2度目の初めまして

俺は確かに死んだ。それも一番大切な女を道連れにして。夢かも現かも分からないあの場所で、幸せだと笑った苗字の姿が、今も脳に焼き付いている。あれは本当に彼女の本心だったのか、それとも俺の願望だったのか。なんて、考えたところで答えは出ない。それに正直、どっちだっていい。俺には過去を振り返っている暇はないから。今度こそ、その幸せを守れるように、見据えるべきは未来だ。

「まさか本当に"もう一度"があるとはな……世界ってこんなに綺麗だったっけ」

理由なんて分かってる。こんなに輝いて見えるのは、大事な存在がこの世界に居るからだ。もう一度チャンスをやろうとか、心残りがあるだろうとか、神様とやらにそんな事を言われた覚えはない。記憶に残るのは、松田やあいつら、姉ちゃんや両親。そして、穏やかに笑う苗字の横顔────それだけで、俺はまた息ができる。運命に、抗える。

「会いてえなぁ」

舞い散る桜を見上げて、ひとり呟いた。徐に広げた掌に、花弁が一枚着地する。角度を変えれば、それは音もなく地面へと落ちていった。その様子をぼんやりと眺めていたら、背後から聞き慣れたぶっきらぼうな声が俺を呼ぶ。振り向けば、仏頂面の親友の姿。

「松田」
「何してんだよ、遅れっぞ」
「オゥ、今行く」

俺が歩き出したのを見て、松田が背を向ける。昔と変わらない後ろ姿に、堪らなく安心した。もうすぐ、俺達は高校生になる。彼女と初めて会ったあの日が近づいて来ているってのに、心は不自然なほどに穏やかだ。

「第一声、決めてんのか?」
「いんや。そんなの決めたところで、どうせ計画通り行かねえし。心のままに動くつもり」
「心のまま、ねぇ……よく会いに行かずにいられるな。惚れた女だろ?俺なら無理だね」

ご尤も。実家の場所は知っている。会いたいかと訊かれれば、間違いなくイエスだ。手を握って、抱きしめたい。名前を呼んでほしい。

「いや、まあ、実は一回行ったんだよね」
「はぁ!?聞いてねぇぞ!!」
「ワリ、なんか報告すんの恥ずいじゃん。ストーカーみてぇだしよ」
「死ぬ前からそうだろ。今さらどんな一面見たって驚きゃしねえよ……で、どうだったんだ?」
「言っとくけど、家の前を通っただけで、呼び鈴鳴らしたりしてねぇからな。それに多分だけど、苗字、あの家には住んでないし」

俺の言葉に、松田は目を見開いた。そしてギュンッと効果音がしそうな勢いで振り向く。まあ、驚くよな。その直後、怪訝そうに見てくるから、誤魔化すように苦笑した。俺があまりに冷静だからだろう。焦っていないのには理由がある。以前からあった違和感のお陰だ。

「住んでねぇって、もか?」
「ああ、少なくとも中学までは。あの辺に住んでる奴に訊いたら、同中じゃねぇって言ってたし。だからてっきり、高校入学のタイミングで引っ越して来たのかと思ってたんだけど、表札には"苗字"って書いてあってさ」
「……どういうことだよ?」

松田が眉間の皺を深めて尋ねてくる。それに肩を竦めて返した。あんなに一緒に居たのに、謎は増えるばかりだ。ほんと、一筋縄じゃいかない。彼女は自分の過去を語ろうとはしなかった。曖昧な言葉で飾って、靄で包むように、ボロも出さない。そういう所だけは器用だったと思う。

「治孝さん夫婦は、住んでるってことだろ。まあ確かに、仲良し親子って感じではなかったからなぁ」
「いや、悪くもなかっただろうが。あいつが死んだ時、親父の方は結構参ってたぜ」
「じゃなくて、逆の話。片思いだったって意味」

