から知っていたことだ。萩原研二という男は、俺にはできない事を容易くやってのける。苗字名前を愛するという行為も、その一つ。あいつは、心を覆う分厚い氷を、壊すんじゃなく時間をかけて溶かすことを選んだ。そして、やり遂げた。
「向こうで、彼女に逢えているといいな」
あの世ではどうか一緒に、そんなのは生き残った奴のための慰めだ。そう思っていたのに、こうして遺された途端、考えが変わっちまった。当事者意識というのは恐ろしい。この空の下で叶わなかった想いを、あいつが成就させているといい。そう願わざるをえない。ゼロの言葉に口角を上げてから、ポケットを探る。そして取り出した物を墓石に向けながら、笑って見せた。
「悪いが、こいつは借りとくぜ。魔除けとしてな」
小せえビニールの中には、黒い物体。この世界から消える寸前まで、萩原が身に付けていた物だ────苗字があいつに贈ったネックレス。残ったのは直径3ミリ程度の欠片だけだった。
「ったく、警察官のくせにこんなもの付けてんじゃねぇよ……まあ、お前らしいけどな」