届けたかった言葉

第一印象、優しい人。高校の入学式、自転車の不調で困り果てていた私を助けてくれた。今日初めて会った人間に、どうしてそこまで親切にできるのか不思議に思ったのを、今でもよく憶えている。駅前でティッシュを配るみたいに、会った人全員に漏れなく優しさを提供する。他人に与えることができる側の人。彼はきっと、そういう人間なのだろう。誰かにあげられる程の優しさを持ち合わせていない私とは対極の存在。そして、笑顔が自然な人だった。まるで息をするように笑うから、そうしないと生きていけないんじゃないかと、そんな馬鹿みたいなことを思ったほどだ。

──── 折角、苗字さんの隣に座れたのに。

第二印象、変な人。夏休み、仲の良かった友人に誘われて、同級生達と出掛けたことがある。その中に彼もいた。映画を観て、ファミレスでお喋りをするという、なんてことない時間。そのはずだったのに、何故か彼は私の隣に座り、あろうことかバイト先まで送るだなんて言い出した。その夏の日以来、萩原は私にとって他人ではなくなる。だけどそれは、大切だという意味ではない。異質でよく分からない、違う世界の住人。

────苗字が本当の望みを口に出来るように、俺に手伝わせてよ。

彼は決して、心をこじ開けようとはしなかった。波一つなかった水面に投げ入れられた氷みたいに、衝撃の後で溶けて混ざり合っていく。そんな感覚。体育祭、大晦日、水族館、箱根。私の手を引いては、砕けたように笑う。気の利いた返事のできない私よりも、他の子と過ごした方がずっと有意義だろうに。そんな事を思いながらも、日々は悪戯に、そして穏やかに過ぎていった。彼の隣はあまりに心地良く温かくて。明日のことすら考えるのが億劫だったはずなのに、いつの間にか私の目には、未来というものがひどく明るく見えるようになった。

────君と過ごす時間は、俺の心の栄養なの。

甘い毒が、まわる。残酷で優しい言葉達。いつも闇に落ちていくみたいだった夜には、目を閉じると彼の声が聞こえるようになった。口調や速度、声の高さ。時に身振り手振りを交えて語られる話は、どれも楽しくて新鮮で。鼓膜にそっと触れるような声を聞くと、幼い頃に母が絵本を読み聞かせてくれた時のことを思い出す。心が躍り、その先にはどんな結末があるのか、それがとても綺麗で素晴らしいものだと信じたくなる。

────苗字が平凡な事で悩んだり、笑ったりしてくれる。それが、俺の幸せ。

そして第三印象、愛しい人。ゆっくりと胸を支配していくこの想いを、恋と呼ぶのだと知った。上手く生きられない私を、貴方は叱りもせずにただ見守ってくれる。心の一番深いところを隠したままだったのに、手を繋いで、抱きしめて、構わないと言って笑うのだ。大丈夫−−−その言葉を聞く度に私は、もう少しだけ生きてみようと、そう思えた。貴方はきっと、大袈裟だと笑い飛ばすのだろう。そしてまた、息をするように「大丈夫」と囁きながら、私に特別をくれる。なんて、今になって気が付くの。感じた事を教えてほしいって、そう言われていたのに、全然伝えきれていなかった。本当に駄目だよね。貴方の言葉を、熱を、姿を感じられなくなって初めて思い知った。

「私は貴方のことが……萩原のことが、好き」

もう遅いけれど、気付けてよかった。この想いは私にとって、かけがえのない宝物。これ以上、もう何もいらない。だけど貴方は優しいから、こんな別れ方になってしまったことで、きっと自分を責めるのでしょう。泣かないで、いつもみたいに笑ってほしい。貴方が私にくれたのは、傷ではなく光だったのだから。心からそう願っているのに、その涙の理由が自分であることを、堪らなく嬉しいと感じてしまう。たとえ泣きたくなるような記憶でも、貴方の心に在りたいと思うのだから、恋というのは本当に不思議でひどく厄介ね。

「言えなかった事が沢山あるけど、とても語り尽くせそうにないみたい。だから、一番伝えたかった事だけ、置いて行くことにする。ごめんなさい。他は全部、私が貰っちゃうけど、許してね……ッ…ひとつ、たった一つだけ、後悔があるの。貴方に出逢えて私がどれほど幸せだったのか、それを言葉にして伝えることができなかった。もし叶うなら、どんな形でもいい───どうか、貴方に届きますように」

