甘くて熱い季節

「今年は長梅雨だね。もう7月下旬なのに」
「憂鬱?」
「ううん、そんなことない。雨は嫌いじゃないし、雨音を聴いてるとよく眠れるから。土砂降りは、流石に困るけどね」

そんなこと考えたこともなかった。むしろ五月蝿いから窓は閉めちまうくらい。今夜は窓開けて寝よ。そう決めて、傘の持ち手を握り直した。

「俺も好き。今日みたいに相合傘できるからね」
「……いつも肩濡らしてるくせに」
「じゃあもっと近付いちゃおっかな」

少し目元を赤くしながら、右隣で彼女が言う。可愛すぎて口元が緩んだ。俺が調子に乗って尋ねると、警戒したのか距離を取ろうとする。予想どおりの動きだったから、簡単に対処できた。傘を左手に持ち直し、自由になった右腕を細い腰に回して引き寄せる。ふわりと香る彼女の匂いと、柔らかな感触。衝動のままに頬に口付けた。

「濡れるから離れちゃダメだよ」

頬の上を滑らせるように唇でなぞって、耳元でそう零した。ピクリと震えた身体に、男心が揺らぐ。隙だらけなのも考えものだ。雨音がやけに小さく聞こえる。触れた場所から、心臓の音が届いてしまうんじゃないかと思った。崩れかけそうな理性を保とうと必死になっていると、苗字が俺の後ろを見て声を漏らす。釣られて視線を向ければ、電柱にポスターが貼ってある────夏祭り。そこにはそう書いてあった。

「もうそんな時期か」
「その頃には梅雨が明けてるといいね。出店とか催しとか、雨の中じゃ大変だろうし」
「なーんで他人事なのかねぇ。一緒に行こうぜ」

いや、企画側の心配かよ。らしいなぁと思いつつ、お誘いしてみる。パチパチと瞬きをする様子が、小動物っぽい。長い沈黙に、もしかして聞こえてないのかと不安に思い始めた頃、苗字が微笑んで頷いた。それを見て俺も頬が緩む。

「なぁ。もう一つ、お願い聞いてくれる?」
「いいけど。もう一つは変。今のはお願いじゃないよ。だって私も一緒に行きたいから」
「出たぁ、天然パンチ」
「なにそれ」
「いや、こっちの話……えっとですね、浴衣着てほしいんだけど、ダメですか?」

サラッと出てこいよ、台詞。雨音に攫われそうなくらい小せえ声だ。それでも彼女の耳には聞こえたらしい。思いも寄らないお願いだったんだろう。また沈黙。く、苦しい。なんとも言えない息苦しさが心地いい。少し斜め上に目線をやる苗字に、口が勝手に動いた。

「あ、嫌なら大丈夫。どんな服でも可愛いから、
「嫌じゃないよ。ただ、古いのしかないから買いに行かないと。何色がいいかなって考えてた」
「色かぁ……ごめん。リクエストしたいところだけど、何色でも似合うから決められねぇわ」
「優しい嘘をありがとう」
「いや、嘘じゃないんだけど。マジで言ってる」
「ふふ、わかってる。嬉しいよ。夏休みに入ったら、ライカを誘って買いに行こうかな」
「……名前で呼んでんだ、如月のこと」

無意識に出た言葉。耳に届いた自分の声は、思ったよりも冷たくて、嫉妬が滲んでいた。拗ねる子どもみたいで笑える。当たり前だろ、女同士なんだから。そもそも、如月も名前って呼んでたし。俺の変化に気が付いて、苗字が首を傾げた。俺のことも研二って呼んでほしい。喉先まで出かかった望みを、唾液と一緒に飲み込んだ。お楽しみは最後。そう念じ、首を振って笑い返す。

「すっげぇ楽しみにしてる。如月なら絶対、苗字に一番似合うやつ選んでくれるぜ」

**

そして、夏祭り当日。家まで迎えに行くつもりだったが、如月に却下された。祭り中は独り占めするんだから往路くらいは譲れ、とのこと。一番最初に見たかったのに。指定された神社の入り口で、ぼんやりと人の波を眺めた。女の子はやっぱり、浴衣を着ている子が多い。皆おしゃれをして、気合十分って感じ。きっと祭りの勢いに任せて告白しようとしている子もいるんだろう。俺も今日はキスしていいかな。脳内でそんな自問をした次の瞬間、息を飲む。音が、消えた。こんなに人が大勢いるのに、なんで見つけられるんだ。格好だって、いつもと違うのに。人混みの中で視線を巡らせる姿に、意地悪してやりたくなるけれど、それより早く近くで見たい。

