お手をどうぞ

入学式が終わり、各クラス毎にホームルームが行われる。以前と同様、俺と松田は同じクラスで、彼女は違うクラスだ。いつもの調子で自己紹介を済ませ、提出物やらを回収。それから、結構美人な先生の挨拶を右から左に聞き流し、明日から頑張りましょうの"う"で腰を上げた。呆れた顔で見てくる松田に軽く手を振って、教室を飛び出す。廊下を走ったせいで、次の日に説教を食らうことになるのだが、どうでもいい。初日だから、どのクラスもやる事は変わらない。つまり、担任の話の長さに終わり時間が左右されるってわけだ。運の悪いことに、彼女のクラスはすでに解散しているらしい。舌を打って、階段を駆け下りて駐輪場へ。視線を巡らせるけど、あの背中は見当たらない。

「そういや、自転車には乗ってなかったな……成る程、態とか。やってくれるねぇ」

あの日、苗字と話したのは自転車が理由だ。今朝の態度からも、彼女が俺と関わらないようにしようとしていたのは間違いない。だからこそ、そのきっかけを潰した。そこまで考えて、再び走り出す。足を動かしながら、笑った────詰めが甘いんだよなぁ。帰宅する生徒の波を掻き分け、見えた背中に一旦足を止める。変わらない、真っ直ぐな後ろ姿。ずっと見ていたいと思った。だけどそれじゃ追いつけない。それに、もっと見たいものがある。最期に見たあの表情を、もう一度俺に向けてほしい。歩き出し、手が届く距離まで来て、また留まった。名前を呼ぼうか、それとも手を握る。そう思案したけど、秒でどちらも候補から外す。騒がしいから聞こえないかもしれない。手を握るくらいじゃ逃げられる。なら、もっと確実な方法で。背後からお腹に腕を回し、引き寄せる。バランスを崩して倒れ込んできた身体を抱き留めれば、ふわりと鼻を掠めた香り。嗚呼、彼女の匂いだ。

「捕まえた」
「はぎ、わら……心臓に悪い」
「誰かさんが逃げるからだろ」
「……松田は一緒じゃッ、ちょっと」

話を逸らそうとするから、ついムキになって手を引いた。至る所から熱い視線が注がれる。入学初日からイチャついてると思われてるんだろう。見世物じゃねぇっての。振り切るように人混みを抜け、校舎裏の木の下まで連れて来てからそっと手を放す。ここは昔からずっと、校内から死角になってる。柵の向こうの道も、人通りが少ない。息を吐いて、今度こそ彼女と向き合う。戸惑うように見上げてくる瞳に、なんだか自分が悪者になった気がした。そして次の瞬間、泣きそうな顔をしながら、彼女が俺より先に話し始める。

「……仮初のまま終わった。そうでしょう?でもそれは、萩原の責任じゃない。なのに、どうしてっ、また手を取ろうとするの?今ならまだ間に合う。だから、お願い…ッ……萩原は、幸せになれる。今度こそ、隣に居ても苦しくない誰かを選んでほしい」

必死に言葉を紡ぐ姿に、見惚れた。どうにかして俺に違う恋を選ばせようとするのが、切ないのを通り越して愛しくすらある。どうすれば彼女にこの想いが伝わるだろう。いっそ、一思いに欲望に身を任せてみようか。いや、そんなの俺らしくないし、どんな思いもまずは言葉にしなきゃ駄目だろ。

「私は、充分すぎるくらいのものを貴方に貰ったんだよ……もう、大丈夫。だから、今日でさよなッ、
「ごめん。それ以上は聞きたくない」

最悪な言葉を吐かれる前に、その唇を手で覆った。掌に感じる吐息が、乱れる。手じゃなくて口で塞げばよかったなぁ。そう小さく後悔してから、そっと解放してやる。とりあえず、彼女のとんでもない勘違いを正すところからだな。

「なぁ、苗字。あの時、幸せだった?」
「────うん。すごく幸せだったよ」
「そっか、良かった。じゃあさ、今は?」
「今……しあわ、せ」
「嘘ばっか」

子どもみたいに目を逸らしたりするから、つい笑ってしまう。そんな俺を悔しそうに見つめる顔も可愛くて、胸が高鳴った。この攻防をどこか楽しんでいる自分がいる。どうやって、その心を解いてやろうか。

「三つ、勘違いしてるぜ。さっきの、逆だよ。あのとき仮初で終わったからこそ、今度は本物にしてぇの。それから、隣に居て切なかったことはあっけど、苦しいと思ったことなんて一度もない。最後に三つ目、苗字の為じゃなくて、俺の為だから────俺が、一緒に居たいんだ。つまり、苗字には止める権利ねぇってこと」
「なんで……」
「なんでって、本気で訊いてる?そんなの、決まってんじゃん。苗字には幸せでいてほしいし、俺が幸せにしたいからだよ」

そう言えば、零れちまうんじゃないかってくらい、瞳が見開かれる。少し潤む様を、ずっと眺めていたい。てか、自分で言うのもなんだけど、随分と積極的になったもんだな。いっぺん死んだからか。

