淡く鮮烈な彼女

さて、どうするかな。ゆっくりと歩きながら、隣に感じる気配に頭を悩ます。勢いでこんなことになっちまったけど、完全に見切り発車だろこれ。とにかく会話だ。

「あの、そろそろ手を放してもらっていい?」
「え・・・あ、ごめん。痛かった?」
「いや。怖い顔してたけど、手は全然」

パッと手を放す。痛かっただろうか。そう尋ねると、彼女は首を横に振った。揺れる横髪の隙間から白い肌が覗く。自由になった手で、鬱陶しそうに髪を耳にかける仕草がやけに大人っぽく見えた。

「あー、えっと、バイト先ってどこ?」
「少し先にあるパン工場」
「工場・・・そりゃまた珍しいね」
「シール貼ったり、箱に詰めたり。簡単な作業だけど、人と話さなくて済むから楽」

ファミレスでもコンビニでもなかった。確かに、歩いて30分くらいの所にパンの製造工場がある。それにしたって、女の子が工場でバイトってマジか。いやでも、最適なバイト先なのかも。

「嫌じゃなかったら送って行くよ。ダメ、かな?」
「嫌ではないけど、途中から自転車なんだ。すぐそこの駐輪場に停めてる。だから送ってもらうにしても、ほんの1分くらいだし」
「バイトって、何時から?」
「16時。早く着き過ぎちゃうから、どこかで時間潰そうと思ってた」

スマホの画面を表示すると、まだ15時そこそこ。微妙だな。カフェで時間を潰すには短いし、自転車で行ったら30分前には着いてしまう。

「じゃあさ、歩いて行かない?」

俺の提案に彼女は立ち止まり、初めて表情を崩した。本気で理解不能だと言いたげな顔だ。まあ、そうですよね。逆の立場なら、俺も同じ反応する。なんでそこまでって怪しむだろう。正直、自分でも理解できない。どうしてここまで食い下がるのか。

「それだと、ただ私を送って帰るだけになる。そもそもなんだけど、なんで私だけ送ってくれようとしてるの?何一つメリットないよね?」
「あるよ。君と話ができる」

即答すれば、また表情が変わった。そのとき彼女の瞳に俺が映る。初めて目が合った気がした。そこに警戒の色はなく、ただ純粋に疑問だと訴えかけてくる。こっちが教えてほしいくらいだ。なんでこんなに気になるのか。好きだから−−−どうだろう。松田とこの子、どっちが大切かって訊かれたら、俺は松田だって即答する。ああ今、巻き込むんじゃねぇって声が聞こえた気がした。恋だなんて綺麗なものじゃない。だってさっきから、鼓動は正常だ。この少し風変わりな女の子と戯れたいだけ。すぐに終わりが来る。例えばある子供が親に強請ってペットを飼ってもらったとして、最初は可愛いと愛でても、一月も経てば世話が面倒になる。動物に例えるだなんてすごく失礼だと思うけれど、きっとそんな感じだ。

「分かった」
「・・・驚いたな。自分で言っておいてなんだけど、そんな簡単に信じちゃって大丈夫?」
「最大限に警戒してる。こんなに変な人は初めてだから。じゃあ、とりあえず駐輪場で」

その変な人の気まぐれに付き合おうとしている彼女も、相当変わっている。駐輪場の方向を指差して、歩き出す。警戒してると言っておいて、容易く背を向けるのはどうなんだろう。たぶん、彼女の言う"警戒"は身体的な侵害に対するものじゃない。心の方だ。

「名前……萩原、だっけ」
「へ、ああ、うん。萩原研二、です」
「ふふっ、なんで急に敬語なの。普通に話していいって言ったの、そっちなのに」

急に名前を呼ばれて、狼狽えながらも自己紹介する。それに彼女は可笑そうに喉を鳴らし、予想外の返しをしてきた。会話をしたのは、今日を除けばたった一度だ。あの日、あの入学式の日だけ。

「憶えてたんだ、俺のこと」
「そりゃ憶えてるよ、他の人よりずっと鮮明に。手を貸してくれたでしょう?結構困ってたからすごく助かった」

ありがとうと、最後にそう呟いた瞬間すら、その目は俺ではなく前を向いている。それなのに、どうしようもなく嬉しかった。思わず緩みそうになる唇を、なんとか元の位置に戻す。駐輪場に着いて、自転車を出そうとしている背中に問いかける。

「自転車、ちゃんと修理してもらった?」
「うん。チェーンも交換して、この通り新品同然。ついでに悪い所は全部直してもらったから。修理屋の人が適切な処置だって感心してたよ。やってくれたのが同級生の男の子だって言ったら驚いてたし」

穏やかな声に耳を傾ける。恋じゃない−−−本当に。ついさっき出した結論が秒で揺らぐ。笑ってくれると、胸が高鳴らなくても妙に安心するんだ。自然と自転車のハンドルを掴んで、彼女が持っているカバンを指差した。

「カゴに入れなよ」
「そこまで重くないし、いいよ。それに・・・、
「それに?」
「いや、なんでもない。自転車押してくれるだけでも十分」

一瞬だけ瞳が揺れたのが気になった。大事そうに肩にかけたカバンの持ち手を握りながら。また、知らない顔。彼女にしか見えない何かを見てる。その警戒を解いて、心に踏み入ったら、同じものが見えるかな。なんだこれ、情緒不安定じゃん、俺。駐輪場を出て、思い出したように尋ねる。

