カサブタを剥がせ

ああ、またか────そう思った。辟易している、というのが正直な感想。小学、中学、そして高校。環境が変わる度に、必ず一度はこれがやって来る。クラス替えがあった高校2年の4月、眉間に皺を刻み込んで廊下を突っ切った。

「おい、聞いたか、あの噂」
「聞いた聞いた!父親が殺人犯とかヤバいよな」
「実際、息子も問題児だし?」
「血筋ってことじゃねーの」

うんざりだ。他人を叩くことで快楽を得ようとする奴等にも、そいつらの戯言にイラつく自分にも。一人ずつ沈めていいってんなら楽なんだが、そんなことをしたところで、何も変わりはしない。いくら雑魚を払っても、この胸に纏わり付いている思いは晴れやしない。そう、分かっている。だのに、耳を綿で撫でるような囁きが、容赦なく神経を刺激してくる。煽られている気分だ。

「じんぺーちゃん、売店行こうぜ!」
「……お前はほんと、ブレねぇな」

鬱屈した思考を払い除ける声。通常運転の親友を見返し、苦笑した。気にするなとか、俺はお前を信じてるだとか、そんな慰めなんざ要らねぇ。ただいつも通りでいい。そう言葉にしてもいないのに、萩原は全部わかった顔をしている。そのことに俺がどれだけ救われているのか、こいつは知らないんだろう。教えてやる気もない。どうせ調子に乗るだけだ。

「松田、食事中にごめん」

教室で萩原と飯を食っていたら、声をかけられた。顔を上げれば、予想通りの女の姿。内心、動揺した。噂が落ち着くまで、話しかけてくる奴なんざいないと思っていたから。平静を装って見返すと、苗字はいつも通りの表情で会話を続ける。

「数学の課題、今日までなんだけど、提出まだだよね?取りまとめて先生の所に持って行かなきゃならないから、早めに貰えると助かる」
「……取りまとめって、日直の仕事だろ」
「うん、そうなんだけど、暇なら聞いてきてって言われたから」

黒板に付いている日直と書かれたマグネットの下にあるのは、苗字の名前じゃない。俺が指摘すると、ありのままの答えが返ってきた。本当にこの女は変な所で素直すぎる。頼まれた理由を考えろってんだよ。同じ教室にいるんだから、課題を受け取るくらい、いくら忙しくても出来ることだ。それを誰かに頼む理由は、出来ないんじゃなく、やりたくないから。つまりは、犯罪者の息子なんかとは話したくないと、そういうことだろう。忘れていた俺も悪いが、よりによって、こいつに頼むなっての。

「陣平ちゃん」
「わぁーってるよ」

思わず責めそうになったところで、萩原が諭すように俺を呼ぶ。言われなくたって分かってら。ここで苗字を責めるのは御門違い。そんなのは、ただの八つ当たりだ。乱暴に返事をして、机の中にあったノートを押し付けた。

「ほらよ」
「ありがとう」
「おい、苗字……お前、暫くは頼まれたからって俺に話しかけない方がいいぞ」

そのまま立ち去ろうとする背中に、我ながらお節介な言葉をかけた。萩原がまた、何か言いたげに見つめてくるが、無視をする。俺の言葉に振り返り、苗字は瞬きを2回した。その様子に、盛大に溜息を吐き出す。これは意図が掴めていない時の顔だ。

「お前も知ってんだろ、あの噂」
「噂……もしかして、松田のお父さんの?」
「ああ、そうだ」
「了解。気持ちだけは受け取っておく」
「はあ?気持ちだけって、全く聞く気ないじゃねぇか。それともなんだ。あんな噂なんざ信じてないとでも言うつもりかよ……何にも知らねえくせに」

大人しく頷けっての。素直なのか頑固なのかどっちだよ。なんで、こんな時だけ我を通そうとするんだ。俺だって別に、積もり積もった苛立ちを、見当違いの相手にぶつけたいわけじゃない。いつもなら制止するか何か言ってくるはずの親友は、無言を決め込んでいる。お陰で着地点が見つからず、つい棘のある言葉を吐いた。罪悪感が微かに疼いたが、いつも通りの涼しい面を見てそれも吹っ飛ぶ。

「私は松田のお父さんとは知り合いじゃないよ」
「は……ああ、そうだな」
「だから、噂については否定も肯定もできない」

初めて感じる声色だった。僅かに震えて聞こえたのは、たぶん気の所為じゃない。語気も普段より強い。肌を通して伝わってくる、苗字が俺に向けているこの感情の名前を知っている────怒り。こいつは今、怒っている。その事実が俄かには信じ難くて、言葉に詰まった。そして再び俺の前まで戻って来ると、揺らぎのない瞳で語り出す。喉元にナイフを突き付けるような、それでいて、どこか柔らかい声だった。

「だけど、貴方のことなら少しは知ってる。こうして話したり、萩原の隣で笑う姿を見てきた。松田陣平は、無差別に暴力を振るうような人間じゃない。これは、私が貴方と関わって得た確信。正否の分からない噂よりも、よっぽど信憑性がある。どちらを信じるかは私が決めることだし、私の判断に助言はできても、強制的に曲げる権利は松田には無いと思うけど。それじゃ、課題は確かに預かったから。責任を持って提出しておくね」

言いたいことだけ言って席へと戻って行く背中を、ただ見送った。何も、言い返せなかった。言い負かされたわけじゃない。驚いて、声が出なかっただけだ────なんてのは、負け犬の言い訳。苗字が怒る姿を見たのは2度目だ。1度目はいつだったか、萩原のファンに囲まれた時。あの時、あいつは自分の為に怒っていた。だが、今回は違う。本人はそんなつもりないのかもしれないが、今回のは間違いなく俺の為だ。怒鳴るでもなく静かに淡々と、正論を並べてきやがった。

