胸踊る選択を

どうやら上手くいったらしい。入学式の翌日、萩原の顔を見てそう思った。こいつは普段から笑顔だが、長い付き合いだ。それくらい、すぐに分かる。

「杞憂だったみたいだな」
「なになに〜、心配してくれてたの?」
「はっ、吐かせ。お前らの恋路に付き合ってる暇はねぇんだよ」

肩を組んで、頬をつついてくる。ウザい。待てよ。と言うことは、こいつらは恋人同士なのか。それも入学初日から。一体何人の女子が戦わずして負けたことだろう。

「おい。念のため確認するけどよ、付き合い始めたって認識でいいのか?」
「付き合う?誰と誰が?」
「お前と苗字に決まってんだろ」
「たぶん両思いだけど、付き合ってはいねぇな」
「は?たぶんだと?テメェ、それじゃ前と何も変わってねぇだろうが!おちょくってんのか!?」

キョトン顔なのが余計にムカつく。思わず声を荒らげた。何にも学んでないじゃねぇか。人がこんなに苛ついてるってのに、当の本人は肩を揺らして笑っている。

「陣平ちゃんはさ、交際の定義って何だと思う?」
「それを俺に訊くのかよ。どう考えても、テメェの得意分野だろうが」
「得意分野、ねぇ……どうだかな。こんなに思い通りにいかねぇってのに?」
「普通じゃない女が相手なんだから当然だろ」
「ははっ、ご尤も。ああでも、告白はしたぜ?」
「……まさか振られたのかよ」
「そしたら今日布団から出られてねぇよ。今は返事しなくていいって、伝えた。抱えてるもんを俺に預けてくれるまでは聞かない。大好物は取って置く派なのよ」
「────ほんと、強欲な野郎だな」

意地なのか、けじめなのか。どちらにしても焦ったい。まあ確かに、こいつらは付き合ってなくてもデートはしていたし、端から見れば恋人同士だった。世間的な関係が恋人になったところで、何かが変わるわけじゃない。萩原のことだ。もしかしたら、あの11月7日を乗り越えた瞬間、交際をすっ飛ばして結婚するとか言い出しそうだ。その姿を想像して、思わず笑った。

**

「それでは次に、園芸委員」
「はーい!」

いっそ清々しい。勢いよく手を挙げる親友を、一番後ろの席から眺めた。思いも寄らぬ立候補に、委員長どころか担任まで目をひん剥いている。まあ、どう見ても花より女な奴だから、自然な反応だろう。そんな事を思いつつ、瞼をこじ開ける。またやりたくもない委員に配属されるのは御免だ。結果、俺は気合いで体育委員の座を勝ち取った。

「ちなみにさ、園芸委員って何すんの?」
「誰が教えるか」
「え、なんでだよ!?」
「不純な動機で立候補した罰だ」

騒ぎ出す野郎を放って、教室を後にする。クソ面倒だが、初回の集まりくらいは顔を出しておくか。欠伸を噛み殺しながら廊下を歩いていると、見慣れた背中が階段を上っていくのが見えた。思わず声をかける。何故って、園芸委員の集合場所は1階だ。そこで活動内容について説明を受けてから花壇に移動したのを憶えている。だのに、そいつは階段を上ろうとしていやがる。

「おい、苗字。お前、下じゃねぇの?」

床を指差し尋ねた。そんな俺を階段の真ん中から見下ろして、そいつは首を傾げる。意味が分からないって顔だ。ああ、そうだった。この女に確実に伝える為には、言葉にするのが最も早い。

「委員会。園芸委員は1階集合だろうが」
「私、園芸委員じゃないけど?」
「は……ぶ、ははは!」
「松田?どうしたの?」

急に笑い出した俺に、慌てて階段を下りてくる。気でも違ったかと思ったらしい。失礼な奴だ。側までやって来た苗字を手で制して、ここには居ない親友を思い浮かべる。ドンマイ。それ以外の言葉が思い付かない。本当に、厄介な女だ。

「何でもねぇよ。ちゃんと正気だから、安心しろ。呼び止めて悪かったな…オラ、さっさと行けって。お前もこれから集まりあんだろ?」
「うん……じゃあ、また」

怪しげに俺を見て、今度こそ階段を上っていく。真っ直ぐな背中が消えたのを見届けて、俺も歩き出す。今頃、萩原は意気消沈していることだろう。ただの花好き男になっちまったわけだ。笑える。