**

明るい。目を閉じていても、それが分かった。ていうか俺、いつ寝たんだっけ。そんな馬鹿な事を考えながら、瞼を上げた────白。視界には一面、白い世界が広がっている。

「何処だ、ここ」

身体を起こして、なんとか思考を回す。誰もいないうえ、何も聞こえない。なのに不思議と不安は湧いてこなかった。数秒の後に思い出す、直前の記憶。耳に残る親友の声、唐突に動き出したタイマー、最後に頭を掠めた彼女の姿。

「はは……俺、死んだのか」

どこか他人事のように呟くと、笑ってんじゃねぇ、と怒号が聞こえた。仕方ねぇだろ。実感ゼロなんだから。痛みすらも、記憶にない。即死だな。肉片が残っていればマシなくらいだろう。いっそ、骨すら残っていない方が、潔いんじゃねぇか。

「陣平ちゃん、めちゃくちゃ怒ってんだろうなぁ。墓石蹴っ飛ばされそう」

死ぬ直前だって怒られてたっていうのによ。なんか最近、叱られてばっかりだな。あいつがこっちに来たら、一番にぶん殴られる未来が見えるわ。一発で済めばいいけど、たぶん無理。イケメンが台無しになるくらいボコられるに決まってる。ファイティングポーズでこっちを睨み付ける松田の姿を浮かべて、苦笑した。そのすぐ後で脳を支配するのは、好戦的な親友とは真逆な、彼女の後ろ姿。

「結局、置いて行っちまうとかクソ野郎かよ…ッ……ごめんな」

なにが傍に居るだ。なにが守るだ。全部、大嘘じゃねぇか。言葉を並べただけで、最後はこうして無様に死んじまって、何もしてやれなかった。ただ惑わせて、傷付けただけだ。そのはずなのに、どうやら俺はどこまでも利己的らしい。心の隅でもいい。この情けない男のことを憶えていてくれたらと、そんな愚かしい望みが湧いてくる。

────萩原。

ああ、そうだった。彼女の声。少し低くて耳によく馴染む。叫んだり、早口で話すことは一度もなかった。ここ最近思い出せずにいたのに、今はこんなにも鮮明だ。死んでからじゃ遅いんだよ。本当に神様ってのは気が利かない。

「萩原」

瞬間、鼓膜を揺らす声。それは確かに音となって、俺の耳に届いた。そんなはずはない。彼女がここにいるわけがない。今もまだ、あのベッドの上で眠っているはずだ。戸惑うままに振り返ると、求めてやまなかった姿がそこにはあった。

「苗字……なん、で」
「わからない。気付いたら。ここ、何処なの?」

なんだ。居るじゃん、神様。最期に会わせてくれるとは、粋だな。不思議そうに辺りを見渡す横顔は、変わらず綺麗だ。ゆっくりと俺の傍まで来ると、小首を傾げてもう一度名前を呼んでくれる。あの日から何をしても満たされなかった心へと、一気に入り込んでくる何か。堪えきれずに手を伸ばす。

「っ、吃驚した……ふふ、どうしたの?」

縋るように抱きしめれば、小さく笑って頬を擦り返してくる。あちこち綻んでいた心が、瞬く間に修復されていく。魔法みたいだな。そんな子どもみたいな事を思った。渇望していた存在が今、俺の腕の中にいる。声、温もり、感触、匂い────嗚呼、これだ。胸が多幸感で一杯になる。

「いや、なんか久しぶりだなぁって」
「久しぶりって……昨日も会ったのに?」
「当たり前だろ。別れた瞬間から寂しいんだぜ」
「うん、私も」

なんでもない事みたいに言うんだから、ほんと狡いよな。それならずっと一緒にいればいい。世界から君を攫っちまいたい。だけどそれは、俺の我儘だから。この手はここで、離さなきゃならない。もう傍にはいられないし、呼ばれても迎えに行ってやれないけど、彼女なら大丈夫だ。それに向こうには松田もいる。何一つ心配なんてない。ただ、どうしようもなく悲しいだけ。どうか俺の存在が、彼女の人生に暗い影を落とすことのないように。そう願う一方で、忘れてほしくないだなんて。矛盾する二つの望みが、胸の中で拮抗する。