俺がそう言えば「成る程」と返事。彼女は家族にすらも、どこか他人行儀だった。だけど最後の1年と7ヶ月の間、何度もやり取りをしたから分かる。あの二人は、決して冷たい人間ではない。娘を思う、正真正銘の親だった。確かに彼女は愛情を享受するのが下手だったけど、そんな理由じゃ片付けられないような気がする。

「不要な躊躇はするんじゃねーぞ」
「まぁた難しいことを言いやがる……しねぇよ。どんな過去だろうが、丸ごと愛してみせるさ」

**

そして、入学式当日。校門の前には人だかり。家族と一緒に写真を撮る生徒も多い。視線を巡らせて、あの背中を探すけど、見つからない。心で落胆と安堵が入り混じる。安堵って、何でだよ。

「どうした、柄にもなく緊張してんのか?」
「どうかな。自分でもよく分からねぇんだ。もう一度会ったと、き……、
「んだよ、急に黙り込んで…ッ、おい!」

走り出す。視界を掠める見慣れたシルエット。凛とした背中が、騒つく人混みの間を抜けていく。戸惑うように俺を呼ぶ松田の声に、答えている暇なんかない。無我夢中で追いかけて、手を伸ばす。あれ、よく考えたら名前呼べばよかったじゃん。そんな事を思うと同時に、指先が細い手首に触れた。肩を揺らし、彼女が振り向く。その瞳が俺を捉えて、一瞬だけ大きくなる。そして、一言。

「……何か?」

それを聞いてまず感じたのは、絶望。いつかのように色のない声音、変化のない表情。脳内を記憶が駆け巡る。あれもこれも全部、消えちまったのか。そう考えた直後、否定した。いや、残ってんだろ。俺の中に。絶望感が風船のように縮み、希望がそれ以上の勢いで膨らんでいく。だって目の前にいるんだぜ、世界で一番好きな女が。そりゃ嬉しいに決まってる。その時、追いかけてきた松田が気遣わしげに俺を呼んだ。こいつが素直に優しいと怖いな。そんなことを思いながら、少しだけ指先に力を込めて、笑った。

「萩原研二。俺の名前ね。んで、こっちが大親友の松田陣平────名前、教えてくれる?」
「苗字、名前」

彼女が目を伏せて、たどたどしく自分の名前を紡いだ。刹那、覚えた違和感。嗚呼。この感じ、知ってる。そう思った。苗字、と勝手に唇が動く。無意識の呼びかけにピクリと睫毛を震わせて、彼女は俺を見上げた。相変わらず、隠すの下手くそだなぁ。その瞳にはあの頃と同じ色彩が宿り、真っ直ぐに俺を映している。なんだ、ちゃんと残ってんじゃん。再び交わった視線を、逸らされる前に笑い返した。会いたかった、寂しかった、嬉しい、愛しい────彼女に対する想い全部を乗せて。

「おい、テメェ。どういうつもりだ」

やば、忘れてた。鋭い松田のことだから、今のやり取りで気付いたに違いない。彼女は全部憶えてる。そのうえで、他人のフリをしようとした。こいつの性格じゃ怒るに決まってる。鬼の形相で詰め寄ろうとする幼馴染を、慌てて制し宥めた。

「おっと、陣平ちゃん。ストップ、どうどう」
「なんで止めんだよ?てか、俺は馬じゃねぇ!」
「まあまあ、落ち着けって。ごめんな。こいつ、生まれる前から気性が荒いのよ」
「……暴れ馬」
「ああ!?この女、言わせておきゃ、んがッ!?」
「はい、捕獲成功。そんじゃ、また後で────苗字。これからも、よろしくな」

俺の言葉に、返事はない。彼女はただ曖昧に微笑み返して、俯いた。久しぶりに見る、あの表情。どうやら、離れていた時間が長すぎたらしい。こりゃもう一肌どころか諸肌脱がなきゃならなそうだな。だけど流石に今ここでは難しそうだ。せめてこの幼馴染様が居ない所じゃなきゃ、落ち着いて話も出来ねえし。右腕で松田を押さえ込んだまま、左手を伸ばして頬を撫でる。弾かれたように俺を見る瞳へ、宣戦布告。