「恋って難しいな、陣平ちゃん」

委員会を終えて教室に戻れば、萩原が苦笑いでそう言った。それを見て、また笑いが込み上げてくる。そんな俺を拗ねたように睨んでくるが、怖くも何ともない。そして、丁度いいところに件の女が通りかかった。どうやら、クラスに戻る途中らしい。

「あ、苗字!なぁ、なんで園芸委員じゃねぇの!?一緒に花の世話やりたかったのに!」
「萩原、花が好きなんだ。初めて知った」

苗字が驚いたようにそんな事を言うから、萩原はなんとも言えない顔をした。好きなのは花じゃなくてお前だっての、と心でツッコミを入れる。素直もここまでくると天然だ。まあ、見てる側としては楽しいが。聞けばこいつは、図書委員だと言う。

「人の相手するのは面倒なんじゃなかったのか?」
「松田って無駄に記憶力いいよね」
「無駄には余計だっつーの」
「もっと世界を広げてみようと思って。だから、まずは身近なところでチャレンジしてみる」
「へぇ……ま、頑張れよ」

萩原が何も言わないから、とりあえず激励しておいた。ただの社交辞令に苗字は笑って礼を言うと、再び廊下を歩き出す。その姿が見えなくなって、チラと隣を覗けば、無表情の親友の顔。

「表情が死んでっぞ。お得意の笑顔はどうしたよ。どうせ、しょうもないこと考えてんだろ……複雑なのか?他人と関わるの、気に入らねえって顔だぜ。俺の前なら構わねぇけど、あいつの前では見せんじゃねーぞ」

俺からすれば喜ばしい事だと思うが、こいつとしては微妙なんだろう。世界が広がるというのはつまり、それだけ苗字が関わる人間も増えるってことだ。

「わかってる。ああ見えて妙に鋭いからなぁ。不安がらせるだけだし。はぁ〜。他に好きな奴ができたとか言われたら、死ぬ……な、俺ってウチの高校で一番イケてるよな?」
「調子に乗んな。見て呉れが良い奴なんざ、世界に山程いるだろうが。身近なとこだと、ゼロだな」
「あ〜、降谷ちゃんね。もうちょい愛想よければ完璧…いや、そうじゃなくて!中身の話!!」
「はっ、それこそ俺に訊いてる時点で不合格だ」

他人に意見を求めんじゃねえよ。そんな暇があるなら、1秒でも長く傍にいろってんだ。俺の返しに不満そうな顔をした後、萩原はあいつが去っていった方を見つめていた。惚れた女の前では常に格好つけていたい。それは萩原に限らず、男という生き物の性なんだろう。嫉妬だとか不満だとか、そういう類のものは見せたくない。その意地はいつか、こいつらの関係に悪い影響を与えるんじゃないか。と、一瞬そんな不安が過るが、すぐに消え失せた。視線の先で、萩原が笑ったからだ。ああ、そうだったな。苗字の世界が広がることでテメェの不安が増えるとしても、それがあいつの喜びになるなら、萩原はきっと今みたいに笑うんだろう。そういう男だと、俺は誰より知っている。

**

「松田?」
「よォ。ハギから伝言だ。用事ができたから、少し待っててくれってよ」
「そう、わかった。態々ありがとう」
「……お前さ、不安じゃねぇの?」

5月の中旬のことだ。帰り際、萩原が女子に呼び出された。苗字と一緒に帰る予定だからと、俺が伝言役にされたわけだ。用事だなんて濁したところで、バレバレだろう。この女は馬鹿じゃない。例えば、担任にパシられたかとか、急な委員会の仕事が入ったとか、それなら俺が正直に言うだろうことを理解している。だのに何も聞かずに頷くから、無意識にそう問いかけていた。

「今はまだ、ね。生きるだけで精一杯だし。そもそも萩原は私のものじゃないから、今までもこれからも。でもいつか、松田が言ったように不安に思う日が来る気がして少し怖い、かな。自分がこんなに強欲だって、初めて知った……笑っちゃうよね」

いや、こっちの台詞だっつの。何を言い出すかと思えば、至極当たり前の感情だろそりゃ。こいつは本当に高校生か。そもそも前世合わせりゃ結構いい歳なのに、信じられない。最先端のロボットの方が、人間らしいんじゃねぇか。

