温かな呪いとなり

※コミックス102巻のネタバレがあります。

「あっちぃ〜」

うだるような猛暑の中、隣で萩原がぼやく。五月蝿え。余計に暑くなるだろうが。文句を言う気も起きない。体力の無駄。何が楽しくて、こんなクソ暑い日に出かけなきゃならねぇんだ。行き先はファミレスで、言い出したのは萩原だ。昼飯を済ませるついでに、異常な量の夏期課題を少しでも終わらせる。なんてのは建前だろう。

「お疲れ様」

何故って、面子にこの女がいる時点でお察し。汗だくの俺達を、いつもの涼しい顔で出迎える。こいつの周りだけ季節が逆転してるんじゃねぇのか。先に来ていた苗字は、すでにテーブルにテキストを広げている。

「おい、ハギ。俺の隣に座んな。向こう行け」
「つれないこと言うなよ。苗字の隣だと誘惑が凄くて集中できないじゃん」

なら呼ぶなっての。確かに苗字は成績が良いが、俺も萩原も別に馬鹿じゃない。赤点なんざ取ったことねぇし、生活態度がちょっと悪いだけだ。態々こいつに教えを請う必要はない。そう思ってるのに誘われるまま同席してる自分が気に食わねえ。

「何から始める?理系科目?」
「お前は何からやってんだよ」
「現文と世界史」

現文だと。こいつ、正気かよ。何も食ってねえのに、口の中が苦くなってくる。「げえ」と声まで出た。そんな俺に、揃って苦笑を向けてきやがる。嫌いなんだから仕方ねえだろ。てか、俺は漢字が読めりゃいいんだよ。

「苗字はさぁ、嫌いなものって先に片付けちゃうタイプ?」
「そうだね、課題も食べ物も」
「俺も俺も。陣平ちゃんはね、逆なのよ。真っ先に好きな物に飛び付いちゃう」
「……ああ、成る程」
「おいテメェ、なんだその間は。ぜってぇ失礼なこと考えただろ!!」

少しは隠せってんだ。普段は何考えてっか分かんねえ面してるくせによ。俺が声を上げて抗議すると、フイと視線を逸らして「そんなことない」とすっとぼけやがった。こいつマジで嘘下手だな。顔を引き攣らせていたら、隣から笑い声が聞こえた。ムカついたから強めに腹を殴っておく。結局、数学から取り掛かることになった。

「あれ、陣平ちゃん。そこの解き方、違くね?」
「あ?なに言ってんだ。この定理使えば、計算量が少なくて済むだろ」
「いや、萩原の方で合ってると思う。そっちの定理はこの段階じゃ使えないよ。ほら、ココの値も分からないから、未知数が二つになっちゃう」
「ああ、確かに。じゃあコイツを先に求めて、そうすっと、問2は……なんだよ?」
「松田って、意外に素直だよね」
「ブフッ!!」

感心したような声に、思わず礼を言いそうになる。いや、ちょっと待て。全く褒められてねぇな。睨みの一つでも飛ばしてやろうと顔を上げた。ところが、当の本人はすでに次の問題文に視線を移していやがる。怒りの矛先を向ける所がなくなって、仕方なく持っていたシャーペンに力を込めた。お陰で芯が派手に折れてどっかに飛んで行く。

「テメェは笑いすぎなんだよ!」
「ごめんって……そう言う苗字も素直だよな」
「素直つーか、天然だろ」
「ふたりの前ではそうかもね。でも相手が他人だと、それなりに話を合わせちゃうよ。困ってる人がいても、すぐに動けないし」
「なに言ってんだ。お前はまず、他人より自分のことを考えやがれ」

吟味をする間もなく声になっていた。苗字が目を見開いて、隣で萩原が呆然と俺を呼ぶ。出ちまったもんは仕方ねえか。溜息を吐いてから、続ける。

「蔑ろにしてみろ。どっかの阿保がうるせーし、火の粉が俺に飛ぶだろうが。自己犠牲なんざ、できる奴の方が圧倒的に少ないんだよ。だが、幸いにも俺の隣にいる優男はそのマイノリティだ。お前の分もこいつが他人に優しさ押し付けるから、問題ねえ。むしろ有り余って世界的にはプラスなくらいだろ」