「苗字!」

喧騒に攫われないように、少し大きな声で名前を呼んだ。彷徨っていた視線が、俺を捉える。瞬間、ふわりと笑ったりするから、心臓が変な音を立てた。一方で、苗字の隣にいた如月は、嫌悪感丸出しの顔をしている。随分と嫌われたもんだなぁ。そんな友人に手を振って、彼女が俺の方へと歩いて来る。履き慣れていない下駄が歩きづらそうで、堪らず駆け寄って手を取った。いつだって自分から来てくれたら嬉しいけど、やっぱり姿が見えたら迎えに行かずにはいられない。まず、握った手の感触に驚いた。ネイルしてる。

「ごめん、遅れちゃって」
「全然。いつまででも待ちますよ。てか、まさかと思うけど、急いで来たの?足痛くない?」
「大丈夫だよ」

少し身を引いて、改めて全身を視界に入れる。浴衣の色は涼しげなライトグリーンで、生地には白と薄ピンクの花模様。メイクはナチュラルだけど、長めのアイラインにラメが光っている。アップにした髪の下には綺麗な頸が見えるんだろう。向かい合っていて叶わないのが惜しまれるな。

「かっわ!!!」
「川?」

思わず声を上げる。興奮して最後まで言えなかった。お陰で流れる川だと勘違いされる始末。ちゃんと言い直そうとしたけど、動悸が激しくてそれどころじゃない。落ち着け、心臓。

「ワリ、2文字飛んだ……可愛い。惚れ直した」
「あ、ありがとう」

困ったように視線を逸らす姿が、どうしようもなく愛おしい。こんなんで最後まで保つのか、俺よ。身体が熱いのはきっと、夏の所為じゃない。だって、お礼を言った唇を直視できないでいる。何度「ありがとう」と言われようが、その度に心を揺さぶられるんだ。

「そんじゃ、行こっか」

そう言いながら俺が指を絡めると、小さく頷いて手を握り返してくる。努めてゆっくり歩いた。ふと、思い出す。そういや昔、誰かが話していた。彼女と夏祭りに行った時のこと。下駄の音が耳障りだったとか、最後は浴衣がはだけて幻滅したとか。チラと横を見て、笑い飛ばしたくなった。歩幅が短いから、いつもより足音が沢山聞こえる。下駄を履く機会なんて多くないはずだけど、引きずるみたいな感じじゃなくて、規則正しくカッカッと音がした。姿勢が元々いいから、和服が似合う。着慣れているように見えるのが、彼女らしい。

「お〜、屋台いっぱいだな。なんか食う?」
「たこ焼きが食べたい。あと、りんご飴」
「了解。買ってくるから、あそこに座ってて」
「自分の分は自分で買うよ。萩原だって食べたい物あるでしょ」

食べたい物、ね。今目の前にありますけど。なんて台詞が飛び出してきそうになる。悟られないように、意識して口角を上げた。ずっと思ってたけど、妙に遠慮がちなんだよな。たぶん、何か貰ったら、何か返さなきゃならないと思ってる。見返りなんて、求めてねぇのに。

「じゃあ、焼きそば。折角だから半分こしようぜ。あと、りんご飴は俺が買うから。少しくらい格好付けさせてくれよ。これも甘える練習だと思ってさ」
「わかった……なんか言葉巧みに誘導されてる気がするけど」
「警戒しすぎ、気の所為だって」

唸るようにそう言いながら、キュッと眉間に皺を寄せた。不機嫌な時の顔なのに、嬉しくなる。でもここで揶揄ったら、やっぱり自分で買うとか言い出しそうだからやめとく。手を握り直して、まずは焼きそばとたこ焼きを買った。

「お、準備いいね〜」

臨時で設置されているベンチに座ろうとしたら、苗字がハンカチを敷くのを見て、いつかの海でのやり取りを思い出した。

「また萩原の借りるわけにいかないから」
「なら膝に座る?」
「遠慮しておく」
「はは、即答かよ!」

真顔で断られる。残念。並んで腰掛けて、たこ焼きに爪楊枝を刺す。焼きたてだし、中は見るからに熱そう。冷ますために息を吹きかけると、鰹節がフルフルと動いた。隣では彼女が律儀に手を合わせて、箸を割っているところだ。焼きそばに注がれている視線を遮るように、口元にたこ焼きを持っていく。

「はい、あ〜ん。熱いから気を付けろよ」

どうせ「結構です」とか言われるんだろうな。玉砕覚悟の試みだったはずなのに、予想外で最高な反撃に遭う。そっと箸を置いて、彼女が俺の手首を掴んだ。驚き過ぎて、手を引っ込めるどころか、身体は硬直するだけ。そして間髪入れずに次の攻撃。伏し目がちな視線で耳横の後れ毛を抑えると、顔を近付けてくる。唇から覗いた舌に喉が鳴って、夏なのに鳥肌が立った。小さな口にたこ焼きが吸い込まれてやっと、我に返る。時々こうして涼しい顔でかましてくるから怖い。こっちの身が持たないんだけど。ひとり悶々としていると、さらに追い討ちをかけられる。