「苗字。ほら、向こう。見えるだろ?あそこまで、一緒に行ってくれる?」

いつの間にか、少し遠くにぼんやりと自分の行き先が見える。指差して尋ねると、彼女は小さく頷いてくれた。そして俺の手を取って、笑う。導くように名前を呼ぶから、答える代わりに指先でそっと手の甲を撫でた。ふたり並んで歩く。久方振りの感覚を記憶に刻む。気配も音も全部、忘れないように。

「萩原」
「ん?」
「────私ね、幸せだったよ。貴方に出逢えて、幸せだった。本当に、ありがとう」

息が、足が、止まる。この場所では、言葉まで俺の望むようになるのか。いや、違うな。そう、瞬時に悟る。苗字はこんな顔で嘘をついたりしない。佇んだままの俺を振り返って、彼女が微笑む。それは、今まで見てきたどんな表情とも違った。憂いの欠片もない笑顔。俺が、ずっと見たかったもの。ああクソ、これで最後だなんて嫌だ。おい、神様よ。なんで、最後の最後でこんな残酷なプレゼントを寄越すんだ。マジで攫っちまうぞ。

「そりゃこっちの台詞だって……俺もだよ。俺も、君に逢えて本当によかった。この出逢いが俺の人生で一番の幸せ────ありがとな」

引き寄せて、もう一度強く抱きしめる。柔らかい髪に顔を埋め、思い切り息を吸った。煙草で汚れた肺が浄化されていく心地がする。それを確認して、そっと身体を離した。温もりが遠ざかる。そして追い討ちをかけるように不安げに俺を見るものだから、心が音を立てて軋んだ。

「萩原?」
「苗字は来ちゃダメだよ」
「どうして……」
「どうしても。そんな顔すんなって。ほら、笑顔笑顔。大丈夫、ひとりで行けるだろ?」

それは自分に向けた言葉だった。最後まで臆病な俺に、気付かないでほしい。頼むから、駆け寄って来てくれるなよ。もう一度触れたら最後、きっと離してやれないから。一歩、足を引いて、精一杯笑って見せる。たぶん、相当下手くそ。鏡を見なくても分かる。得意なはずだったのに、こりゃ落第点だろう。光が視界を覆っていく。最後、彼女の唇が動くのが見えたのに、肝心な言葉が聞こえない。五感が一つひとつ消えていくみたいだ。届かねえなら、言ってもいいかな。ちゃんと目を見て伝えるって決めてたけど、そしたらきっと、この想いは君を縛ってしまうだろうから。風に攫われちまうくらいが丁度いい。これは、俺の独り言。

「……────好きだよ。君を、愛してる」

**

春。石畳の道を、踏み付けるように歩く。その度に左手のビニール袋がガサガサと音を鳴らした。五月蝿い。墓参りへ行く前にコンビニに寄って、萩原が好きだった銘柄の煙草と缶コーヒー、そしてミルクティーを買った。付き合いが長かった萩原のことならそれなりに知っているが、俺はあの女の好みなんて知らない。それでいつだったか、萩原があいつにミルクティーを渡していたのを思い出して、手に取った。同じ日に営まれた葬式。俺は苗字に、焼香だけしかできなかった。そんな事は言わない女だと理解していても、薄情な奴だって、そう思ってもらった方が楽になれる気がした。

────あいつは、萩原と一緒にいますから。

墓の場所を教えようとした苗字の父親に、俺はそう返した。だから、あいつの墓参りには行かない。線香をあげて、暫くその煙を眺めていた。あの世でも吸っているんだろうか。いや、隣にあの女がいたら、そんな暇はないな。今度こそ、捕まえておけよ。目を離したら、また何処かに行っちまうぞ。

「煙だけは送ってやる。線香の、だけどな。感謝しろや。ふたり揃って消えやがって。全部俺になすり付けてよ……だが俺は優しくて、約束を守る男だからな。仕方ねぇ、背負ってやる────仇は、必ず討つ。お前らは、そこで俺の勇姿を見てればいい」

空高く、昇れ。もっと、もっと高く。あいつらに届くように。弔いの煙じゃない。これは、狼煙だ。振り向くのは柄じゃねえんだよ。なにせ俺にはアクセルしか付いてないからな。顧ることはしない。ただ携えて行くだけだ。

*−−end of First Life−−*

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