「これは俺の意志だから、曲げようってんなら、それ相応の理由がいるぜ────本音、言えよ」

真っ直ぐに見返した。不安定に揺れる瞳、迷うように震える唇。あと一押し。スカートの横できつく握られていた手を取った。身を引こうとするから、指先に力を入れて、逆に距離を詰める。覗き込んで、見つめ合うこと数秒。やっと、彼女が口を開く。

「…──しかった」
「え?」
「嬉しかった。今日までずっと、全部、前と同じだったから。全く同じ人生をなぞってた。一番変えたかった結末も、結局何一つ変えられなくて……でも、貴方は違う出逢い方をしてくれた。それが、本当に嬉しかったの」

自分の思いを確かめるように語るところが好きだ。嘘じゃないって分かる。俺に届ける為に必死な姿が、堪らない。つい甘やかしたくなる。と同時に、少し意地悪してやりたい。一瞬そう思ったのに、小さく頷いた俺にほっとした顔をするから、そんな嗜虐心は吹っ飛んだ。大丈夫、ちゃんと届いてるよ。

「辛くて苦しかったけど、わたしっ、今度はちゃんと傘を差せたんだ。最初は、自分が薄情なのかなって思った。2度目だから、痛みにも苦しみにも、慣れちゃったんだなって。でも、違った────萩原のお陰。立っていられなくなりそうになった時にはね、いつも貴方を思い出す。そうすると、頑張れるの。だから、これからもひとりで大丈夫だって、生きていけるって、そう思った」
「うん、よく知ってる。俺も同じだから。思い出すだけで、無敵になれるんだぜ」
「そう、なんだ……嬉しい」

俺の言葉に、照れたように微笑んでそう言った。お喋りな方じゃないからか、感情を示す時は、結構ストレートなんだよな。嬉しいとか、苦しいとか。どうせなら、好きって言ってくれればいいのに。

「ひとりでも、私はきっと幸せになれる。働いて、好きな事をして、たまには美味しいものを食べて。本当に、そう信じてた。ううん、信じようとしてた…こうして萩原と再会するまでは」

そこで言葉が切られて、視線も逸らされた。流石にここでお預けはキツいが、待ては得意だ。黙って見守っていると、再び視線が交わる。それだけで、苗字がこれから何を言おうとしているのか、全部わかった気がした。でも、聞きたい。その声で、俺の為だけに紡いでほしい。促すように手を握り直すと、彼女は一度だけ唇を小さく噛んでから、息を吸って音にした。

「誰かを必要とする幸せは要らないって、いつか萩原に言ったでしょう?それなのに、いつの間にか幸せを求めている自分がいて。そしてその幸せは……っ、貴方が居なきゃ、どうしたって成り立たない。こんな独り善がりな望み、捨ててしまいたかったのに、出来なかった……ごめん、なさい。わた、し…ッ……私、これからも萩原と一緒に居たい。貴方と、幸せになりたい」

なんで泣くかな。笑った顔が好きなのに。って、人のこと言えねぇか。だって俺も、瞼が熱い。嗚呼、頼むからそんな不安そうな顔すんなよ。大丈夫、俺も同じ気持ちだって、そう伝えてやりたいのに、一つも言葉に出来ない。口達者だとか、いつか誰かに言われたけど、嘘じゃん。溢れ出す感情を処理しきれなくて、堪らず力の限り抱きしめた。導くように頭を引き寄せると、背中に腕が回されて、次に肩から温もりが伝わってくる。体温と、涙の温度。初日から学ランがハンカチと化したが、むしろ光栄。思う存分、使ってくれ。校舎裏で何やってんだか。どこか冷静に、もう一人の自分が呆れたようにそう言った。五月蝿え。人生の分岐点なんだから、黙って見てろってんだ。

「捨てないでいてくれて、本当によかった。苗字の幸せ、俺が絶対に守るから……だからさ、君の世界に居させてくれる?」
「うん…特等席、用意する」
「ははっ、やった……ん、よく出来ました」

耳元でそう囁けば、彼女は嬉しそうに笑った。両手で頬を包み込み、親指で涙を拭ってやる。ついでに、抱きしめた所為で少し乱れた前髪をそっと撫でた。

「花丸?」
「んー、80点ってところだな」
「ふふ、厳しいなぁ」
「どこが!超甘々だろ。まず、独り善がりの部分でマイナス15点。あと、ごめんなさいとか言ったからマイナス5点」

本当はマイナス20点でも少ないくらいだけどな。独り善がりだなんて、まだそんなこと言うのかと思った。これでも結構態度に出してるつもりなんだけど、どうして伝わらない。俺の頑張りが足りないのか、彼女が鈍いのか。もし前者だって言うなら、これからは迷わず全部言葉にしちまってもいいかな。『幸せにしたい』が控えめな表現だって知ったら、どんな顔するんだろう。本音は自分でも引くくらい重い────俺無しじゃ生きられないくらい、溺れちまえばいいのに。そんな思考が頭を掠めて、咄嗟に奥へと仕舞い込む。気を抜いたら、愛情の歪んだ部分が、滲み出そうになっちまう。