「お互い様だろ」
「お互いって、誰と誰が?」
「お前と萩原。安心しろ。そりゃ人として当たり前の感情だ。あいつのに比べれば、お前の欲なんざ蟻ん子みてぇな大きさだし」
「蟻……参考までに聞かせてほしいんだけど、私のが蟻として、萩原は?」
「象。いや、地球。どころか太陽」
「そんなに?」

真顔で答えてやれば、苗字は肩を揺らして笑った。ガキみたいな表情に、なんとも言えない気持ちになる。忘れていた。そういや、そんな顔もするんだったな。あの儚げな表情を見せたのは、再会してから一度きりだ。傍にいなくても、萩原と過ごした時間が、こいつを支えていたんだろう。最後は吹っ飛んじまったわけだが、あいつの人生は決して無駄じゃなかった。この女を見ていると、そう思う。

「ねぇ、松田。訊きたい事があるの」
「なんだよ」
「萩原はあの時、ちゃんと幸せになれた?」

すぐに返事をすることができなかった。震えそうになる唇を噛む。辛うじて、視線だけは逸らさぬように努めた。でなきゃ気取られる。さて、どう答えたもんか。

「それを聞いて、どうなる。戻れやしないのは、お前だって分かってんだろうが」
「そう、だね。安心したかっただけかもしれない」
「どう答えたら安心すんだよ」
「……ごめん、やっぱり答えなくていい。どちらにしても、私を救う答えだから」

僅かに顔を歪めて、悔いるようにそう言った。どちらにしても。つまり、萩原は幸せだったか────その問いに俺が頷こうが否定しようが、こいつは安心するってことだ。幸せだった、そう答えてほしいのだと思ったが、違うらしい。黙ったままの俺に苦笑を返し、苗字は続ける。

「幸せだったなら、もちろん嬉しい。逆にそうじゃなかったとしたら悲しいけれど、同時に嬉しいの。それだけ私が、萩原の中で特別だったってことだから。自分本位だよね……幻滅した?」
「いや、別に」

自嘲気味に尋ねてくるから、否定してやる。そんなんで幻滅してたら、人付き合いなんてやってられるか。むしろ普通になっただけだろ。

「そもそも、俺じゃなく本人に訊けばいいだろ」
「訊かないよ。萩原はきっと、嘘でも幸せだったって言うだろうし。私にはその真偽を見破ることはできない。でも、だからって松田に訊くのは卑怯だよね。貴方は絶対、私の為に嘘を吐いたりしない。それを知ってたから、
「お前はどうなんだ?お前は、幸せだったのか?」
「うん、とても」

即答かよ。迷いのない答えに、思わず笑った。あんな生き方を選ぼうとしたんだ。決して幸福で満たされた人生じゃなかったんだろう。それに、長生きとはとても言えない、20年と少しで幕を閉じちまった。それでもこいつは、俺の問いに晴れやかな顔で頷いて見せた。

「なら、訊くまでもねぇな。あいつは確かに幸せだったぜ。お前が幸せなら、そんだけで萩原は幸せなんだよ……ふは、すっげぇ馬鹿面。俺の言う事が信じられないってか?」
「まさか。信頼できる相手だから、吃驚してるんだよ。貴方は嘘を吐かないし、他人にも自分にも正直なのよく知ってる」
「そうかよ」

俺の問いに容易く否定をすると、眩しげに見返してくる。そんな顔で見るんじゃねぇよ。茶化したのは俺なのに、無性にむず痒くなって返事が自然と素っ気なくなった。そんな俺の反応に気分を害した様子はない。妙な沈黙の後、一度だけ瞬きをして苗字が言った。悠然と、それでいて明瞭に。

「私は、萩原に幸せになってほしい」

曇りのない声だった。心からの望みだと、俺でもわかる。ところが、当の本人は戸惑うように自分の唇を撫でた。どうやら声に出すつもりはなかったらしい。決まり悪そうにこっちを見るから、笑ってやった。

「答えは出たな。頭はいいんだから、解けるだろ。ほら、言ってみろ」
「珍しく意地悪だね」
「ばーか。俺はどっかの誰かと違って、別に優しかねぇよ。お前が勝手にそう解釈してるだけだ」
「そういうことにしておく────幸せに、ならなくちゃね」

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