鼻息と一緒に、吐き出した。他人に構うのは、自分に関心を持ってからにしろってんだ。苗字はテーブルの向こうで、俺の言葉を黙って聞いている。萩原を理由にしたのは、なんとなく癪だったからだ。自分がこの女を案じているという事実。親友の女だからだと、そう理由を付けないと負けな気がする。

「ふは、それって遠回しに俺のこと褒めてんじゃん。なーんか、良いとこ全部持ってかれちまったな…でもま、俺も同意見。ちゃんと、大事にしてくれないと困るぜ。俺の一番大事な宝物なんだから」

よくもまあスラスラと、そんな小っ恥ずかしい台詞が言えたもんだ。違和感もなければ、むしろ様になってるのが余計にムカつく。それを隠さずデカい溜息を宙に放った。隣から「なんで溜息!?」と聞こえるが、シカトする。騒ぐ萩原を放置して、無言のままでいる向いの女に視線を移した。俺と目が合うと、穏やかに笑い、頷いて見せる。

「そうだね。私が一番向き合わなきゃいけないのは私自身かもしれない。でもせめて、大切な人達には優しくありたいし、助けになれたらって思うよ」
「そんなの、もう出来てんじゃん」
「おい。誰もお前がその大切な人達とやらに含まれてるとは言ってねぇぞ」
「うぐっ、そーだけどぉ!少しくらい自惚れたっていいだろ!!なんで水を差すんだよ!!」

冷静に指摘してやると、発狂が返ってきた。五月蝿い。てか、本気で自信ないのか、こいつ。本当に、苗字名前が関わると色々と台無しだな。男の泣きべそなんざ見たくもない。ウザいから下顎を掴み上げ、強制的に黙らせる。気味の悪い声を出すもんだから、指先にさらに力を込めた。

「自惚れなんかじゃない」
「っ、苗字」
「大切だよ、萩原も……松田も」
「え、こいつも?」

苗字の言葉に目を輝かせたかと思えば、今度は俺を指差して顔を顰める。だから、俺を巻き込むなっつーの。そう言うことすら疲れた。何度抗議しても、この女には響かない。好きとか大事だとか、簡単に言いやがる。それが本心だから、余計に厄介なんだよ。

「誠に遺憾だな」
「遺憾だと?ふざけんな、訂正しろ。このモジャ毛分解魔。どう考えても光栄だろうが!!」
「マジで面倒くせえ奴だな」

肩を竦めて返すと、萩原が俺の襟首を掴んで揺さぶってくる。どう返事したところで、怒るくせに。今まで意識していなかったが、こいつは中々に嫉妬深いらしい。いや、そもそも嫉妬を抱くほど執着する存在が、苗字以外いないんだろう。

「……へぇ。お前、ああいう顔がタイプなのか」
「は?」

話を逸らす為が半分、マジで意外だったのが半分の言葉だった。苗字の視線の先には、ファミレスの店員がいる。スタイルが良い。顔は少し目付きが悪いものの、整っている。萩原とはタイプが違う。当の本人は間抜けな声を出してから、苗字とその男に交互に視線を送っている。何往復してんだ。

「いや、どうしたらスマートに接客できるのか気になっただけ……今度は前と違うバイトしてみようと思ってるんだけど、中々決められなくて」
「なんだ、バイトかぁ」
「ふたりは何かバイトするの?」
「俺はスタンドとファミレスかな」
「掛け持ちなんだ、凄いね。松田は?」
「部活があっから、スタンドだけだな。土日と部活がない日しか入れねーし」

こいつも色々考えてんだな。正直言って、接客は向いてないと思う。まあ、それは俺も同じか。だから、出来るだけ愛想笑いが不要なバイトを選んだ。

「どうせなら興味のある事の方がいいんじゃない?バイトつっても探せば色々あるし」
「興味のある事……食事、かな」
「食いもんかよ」

この女、やっぱり変わってんな。普通の女子なら、もっと別の答えが出てくるだろう。てか、食事に興味があるって、つまりどういうことだ。意味不明。

「いいじゃん。俺は苗字が美味しそうに食べてるとこ見るの好きだぜ」

萩原が頬杖をついて、そう言った。イチャつくなら俺がいない所でやれ。顔が引き攣りそうになるのを堪えながら、ストローを咥えた。だが、中身は口まで届かずコップに戻る。萩原の言葉に、苗字が照れ臭そうに笑ったからだ。いつの間にそんな顔するようになったんだよ。危うく口元が緩みそうになって、慌ててストローを強く噛んで誤魔化した。

