変わりゆく関係

年明け前、12月の下旬。萩原に誘われて、苗字のバイト先に行くことになった。なんでも、小洒落たカフェらしい。正直言って、気乗りはしない。俺はファストフードの方が好みだし、静かな店は落ち着かないからだ。

「何が食いてえ?」
「まだメニューも見てねぇのに決められっか。まあ、手掴みで食える方がいいな」
「確かに陣平ちゃん、子どもみてぇにボロボロこぼすもんなぁ。手先は器用なんだから、フォークだって簡単に使い熟せるだろうによ」
「うっせ」

母親みたいな事を言いやがるから、視線を逸らした。ただそっと、確実に、記憶に刻む。一つひとつの言葉を、表情を。こういう瞬間がいかに大事か、痛いほど理解している。

「いらっしゃいませ」

ドアベルが鳴った後、聞き慣れた声がそう紡ぐ。不似合いだとは感じずに、むしろ耳に馴染んで驚いた。奥から走って来た苗字が、俺達の姿を認めて顔を綻ばせる。表情豊かになったもんだな。

「吃驚、本当に松田も来た」
「連れて来るって言ったじゃん」
「やっぱり萩原のお願いは特別なんだね。ふたりとも、来てくれてありがとう」
「来たいから来てんの……それに、俺の頼みだからってわけじゃねえと思うけどなぁ?」

俺にだけ聞こえるように萩原が言った。含み笑いが癇に障る。否定できない内容だったから余計に。結局のところ俺も人間で、懐に入れた相手には甘いんだろう。萩原然り、この女然り。図星だと正直に言うのも癪で、首を傾げる苗字の視線から逃れるように顔を逸らした。

「とりあえず、席に案内するね」
「名前ちゃんの友達か?」
「店長」

店長と呼ばれたのは、白髪混じりのおっさんだ。萩原とふたり会釈をして、店内を見回した。苗字以外に店員は一人だけ。そしてその一人は女で、たぶん夫婦。これならナンパされる心配はなさそうだ。客の年齢層もかなり高めだし、居酒屋でもないから酔っ払いもいないだろう。

「…はい、ふたりとも同じ高校で」
「そうかい。今日はお客も少ないから、ちょっとくらいお喋りしても構わないよ」
「ありがとうございます」

友達か。その問いに、苗字は一拍置いてから頷く。それを見つめる萩原の瞳が揺れたことに、気付かないフリをした。そんな顔するくらいなら、好きだと言わせてやればいいだろうに。今の苗字なら、迷いなく応えるに決まってる。まあ、そこまで口にしてやるほど俺はお人好しではないが。

「今日は晴れてるから、窓際の席にどうぞ。これ、メニュー。セットで頼むとお得だよ」
「ありがと〜」

一瞬で表情を消して、笑って見せた。つくづく器用な野郎だ。俺達がソファに向かい合って座ると、写真付きのメニューが差し出される。こいつは良い。横文字ばっかじゃ、ビジュアルが浮かんでこないんだよ。

「ちなみに苗字のオススメは?」
「私は苺タルトが好きだけど、
「じゃあ俺は、それとストレートティーにしよっかな。陣平ちゃんはどうする?」
「コーヒーとドーナツ」
「かしこまりました」

さらっと頷いてメモをすると、意気揚々と奥へ消えて行く。どうやら、それなりに楽しんでやっているみたいだな。一息ついて視線を前に戻せば、萩原はまだ苗字の背中を見つめていた。

「……エプロン、いいな」

ぽつりと落とされたしょうもない台詞に、机に置こうとしていた腕がずり落ちた。シリアスな事を考えてるのかと思ったら、これだ。溜息を吐き出せば、萩原はケラケラ笑う。その仮面の下にどんな本心があるのか、俺は一生見抜ける気がしない。特に、あの女に関しては。だが、詳細はわからなくても、それがクソデカくて面倒臭え感情だってことは知っている。

「お待たせ……ごめん。お客さん増えてきちゃったから、感想は今度聞かせて」

眉を下げてそう言うと、急ぎ足で戻って行く。萩原はそれに緩い返事をして、テーブルに置かれたタルトをやけに愛おしそうに見下ろした。食い物に向けているもは思えないほど甘ったるい視線だ。何を見せられてるんだと思いながら、運ばれてきたドーナツを齧る────美味いな、これ。3口で平らげた。