「萩原も、はい」
「い、いただきます」

顔の前に差し出された焼きそばを、口に含む。こんな緊張感で食事するの初めてだわ。飲み込むまで見届けられて、なんとも言えない気持ちになった。二重の意味でご馳走様って感じ。心を落ち着けようと目を閉じた一瞬、口端に何かが触れる。慌てて瞼を上げれば、彼女の手が離れていくのが見えた。

「吃驚したぁ…え、なに今の?」
「ごめんね、青のり付いてたから」

目尻を下げながらそう言って、何にもなかったみたいに食事を再開するんだから敵わない。これで無意識だもんなぁ。将来有望だよ、ほんと。

「にしても人が多いな。手離さないでね」
「うん」
「お、金魚掬い!ガキの頃さ、陣平ちゃんとふたりで勝負したら、空にしちまってよ」
「ふは、業務妨害だね」

そんな会話の途中、ふと違和感を覚えて足を止める。くしゃりと笑うから、危うく気付かないところだった。首を傾げる彼女の肩を抱き、人混みを抜けて、端へと移動する。

「はい、座った座った……足、痛めてんだろ?」
「っ、大丈夫だよ。ただの靴擦れだから」
「好きな女が痛いの我慢してんのに、平気でいられるわけないでしょ。いいから座る、ほら」

不本意そうな顔に、思わず笑う。ベンチに座らせ、ポケットから絆創膏を取り出した。それを開けながら、跪く。迷わず右足に触れて、努めてそっと下駄を脱がせた。

「絆創膏、いつも持ち歩いてるの?」
「まあ、やんちゃな幼馴染がいるからな……なーんでバレたんだって顔してんね」
「うん。我慢できない痛みじゃないし、顔にも出てなかったと思うんだけど」
「足音。無意識に引き摺ってたっしょ。右足だって分かったのは、さっき左足を最初に出したから。苗字、利き足は右だろ?」

お望み通り答えてやる。ちょうど鼻緒が当たる場所、親指と人差し指の間に絆創膏を貼った。帰るまで剥がれないといいけど。褒めるように足の甲を撫でると、小さくお礼が降ってくる。

「萩原の前じゃ隠し事はできないね」
「どの口が言うんだか」
「いつか、ちゃんと話すよ……絶対に」

揺らぎのない声に、思わず顔を上げる。真っ直ぐに俺を映す瞳は、世界で一番綺麗だ。その言葉だけで、何十年でも待てる気がするんだから、笑っちまう。声を漏らしながら、膝の上に置かれている両手を握る。

「りんご飴買って帰りますか」
「うん、ありがとう」

うわ。上目遣いもヤバいけど、見下ろされるのも良い。ニヤけそうになりながらも、再び歩き出した。さっきよりも速度を落として、少し遠くに見える屋台を目指す。キラキラしたりんご飴を手渡すと、同じくらい目を輝かせるもんだから、愛しすぎて胸が苦しくなった。

「気を遣わせちゃってごめんね。でもその、懲りずにまた一緒に行ってくれたら嬉しい」
「何を言い出すかと思えば……あったりまえだろ。てか俺、今日めっちゃ楽しかったからな」
「私も、萩原となら全部楽しいよ」

いや、破壊力よ。堪えられなくて、左胸を抑える。恋煩いとは、正にこの事だろう。神社を出て暫く歩くと、人通りが疎らになる。隣を見れば、彼女はまだりんご飴と格闘していた。感想を聞いたら、思ったよりも固くて食べ難いとのこと。てか、食べたことないのか。また"初めて"頂きました。辛辣な意見のわりに、横顔は嬉しそうだ。どうやら味の方はお気に召したらしい。

「なーんか、見てたら俺も食いたくなってきた」
「分けてあげたいけど、食べかけだから。今から戻って買って来ようか……萩原?」

本気で踵を返そうとするから、りんご飴を握っている方の手首を掴んで引き寄せる。片腕は背中へ回して、帯の少し下に。大きくなる瞳を覗き込みながら、額と額を合わせた。至近距離で視線が絡んで、吐息が交わる。彼女が恥じらうようにキュッと目を閉じた隙に、唇に噛み付いた。途端、薄く瞼が開く。震える睫毛の下で、潤んだ瞳が俺を捉えた。ああ、堪らない。身体の芯が疼いて、口内に広がる甘さに眩暈がしてくる。りんご飴って、こんなに甘かったっけ。そんな阿保みたいな事を思いながら唇を離した瞬間、彼女が微かに声を漏らす。その色っぽさと吐息の熱さに、理性がぐらつく。

「っ、頼むからあんま煽るなよ。そんな可愛い声出されっと、抑えらんねぇから────全部、食べちゃいたくなるだろ」

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