「配点がおかしいと思うんだけど……でも、次は100点目指して頑張るね」

そんな俺の気も知らないで、曇りのない笑顔でそんなことを言うから、猛省した。やっぱり笑った方が絶対可愛い。悲しい、痛い、苦しい。彼女が二度とそんな言葉を紡ぐことのないように。俺の全てを懸けて、その幸せを守ってみせる。

「あ、やべ。一つ言い忘れた」
「なに?」
「────好きだよ」

吐息が触れ合いそうな距離で、愛を告げる。俺を映す瞳が、また大きくなって、揺れた。だけどそこに、負の影はない。戸惑いからか、身体を硬直させるのが面白くて、笑った。ところが次の瞬間、そんな余裕は予想外の衝撃で消滅する。どんな言葉を吐いても色を変えなかったのに、彼女の頬から耳が薄く朱色に染まった。え、もしかして照れてんの。おいおい、反則だろそれは。いつもなら揶揄うところなのに、とても無理だった。何故か俺まで顔が熱くなってきて、咄嗟に口元を覆う。だって、なんか出てきそうだ。いや、吐きそうとかじゃなくて、なんか出てきちゃマズいやつが。

「わ、私も…す、
「はい、ストップ」

柔らかい唇に人差し指を当てて、遮った。危ない危ない。困惑顔の彼女に、苦笑を返す。流れるように下唇の左端から右端まで、親指を滑らせた。自然な色味で、荒れ一つない。噛み付いちまおうかな。

「あ〜、ごめん。正直、俺も聞きたいのは山々なんだけど、最後までとっておいてほしい……だって苗字さ、一番奥にあるもの、仕舞ったままだろ?」
「それ、は…ッ、

胸の辺りを指差して尋ねると、途端に怯えた顔をする。唇を開閉させて何か言おうとするから、慌てて付け足す。責めてるわけじゃないし、そんな顔をさせたいわけじゃない。

「おっと、誤解すんなよ。聞き出そうとかじゃねぇから。そうじゃなくて、なんつったらいいかな……全部は無理でも理解したいんだ、苗字の心ん中にあるもの。すっげぇ我儘言ってる自覚はあるんだけど、さっきの言葉は、最高の形で貰いたいから。えっと、これちゃんと伝わってる?」
「うん。私も、そうしたい。本当は、今伝えようとすると少しだけ胸が苦しい。萩原が言った最高の形は、これが消えた時のことを言うんだと思う」

そっと自分の胸を撫でて、自嘲気味に笑う。ほんと、清すぎて怖い。俺の言葉に、怒ったり悲しんだりする前に、ちゃんと理解しようとしてくれる。本人は当たり前のつもりなんだろうけど、誰にでも出来ることじゃない。

「消す方法なら分かるけど……」
「けど?」
「今すぐには難しい。それに、時間だけじゃなくて……萩原の協力が、必要になる」
「なーに言いづらそうにしてんの。遠慮とかしたら怒るからな。お安い御用に決まってんだろ。とは言ったはいいけど、指示くれると助かります」
「私が萩原に指示?」

驚愕の表情。指揮官がこれじゃ先行きが心配だ。まあ、副官が全力で支えますけれども。擽ったいやり取りに、口元が緩み出す。

「他に誰がいるんだよ。それとも我流でいく?」
「えっと、ちなみに我流というのは?」
「甘やかし尽くす」
「それは私が駄目になりそうだから却下」

駄目になっちまえばいいのに、と言いそうになる。難しそうな顔で考え込む姿が堪らなく愛おしい。ふと空を見上げ、息を飲んだ────雲一つない、青。たまたま今日が快晴だっただけだ。なのに、心一つで世界は景色を変える。小さく苦笑して視線を戻すと、彼女はまだ眉間に皺を寄せていた。可笑しくて、指先でそこをなぞってみる。ビクッと肩を震わせ口を結ぶと、意を決したように口を開く。どうやら作戦は決まったらしい。

「心のリハビリを、手伝ってください」
「ぶっ、はは!リ、リハビリ……っく、前から思ってたけどさぁ、苗字って言葉選びが秀逸だよな」
「全然褒めてないよね?」
「拗ねんなって。そういうトコも好きだって話」
「……お願いだから、サラッと言うのやめて」
「あれ、もしかして軽いと思われてる?」
「そうじゃなくて、耐性がないから。軽いだなんて思ってないよ……戯言じゃないのは、声でわかる」
「ふぅん。じゃ、やーめない」
「質が悪い」

フイと顔を背けて一言。ああ、可愛い。息を止めていた恋情が、また膨れ上がる音がした。もっと色んな顔を見せてほしい。それだけで、俺の世界は明るくなるんだ。あの日に失ったものが全部、いま目の前にある。離してたまるかっての。もう二度と、彼女を世界から消させはしない。今度こそ必ず、一緒の未来を掴み取ってやる。

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