君と何処までも

1回目と変わったことはいくつもある。まず、彼女と両思いになれたこと。これは1番大きな変化だろう。それと比例して、スキンシップも増えた。一緒にいる時は手を繋いで、キスを強請れば恥ずかしそうにしながらも応えてくれる。それから、会話。あの頃よりも良い意味で肩の力を抜いて話ができるようになった。些細な質問をしたり、冗談を言ってみたりして、その度に彼女の表情はコロコロと色を変える。それが、堪らなく嬉しい。

「報告なんだけど、バイト決めたよ」

そして、これもそんな変化の1つ。時間が合えば、ふたりで帰っている。俺も苗字も部活はしていないし、有り難いことに、彼女の家は俺がバイト先に行く途中に位置している。家の前まで自転車を押しながら送り届けるのが通例だ。委員会の仕事だったり自習で残ったりで、それができない日もあるけど、確実に前より共有する時間は増えた。唯一ネックなのは、一緒に帰宅するのに如月のお許しが必須なことだろうか。

「マジで?何のバイト?」

ちなみに今日は例外。俺はバイトがない。10月上旬の今はテスト前で、学校に残って勉強をしていた。なんて真面目。苗字と一緒じゃなかったら、居残りなんてしない。ついさっきまで松田もいたが、途中で別れた。だって一人で帰すわけにいかないし、もっと沢山話したい。

「カフェ。ほら、前にティラミスを食べに行ったでしょ」

その単語でふわっと記憶が浮かんでくる。住宅街の中にある、小さなカフェ。学生が毎日通うようなチェーン店じゃなく、たぶん個人経営。静かで、雰囲気のいい店だった。ティラミスも美味かったし、紅茶からコーヒーまで揃っていたっけ。

「ああ、あそこ……楽しめそう?」
「うん。メニューが多いから少し大変だけど、どれも美味しいんだ。英単語を覚えるよりずっと意欲が湧く。良かったら、松田と一緒に食べに来て」
「お、行く行く」

まさかのお誘いに、つい声が跳ねる。それに頬を緩めるもんだから、愛しさがドンッと音を立てて積もった。今になって気付いたこと、彼女は好き嫌いがないらしい。ランチもスイーツも、どれも美味しそうに食べる。

「苗字ってさ、好き嫌いしないよな」
「……食事は大切だから。食べたものが私の血となり肉となる。なら、疎かにしたらいけない」

松田が聞いたら、食い意地が張ってるとか言うんだろう。だけど彼女が言うと、食いしん坊って感じはしないんだよな。きちんとしてんな、ってそう思うから不思議。

「成る程。いやさ、女の子ってよくカロリーとか気にするだろ。苗字のそういうところ見たことないけど、体型維持してて凄えなって。一体どんな絡繰りがあんの?」

俺がそう言うと、彼女は隣で考える素振りを見せる。どうやら本人も、その絡繰りが分かっていないみたいだ。微笑ましく答えを待つ。

「人並みに運動はしてる。体を動かすのは好きだし、無心になれるから」
「へぇ。休みの日とか?」
「いや、ランニングは毎朝。あとは夜のストレッチも習慣かな」
「毎朝!?」

あんぐり。それは人並みとは言えないだろ。不規則な生活は絶対しないと思ってたけど、笑うしかない。将来警察官になる俺でさえ、休日か早く起きた朝くらいしか走らねぇぞ。

「ん、ちょっと待って。ランニングってひとりで?危ないじゃん!!」
「ひとりじゃないよ。コタローと一緒だから」
「コタローって、え、男?」
「……そういえば、会わせたことないね。男っていうより、オス。ウチで飼ってる犬だよ」
「犬かよ!!」

俺が突っ込むと、クスクス笑いながら立ち止まってスマホを操作し始める。苗字は歩きスマホをしない。たぶん、写真を見せてくれるつもりなんだろう。確か前に俺のこと、実家の犬に似てるって言っていた。さて、どんなイケ犬が出てくるかな。

「この子がコタロー」
「デカっ!!」

スマホの画面には、行儀良く座る黒い犬。彼女がその首に抱きついている写真だった。コタロー、羨ましい。たぶん、立ったらかなりデカい。てっきり小型犬かと思ってたから、こりゃ予想外。待てよ。コタロー≒俺とすると、俺が毎朝一緒にランニングしてるってことにならねぇか。いや、流石にそれは無理か。