「おいし?」
「まあ、普通に。そっちはどうなんだよ?」
「美味いに決まってんじゃん」

フォークを咥えながら、そう言って笑った。いや、あいつはただ運んで来ただけだぞ。いつか苗字の手料理を食おうもんなら失神するんじゃねぇのか。と、そんな思考が頭を掠めた。

「松田」

萩原がトイレに立った時、声をかけられる。視線を向ければ、苗字が感情の読めない表情で俺を見下ろしていた。こんな顔は久しぶりに見る。

「あの、さ…萩原って、甘いもの好き?」
「は……なんだ、その質問」
「意図は訊かないでくれると助かる」
「……へぇ、お前も女なんだな」

いつにない歯切れの悪さに、思わず笑う。その態度と会話の内容から、質問の意図も予想がついた。甘いものという単語、そして12月下旬というタイミングから推理すれば、答えは自ずと割り出される────バレンタイン。まさかこいつから、こんな質問をされる日が来るとはな。気分が良くなって揶揄ってやると、苗字は困ったように眉を下げた。

「特別好きってわけじゃねぇな。そのくせ義理から何まで全部貰うから、量が尋常じゃないんだよ。毎年食うのに苦労してるってのに、断らねーし」
「萩原らしい」

そう言って目を細める。どこか誇らしそうで、同時に寂しげに見えた。口を出すつもりはなかったが、この様子だと不要な遠慮をしそうだ。なんで分からねぇのか不思議で仕方ない。どんな高級品だろうが市販だろうが、苗字以外から貰うものは、萩原にとっては同等の価値しかない。

「そんなに気にするなら、甘くねぇやつにすればいいんじゃねーの。まあ、何でも喜ぶと思うけどな。今のお前なら分かんだろ。中身より、誰から貰うかに意味があるんだよ……おい、なに笑ってんだ」
「ごめん、つい。萩原の隣にいるから気付かれないけど、松田って聞き上手だよね」
「テメェがそうさせてんだろ」
「ふふ、そっか────ありがと。あとは自分で考えるよ。少し、自信ついたかも」

むず痒さを誤魔化すように、態とらしく溜息を吐き出した。助言だなんて、らしくないし得意じゃないことくらい、分かってる。全部、こいつらの恋路があまりに焦ったいせいだ。

**

萩原が苗字にゾッコンなのは、もはや有名な話。こいつは一度も付き合ってると肯定していないのに、だ。たぶん、狙ってやってるんだろう。付き合ってるのかと、苗字がそう尋ねられない為の予防線。あの女の性格上、その場凌ぎだろうと肯定はしない。かと言って、否定すれば火種が生まれる。付き合っていないとすると、距離感がおかしいからだ。そうなれば、苗字に嫉妬したり、危害を加える奴が出てくるのは必至。態と公衆の面前で恋人を演じ、印象付けることで、萩原はあいつを守っている。実際、あのふたりは付き合っているというのが、ほとんどの奴等の認識だ。全て萩原の思惑通りなのが気に食わない。

「おい、いい加減にしろ。挙動が不審なんだよ」
「だってよぉ……ソワソワするだろ、そりゃ。ある意味で初めてのバレンタインだぜ」

そして、バレンタイン当日。案の定、萩原は朝っぱらから女子に拘束された。休み時間も、昼も、引っ切り無しに。しかし、大本命が一向に現れない。その所為で萩原は、便所でも我慢してんのかと思うくらい落ち着かなかった。ガキかよ。そんな無駄に疲れる一日を過ごし、いつの間にか放課後になる。

「え、もう放課後じゃん!」
「そうだな。お前、今日バイトだろ?俺も部活ねぇから、さっさと帰るぞ」
「ちょちょ、待った……まだ苗字から何も貰ってねぇんだけど」
「そりゃ残念だったな」

面倒でおざなりな返事をすると、萩原が不満そうな顔をして口を開きかけた。その時だ。少し離れた扉から、誰かが教室に入って来る気配がする。背を向けていたから見えなかったが、萩原の反応ですぐにその正体が分かった。