「ああいう所、ほんと惚れ惚れするよなぁ。いい女だろ。もしかして惚れ直しちゃった?」
「……だから、そもそも惚れてねえっての。まあ、驚きはしたな。飼い猫に引っ掻かれた気分だ」

ドヤ顔で尋ねてくるから、溜息を吐いた。楽しげなのが余計にムカつく。認めるのは癪だが、どうにも誤魔化せそうにない。噂の所為で溜まっていた鬱憤が、気づけば鳴りを潜めている。紛れもなく、あの女の言葉が効いているんだろう。

「後でちゃんとお礼言っとけよ」

誰が言うかと思ったが、声にはしなかった。そう返せば、萩原が余計に口煩くなるだけだし、本心じゃないのは自分が誰より分かっている。だが、素直に礼を言ったところで、苗字は眉を顰めるだけだろう。そもそも俺を慰める為に吐いた言葉じゃない。そこまで考えてから、内心苦笑した。我ながら天邪鬼だ────認めてやるよ。脳内に浮かべた背中に向けて、そう呟く。俺は今日、確かにお前の言葉に救われた。

**

噂というのは一時的だ。芸能界然り、高校生活然り。もっと面白おかしく話せる題材が出てくれば、途端に興味を失われる。実に馬鹿らしい。つい1週間前まで遠巻きに俺を見ていた奴も、コソコソ内緒話していた女も、今は普通に話しかけてきやがる。何もなかったみたいなその態度が、どうにも気に食わなかった。そんな気分を紛らわせようと、屋上に続く階段を上る。勢いよくドアを開ければ、春風が体を包み込む感覚がして、思わず目を細めた。深く息を吸い、肺の中に酸素を目一杯流し込む。

「美味い」

正直に感想を述べる。軽くなった足取りでフェンスに近寄り、校庭を見下ろした。いつも通りの放課後の風景。俺もそろそろ部活に行かなければいけない。今なら無心で打ち込める気がする。

「っし、行くか」

ひとり気合いを入れて、歩き出した。ドアノブに手を伸ばす。指先が触れる寸前、それは勝手にゆっくりと動き出した。反射で一歩足を引けば、必然的に入ってきた相手と視線が交わる。

「なんだ、お前か」
「松田……ごめん、ぶつかった?」
「いんや、未遂だ。こんなとこで何してんだよ。ハギと帰るんじゃねーのか?」
「日誌書かなきゃならないみたいで、少し待っててくれって。勉強するには中途半端だし」
「そういや日直だったな、あいつ……よく来るのか、屋上」
「まあ、時々。高い所、好きだから」

会話をしながら俺の横を通り過ぎ、迷いなく端へと歩いて行く。一瞬、女の匂いがした。あと少しくらい、構わないか。校舎に戻ろうとしていた体の向きを変え、半歩後ろからその背中を眺めた。

「前は別に好きじゃなかったんだけど。あの頃も今も、こうして高い場所に立った時、いつも同じことを思う────私って小さいなぁって。昔はね、その度にこのまま消えちゃいたいとか、そんな事ばかり思ってた」

今日は随分と饒舌だな。黙ったままの俺を、然程気にする素振りはない。訊いてもいないのに自分の事を話すのが珍しくて、口は挟まなかった。斜め後ろから見えた口元は緩く弧を描いている。

「いかに愚かだったのか、今になって実感してる。こんなに嫌悪感があるのは、過去の自分が確実に思ったことだからかな」

苗字はそう言って、苦笑しながら目を閉じた。風に髪が靡いて鬱陶しいのか、耳元を抑えている。その指先の白さに、何故か胸が騒ついた。誤魔化すように尋ねる。

「今はどうだ?今お前は、ここに立って何を思う?どう感じる?」
「難しい質問だね……一言で表すのは無理」

首を横に振られても、苛つきはしなかった。横顔を見れば、答えが分かったから。目を細め微笑む姿に、鼓膜が揺れる。いや、そう錯覚した────この世界に在りたい。その言葉が音となり、俺の耳へと飛んできた。

「そうかよ」

自分の声がやけに柔らかくて戸惑う。ああ、俺は笑っているのか。猫のように死場所を探していた女が今、生を望んでいる。その事実に、胸が震えた。慌てて口元を手で隠し、表情を戻す。そして、悟られる前に今度こそ出口へと足を向けた。

「苗字」

名前を呼ぶと、後ろで振り返る気配がする。それを確認してから、用意していた言葉をぞんざいに放った。拾われなければいいと思いながらも、届けなければという、妙な使命感もある。

「ありがとな」
「……えっと、ごめん。何が?」

暫しの沈黙の後、予想通りの答えが返ってきた。不可解だと、声音が語っている。誰が教えてやるかよ。てか、一言でなんて言い表せねぇし。

──── どちらを信じるかは私が決める。

あの瞬間、カサブタが剥がれる音がした。無理にやろうとすれば血が出そうで、躊躇していたのかもしれない。それを引っ剥がしてもらったこと。それから、あいつに出逢ってくれたこと。あと、その他諸々。

「何でもいいだろ」
「理由も分からないのに受け取れないよ」
「いいから、つべこべ言わずに貰えるもんは大人しく貰っとけ。返品は受け付けねぇからな」
「感謝の押し売りなんて初めて」

不満そうな言葉を紡ぐ声は、弾んでいた。それを聞き届けてから、ドアノブを握る。身体が、心が、軽い。階段を駆け下り、颯爽と廊下を歩く。往路は雑音に聞こえた喧騒が、今はBGMに感じる。

「ははっ、人間ってのは単純だな」

- back -