「雑種、じゃねぇよな?」
「シェパードだよ。ほら、よく警察犬にいる」
「マジか。茶色しか見たことねぇから分からなかった。黒もいるのか」
「小さい頃から一緒なんだ。家族で1番、私のこと知ってるかも。目元が萩原に似てるでしょ」

冗談めかして言いながらも、その横顔は本当に嬉しそうで、俺も自然と笑顔になる。夕陽の下を歩きながら、沢山話をした。他愛のない、だけど大事な時間。もう少しで家に着きそうになった頃、会話が途切れる。いつものことだ。別れるのが名残惜しくて、最後になんて言おうか、そんな事を考えながら心地の良い沈黙を噛み締めた。ふと、視界から彼女が消えて、慌てて立ち止まる。物理的に引っ張られる感覚に視線を移すと、苗字が俺の制服の端を握っていた。だけど無意識だったらしく、すぐにパッと手を放す。その行為に隠れた本心に嬉しくなって、揶揄うように尋ねてみる。

「どした?」
「っ、なんでもない。ごめん」
「なぁんだ、残念。まだ一緒にいたいと思ってんのは俺だけか」
「……ズルい」
「はは、今さらだろ。俺って結構ズルいんだぜ。でもま、お望みとあらば誠意を持って────あと少しだけ、俺に時間をくれませんか?」

自転車を立たせてから、不満そうな彼女の手を取り、覗き込んだ。絡まった視線が一度逸らされて、再び交わる。瞳を潤ませながら見つめられて、堪らず頬に手を伸ばし親指で輪郭をなぞった。

「よ、よろしいですよ」
「ぷっ、よろしいですよって……ん、ありがと。じゃあとりあえず、後ろに乗って」

自転車のサドルを上げて、そこに跨った。立ち尽くしたままの彼女に悪戯っぽくお願いする。一瞬だけ戸惑うように瞳を揺らした後、遠慮がちに頷いてくれた。カバンを受け取って自転車のカゴに入れていると、彼女が後ろに座った感覚がする。ところが、腰にも肩にも掴まられる気配はない。苦笑しながら、振り返る。

「お嬢さーん、ちゃんと掴まってくださいよ」

細い手首を掴んで、腰に回すように促した。すると、柔らかな感触が腹と背中に襲いかかる。鼻を掠める彼女の匂いに、酩酊しそうになった。表面上は冷静を装えていると思うが、内心では正直言ってギリギリだ。ヤバい。汗臭くねぇかな。意識しすぎると墓穴を掘りそうで、一度だけ深呼吸をする。声をかけてから、ペダルを強く踏み込んだ。

「ちっと飛ばすぜ」
「どこに行くの?」
「内緒」

夕方の少し冷たい空気が頬を撫でる。たぶん、そこまで涼しくない。ただ俺の体温が高いだけだ。横座りだから、彼女の耳は俺の肩甲骨の少し下に押し当てられているんだろう。頼むから、この騒がしい心音を拾ってくれるなよ。5分くらいペダルを漕いで、川に掛かった橋の真ん中でブレーキを握る。端に自転車を停めて、彼女の手を取った。

「お、ナイスタイミング」

首を傾げるから、導くようにすっと西の空を指し示す。遠くに見える街並みが、夕陽で染まっている。それを映した彼女の瞳も同じ色になって、大きく見開かれた。吸い寄せられるみたいに一歩前に出ると、欄干を掴んでふっと笑う。目を細めて大きく息を吸う彼女のすぐ隣で、俺もその景色を眺めた。今日が晴れで良かったな。

「夕焼けって、なんだか切なくなる気がしてたけど、萩原と一緒だと全然そんなことないね」
「ふぅん。どんな気持ち?」
「明日が楽しみになる」
「はは、そりゃ光栄だな」
「あ…萩原、ほら見て。日が沈むよ」

その言葉に釣られて視線を向けると、地平線の向こうに太陽が消えていく。橙に染まっていた街が、夜に包まれる。それだけで急に寒くなった気がしたけど、触れ合った肩から伝わる温もりで、そんなのは吹っ飛んだ。

「明日も晴れるといいね」

太陽が見えなくなる寸前、苗字がそう言った。声音に滲んだ祈りに、胸が熱くなる。些細で当たり前な、誰に対するでもない小さな願い。それを君が俺の隣で口にしてくれる。ただそれだけの事が、俺にとっては奇跡だ。