「遅いんだよ。発狂寸前だ。なんとかしろ」
「松田、嫌なことでもあったの?」
「俺じゃねぇよ!この阿呆だ!!いいか、来年からは朝一で来い」

俺の懇願に戸惑いながら頷いて、苗字は手に掛けている紙袋を漁り出す。教室内に妙な空気が漂うのを肌で感じた。周り、主に女子達が全身でその動向を見守っているのが分かる。戦場かよ。そんな空間の中で、当の本人は涼しい顔をしていた。鈍いのか、それとも強心臓なのか。あまりの緊張感に耐えきれず、無意識に苗字の横に立ち、女子の視線を遮っちまった。いつからこんな紳士になったんだよ、俺は。自分に突っ込みを入れながら、頭を掻く。

「どうぞお納めください」

取引先に手土産でもやる時のような台詞だ。苗字が両手で小さな箱を差し出す。中身は見えない。

「ふは、なんで敬語……じゃ俺も。頂戴します」

そう言って、萩原が笑う。観戦していた奴等はその瞬間、思い知ったに違いない────勝てやしないって。無意識に口角が上がる。得意げな気持ちになったことに、戸惑った。そうしてやっと気がつく。ああ、俺は誇らしいのか。

「んで、結局何にしたんだよ?」
「スコーン。初めて作ったから中々上手くいかなくて……あんまり自信がない」
「え、結局ってなに!?」
「じゃあ俺が毒味してやる」

主役そっちのけで会話していると、萩原が叫ぶ。シカトを決め込み、隙を見てその手から箱を引ったくった。結んであったリボンを解き、蓋を開ける。慌てて制止しようとしてくる野郎の腕をしゃがんで躱しつつ、一つ摘み口に放った。

「おいコラ、返せっ、ああぁぁあ!おっまえ、マジで信じらんねえ!!俺より先に食うとか正気か!?今すぐ吐き出せって!!」
「残念、もう胃の中だ…ふぅん、まあまあだな」
「まあまあ!?ぶん殴るぞ、お前!!」

萩原の取り乱し様に、クラスの奴等は目をひん剥いていた。注目を浴びていることすら忘れ、胸倉を掴んで揺さぶってくる。それがあまりに面白くて、声を上げて笑ってやった。態とらしく両手を挙げて、降参のポーズを決める。

「不味くないなら良かったよ」
「いや、ぜんっぜん良くないから!!」
「じゃあ、そっちは松田にあげて。萩原にはまだ開けてないやつを、
「そういう問題じゃねぇの!一番に食べたかったんだよ。それをこの野郎……確信犯だろ」
「なんのことやら」

肩を竦めて、白を切る。苗字は男心というものを理解していない。実際、今も小首を傾げ「食べる順番に意味があるのか」って顔をしている。こういう所は、女のこいつよりも萩原の方が拘りが強かったりする。そんなちぐはぐな温度差が、俺には愉快で堪らない。

「それに、こりゃ相談料だ」
「相談って……え、もしかして、松田にアドバイスしてもらったの?」
「うん。だって、萩原のことを一番よく知ってるのは松田でしょ。実際、アドバイスは的確だったし」
「頼むから、これからは俺に直接訊いて」

苗字の両肩を掴み、諭すように萩原が言う。いつにない真面目な顔と真剣な声だ。しかし、相手は苗字名前。通用するわけがなかった。真顔で一言。

「時と場合による」
「そこは素直に頷いてくれよ」

守れない約束はしない。たとえそれが、どんなに些細な約束でも。俺はこの女のそういう所を気に入っている。一度だけ破られたことがあるが、今はノーカンにしといてやろう。

────幸せに、ならなくちゃね。

あの言葉だけを守り抜いてくれれば、それでいい。瞳を閉ざして過ぎる記憶の色は、白だ。苗字の肌、萩原の骨、温度のない自分の掌。思い起こすだけで背筋が凍る感覚がして、慌てて瞼を上げた。視界の真ん中では、萩原が苗字に笑いかけている。

「なーに黙り込んでんだ、陣平ちゃん。俺はまだ許してねぇからな」
「こっちの台詞だっての……俺の前から消えたら、今度こそ許さねぇぞ」

虚を突かれて目を見開く親友を、無言のまま睨みつけた。俺の声が聞こえたのか、その隣では苗字が顔を強張らせている。自分に言われたと思ったんだろう。その不安を感じ取った萩原が、苗字を庇うように一歩前に出て、笑った。いや、微笑んだ。そして俺の肩を掴むと、低い声で耳打ちしてくる。

「上等。その喧嘩、買ってやるよ」

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