「アクセル全開でいくから、覚悟しといてね」

目を見開くのが可愛くて、声を漏らして笑った。嗚呼、表情全てが愛おしい。もっと悩めばいいのに。だなんて、意地の悪いことを思ってしまう。その心に雨を降らせるのも、光で照らすのも、俺だけであればいい。

「お前よ、よく怒らずにいられたな」
「ああ、さっきの?あれでバレないと思っちゃうあたり、可愛いよなぁ」
「誤魔化すな。他人のフリしようとしたんだぞ。考えたくはねぇが、昔みたいに戻っちまったのかもしれない。なのに、なんで笑っていられんだよ?」
「昔みたいにって……それはねぇよ」

即答する。"昔みたい"というのは、文字通り"初めて会った時みたい"という意味だろう。この幼馴染はどうやら、彼女の心が再び分厚い氷で覆われてしまったんじゃないかと危惧しているらしい。確かに一瞬、俺も疑った。だけど言葉を交わして、瞳を覗いて、その疑いは一掃されちまった。

「会ったばかりの頃は、あんな目しなかっただろ」
「あんなって、どんなだよ?」
「んー、自信なさげっつーか、迷子みたいな?あの生き方を誇ってた頃は、もっと強気な目ぇしてた。まあ、氷とはいかねぇまでも、薄っぺらい膜くらいは張ってるかもな……苗字も俺らと一緒で、前と同じ人生を歩んで来たんだろうし」

消えてしまいたいと願いたくなるほどの出来事を、再び経験したのだとしたら、以前のように心を閉ざしてしまっていても可笑しくはない。だけど、彼女の心は確かに生きていた。ちゃんと、俺の言葉や行動に呼応していた。もし彼女が強く在れた理由が、俺と過ごした時間だったら────なんて、そんな調子のいい考えが頭をよぎるから、自嘲気味に小さく笑う。

「それに、忘れられててもいっかなぁーって」
「理解不能」
「はは、だよなぁ。でもさ、表情を変えたり話したり出来るのって、それだけで特別なことだろ?それすら出来なくなっちまうことだってある……松田なら、よく知ってると思うけど」
「どっかの誰かさんのお陰でな」
「わぁお、傷に塩塗ってくるねぇ」

彼女が俺を忘れてしまっていたら、もちろん悲しかっただろう。だけどそれ以上に、名前をもう一度呼んでくれる。笑った顔を見られる。その嬉しさの方が断然勝っているから、それでも俺は微笑み返せた自信がある。この奇跡を守りたいと、今はただそう思う。

「諦めの良い女だったからな。さっきの態度、どうせ変えられないって高括ってるんだとしたら、気に食わねえ……そん時は喝入れてやるぜ」
「陣平ちゃんさぁ。俺がいなかったら、苗字に告ってたっしょ」

ニヤつきながら、指を差す。知ってるぜ。1度目はあんなに積極的だったくせに、2度目は姉ちゃんに告ろうとしなかった。まあ、そんな余裕はないって言われたら、それまでだけど。

「はあ!?んなわけねーだろ!誰があんなヘンテコ女……お前以外じゃ手に負えねえっての」

そう呟いた声が一瞬だけ、切なげに揺れた。俺が付けた傷は、思った以上に深いらしい。いや、俺だけじゃないか。苗字の死が、その傷をさらに抉った。本人はその事実すら知らないだろう。そしてたぶん、松田はそれを彼女に告げることはない。どこまでも優しくて強い奴だ。

「わかってねーなぁ。厄介なところが良いんだろ」
「はっ……ほんと、お前も大概だよな」
「お褒めに与り光栄で〜す」
「褒めてねぇっての」

そんなこと、こいつだってとっくの昔に知ってるくせに。いつもの調子に戻った横顔を見つめ、笑う。いくら幼馴染で親友だからって、その女のことまで案じてやる義理なんてないだろう。それでも苗字を救おうとするのは、俺の為か、それとも彼女の為か────なんて、一生訊いてやらねぇけど。

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