「晴れるさ、きっと」

肩に手を回して抱き寄せた。少し身を屈めて、ちょうど耳の辺りに顔を近付けると、擽ったそうに彼女が身を捩る。ああ、愛おしい。刺激された悪戯心のまま、横髪を払う。露わになった形の良い耳に軽く息を吹きかけてみた。

「ひゃっ!」
「……かぁわいい声。耳、弱いんだ。良いこと知っちゃったな」
「今のは誰だって吃驚するよ。その顔やめて」
「残念ながら、この顔は生まれつきで〜す」

たぶん今の俺の顔に効果音を付けるなら、ニマニマだろう。苗字は警戒するように距離を取って、両耳を手で塞いでいる。子どもみたいな抵抗の仕方に、肩を揺らして笑った。今がチャンスと無防備な腰を擽ってやると、堪らず耳から手を離した彼女が降参だと声を上げる。はしゃぐ横顔に目を奪われて、気付けば抱きしめていた。可愛さが犯罪級なんだよなぁ。

「あ〜、好きすぎてどうにかなりそう。ほんと、どうしてくれんの……ふは、心臓すげぇ鳴ってんな」

触れ合った身体から伝わってくる振動に、堪らなくなる。俺のと混ざって、もはや大合唱。たった二つしかないのに、笑える。数秒そうしてから、解放してあげようとした時だ。襟元を掴まれる感覚がして、次の瞬間、頬に何かが触れる。柔らかくて少し冷たい感触と、肌を撫でる微かな息に、心臓が一層大きく脈を打った。何が起きたのか理解する前に、音もなく一瞬の熱が離れていく。ああ、これ夢か。咄嗟に拳を握りしめてみると、爪が食い込んで痛かった。どうやら間違いなく現実らしい。

「……つい、出来心で」
「出来心!?え、ちょちょ、たんま!!」

会心の一撃。一旦落ち着こうと、距離を取る。顔が熱い。というか、体が熱い────初めて、キスされた。頬だけど、それすら些細な事だ。そもそも彼女から俺に触れること自体が稀稀。手を繋ぐのも、抱きしめるのも、キスをするのも、俺からでいいと思ってた。そっちの方が向いてるし。なのに、知っちまった。されるのって、こんなに嬉しいのかよ。

「萩原」
「10秒待って。あと、頼むから顔見ないで…って、言ってるそばから覗くなよ」
「……嫌だったなら、ちゃんと教えて」
「はぁ!?嫌なわけあるか!好きな女にキスされたんだぞ!?昇天しそうだっての!!」

不安げに見当違いなことを言うから、つい語気が強まった。猛抗議する俺に驚いたのか、苗字は目をパチクリさせている。揶揄われるのも恥ずいけど、勝手に悲観されるより何倍もマシだ。てか、どこをどう見たら、嫌がってるように見えんだよ。未だ熱の冷めない頬に触れれば、彼女の唇の感触が甦ってくる。ああクソ、顔が勝手にニヤけるんだけど。暴れ回る心臓を鎮めようとするが、どうにも上手くいかない。横目で無言のままの彼女を見ると、ばっちり視線がかち合った。

「だからぁ、見るなって言ってるでしょうが……拗ねちまうぞ」
「ご、ごめん」

慌てて目を逸らしたところを見るに、どうやら誤解は解けたらしい。この横顔はあれだな。戸惑いながらも必死に状況を整理してる時の顔。そして、それが完了すると────そう、もっと思い知ればいい。俺がいかに君を想っているのか。キス一つでこの胸が何度震えるのか。苗字名前で支配されている頭の中を、全部見せてやりたい。困ったように視線を落とす姿に、こっちは余裕が戻ってくる。

「謝罪なんかいらねぇからさ、こっち側にも頂戴」

さっきキスされたのとは逆の右頬を指差して、おねだりする。すぐに意図を理解したのか、狼狽える様子が可愛くて、また口元が緩んだ。急かしたくなる一方で、このまま眺めていたい。

「…ッ……届かないから、少し屈んで」
「は〜い」

真っ赤な顔で手を伸ばしてくる。調子に乗って返事をしながら腕を広げそれに応えつつ、要望通り背中を少し丸めた。行儀良く目を瞑り、その時を待つ。微かな音を伴い、頬に本日2度目の感触────嗚呼、マジで幸せ。

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