「あのとき用事があるって言ってたけど、ちゃんと間に合った?」
「お陰様で。待ち合わせ・・・と言っても別に時間が決まってたわけじゃないんだけど。いつ行っても怒られないし。ただ私が、少しでも早く行って、少しでも長く一緒に過ごしたかっただけ」
「そっか、良かった」

その言葉の端々に、温もりが宿っていた。彼女にこんな顔をさせるのは、どんな野郎なんだろう。いつ訪ねても怒らないとか、よっぽど懐の広い奴なのか。興味はあるけど、普通の女の子にするように「彼氏?」と尋ねるのは違う気がした。なんとか寄り添うような答えをし、笑顔を見せる。

「そういえば…松田が前に言ってた友達だよね。確かに見た目はちょっと怖いけど、話してみるとそうでもなかった」
「俺より何倍も優しいよ、松田は」
「そうなんだ」

ここにはいない親友の話になるのが面白くなくて、つい無意識に自虐をぶち込んだ。ところがそれは、ストレートで返ってくる。そうなんだ、って。思わずその横顔を見つめ、苦笑しながら返事をした。

「否定、しないんだね」
「え…うん。だって否定できるほど、私は貴方のことをよく知らないから。それに幼馴染の萩原が言うなら事実なんでしょ」

少しも悪びれる様子はない。当然だ。彼女が言っていることは何も間違っていない。まるで数学の証明のように順序よく、説明してみせた。きっと頭が良いんだろう。もしも、さっきの言葉は嘘で、俺の方が優しくて良い男だって言ったら信じてくれるのだろうか。なんて、そんな事を考えている時点で駄目だろ。

「なら、確かめてみてよ」
「・・・確かめるって、何を?」

俺が立ち止まると、彼女も足を止めた。何言ってんだと自分でも思う。脳内では冷静な自分が「やめるなら今のうちだ」と叫んでいる。まだ高校生活一年目なのに、たぶんこれが最大級の悪ふざけ。

「俺より松田の方が優しいってことを、だよ。それで苗字さんの結論を教えてほしい。ゲームだと思ってくれていいから」
「やらない」
「・・・だ、だよね〜。ごめん、冗談」
「今後、貴方と関わり続ける予定はないから」

へらっと笑って、はい終わり。その筈だったのに、変わらぬトーンで渾身の一撃。申し訳さの欠片もなく、彼女はただ真っ直ぐにこちらを見ていた。この数ヶ月、不自然なくらいに交わらなかった視線が、俺を射抜く。

「なんで・・・今のそんなに気に障った?」

ヒクと喉が鳴った気がした。怒らせたのだろうか。いや、そんな感じじゃない。彼女はたぶん、不要な関わりは持たない。松田とは委員会が同じだけど、俺は違う。だから、要らない。

「関係ない。貴方とはクラスも別だし、委員会だって違うでしょ。他人・・・だから」

ほら、やっぱり。心が軋む音がする。怒りか、悲しみか。たぶん前者。要らないなら、ちゃんと息の根を止めろよな。本心なら、なんで言い淀む。

「他人、ね・・・君は今、俺とこうして話してるのに?松田は?あいつも他人?」

惑うように瞳が揺れる。迷うのかよ。胸が騒つく。表情が消えていくのが分かる。交わっていた視線を逸そうとした彼女の手首を掴んだ。親指と人差し指で足りるくらい細い。何か言おうとしているのか、唇が一度開いて、また閉じる。

「ごめん」

謝ったのは俺だ。今のも冗談だと言えたらよかった。だけどそんな余裕はなくて、得意の笑顔すら上手く作れない。だから笑わなかった。そっと手を放して再び歩き出せば、小さな足音を響かせて付いて来る気配がする。女の子との関係で大事なのは会話だ。まあそれは一般論、彼女は例外。それから約15分、目的の場所に到着する。運がいいのか悪いのか、信号は全て青だったから、思ったよりも早く着いてしまった。

「(青信号ねぇ・・・本当かよ)」
「送ってくれて、ありがとう。自転車も。いつもと違くて少し楽しかった。じゃあ、気を付けて」

さっきの怯えたような瞳はない。自然な動作でハンドルを奪うと、彼女は俺から距離を取った。楽しかったって、どのへんが。そう尋ねる前に背中を向けられて、口から出たのは息だけだった。淡々とした口調で、思いも寄らない言葉をくれる。消えそうな雰囲気を纏いながら、心にはくっきり足跡を残していく。

「相変わらず、凛々しい背中」

一度たりとも振り向かない。真っ直ぐな後ろ姿を見届けて、来た道をひとり引き返す。スマホを出そうとバックの脇ポケットに手を突っ込んで、違和感。指に触れた何かを掴んで取り出した。

「いつの間に・・・今度はブドウ味か」

入っていたのは、あの日に貰ったのと同じ飴。お礼のつもりだろうか。飴なんかより、あと5分長く話していたかった。早速封を切って、口に放り込む。舌で転がしながら、全種類貰ったら終わりかな、なんてことを思った。話す度にくれるとしたら、あの飴は味が5種類だから、あと2回。いや、他人だからこれで最後かもしれない。

「それは嫌だな」

ぽつりと這い出た呟きを拾う者はいない。駄々をこねる子どもと同じだ。妥協点が見つからない。本気になれるほどの想いじゃないのに、関係を断つのは堪らなく怖いだなんて笑える。この、躊躇している時間がいかに無益だったのか、俺がそれを知るのはずっと先。

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