「ありがとう。でも、私は萩原みたいに気配りが上手くないから、ファミレスは難しそう。もう少し、自分で考えてみるよ……あ、そういえば松田。インターハイ出られなくて残念だったね」
「なんで知ってんだよ……お前だな、ハギ」
「んな怖い顔すんなって。苗字はお前の怪我を心配してたんだぜ。利き手だったしよ」

心配。そう言われると、強く出られない。包帯は取れたものの、未だガーゼに覆われている掌が僅かに疼いた。萩原の言った怪我は、ナイフの刃を握った所為だ。千速のダチが彼氏に振られたとか言って死んでやると喚いていたから、それを止める為にやった。

「もう大丈夫なの?」
「ああ、この通りな」
「そう……松田もマイノリティだよね」
「はぁ?」
「さっきの話。自己犠牲を厭わない。でも、萩原とは少し違う。萩原はちゃんと周りを見て判断できるけど、松田はその前に体が動くタイプ」
「悪かったな、動物的でよ」

こういう時に限って、萩原は無言だ。やりづらい。相手がこの女だと叱られている気分になる。謝るのは違う気がした。いくら言われようと、直すことなんざ出来ないからだ。結果、苦し紛れの返ししか出てこない。

「きっと、視野が肉食動物なんだね」
「ははっ!ライオン的な?」
「そんな感じ。それは松田の美点だと思うけど、自分を顧みないから時々心配になる」

言葉に詰まる。ヒーローを気取ったつもりはないが、俺はあの時、自己犠牲で死んだ。こいつはそんな事1ミリも知らないはずなのに、恐ろしいくらいに真摯な目をしやがる。釘を刺された心地がした。舌打ちを飲み込んで奥歯を噛むと、隣で萩原が笑う。

「大丈夫だよ。そうならない為に俺がいる。陣平ちゃんが止まれなくなった時にブレーキかけるのが、俺の役目。昔っから、そうだろ」
「うん。でも、萩原もだからね」
「へ?」
「ふたりが居なくなったら、私……いや、ごめん。なんでもない」

苗字が決まり悪そうに視線を逸らして、言葉を切る。そこまで言ったんなら最後まで言いやがれ。余計に気になるだろうが。そのまま文句を付けようとする俺を、萩原が片手で制した。はいはい、任せとけってね。確かに俺よりもお前の方が適任だわな。大人しく引き下がる。

「なんでもなくないっしょ。ちゃんと最後まで言ってみ。怒ったりしねぇから……苗字」

促すように名前を呼ばれると、苗字はおずおずと顔を上げた。さっきまで人に説教してた奴の面とは思えない。萩原じゃなく俺の様子を窺ってくるから、溜息混じりに顎をしゃくった。

「さっさと言えよ」
「……っ、ふたりが居なくなったら、私の心は欠ける。何の役にも立たないし、むしろ鬱陶しいと思うけど、それだけは知っていてほしい」

消え入りそうな声のわりに、内容は脅しに近い。一度言い淀んだのは、苗字自身そう思ったからだろう。こいつは基本、身の丈に合った言動しかしない。今の言葉もどうせ、烏滸がましいと感じているに違いない。それがひどく滑稽で、鼻で笑ってやる。そんな俺の肩を叩き、萩原が諭すように言った。

「役立たずでも鬱陶しくもねぇよ。苗字の思いは、俺らの御守りなんだぜ」
「御守りだぁ?笑わせんなよ。んな可愛いもんじゃねーだろ。呪いだ、呪い」
「はいはい。そんじゃ、一緒に呪われるとしますかね。何が起きたって、必ずふたりで苗字の所に帰って来るよ────約束な」

そう言いながら、揃って指切りしやがった。ガキかよ。てか、勝手に契り結ぶな。顔を歪めていたら、目の前に小指が差し出される。言わずもがな、苗字のだ。こいつ、正気か。無言で拒否しようとした俺の手を萩原が鷲掴み、握っていた拳から小指が強引に引き抜かれた。

「何しやがる!!」
「ほーら、陣平ちゃんも……はい、拳万」

強制的に絡まった小指。遠い昔、たった一度だけ触れた手の感覚を思い出した。細くて柔くて小さい。それでも、親友の心を支えていた女の手。こいつが消えれば、萩原の心も死ぬ。こりゃ確かに呪いだな。まとめて守ってやろうじゃねぇか────薄く笑い、指に力を込めた。

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