その全てが媚薬

ガヤガヤと騒がしい教室。小さな紙に何かを書き込んでいる苗字の背中を、頬杖を突きながら見つめた。俺の手元にも、彼女のと同じ紙がある。いかにも手でちぎりましたって感じだ。但し、こっちは白紙だけど。というのも、今はクラス全員で体育祭の企画中。この紙は借り物競走のお題用ってわけだ。さらに言えば、俺はこいつに出場することになっている。

「お題何にした?」
「俺は"好きな人の私物"」
「それ、公開処刑じゃん!」

いるよなぁ。こういう時に悪ノリする奴。まあ、俺も恋してなきゃそっち側だけど。浅く息を吐いて、真っ白な紙に"天パの人"と書き記し二つに折る。教卓の上の箱にそれを放り、教室を出た。あのデート以来、ずっと考えている。苗字は松田にどんな嘘をついたのか。親父さんの写真を見た時に、彼女の反応が変わった────何故だ。まさか親父さんと知り合いとか。女子高校生と、同級生の父親。一体どんな関係だってんだよ。

「萩原」
「っ、苗字」
「……具合でも悪い?」
「いや、そんなことないッ、

笑顔を浮かべようとした時、額に何かが触れる。彼女の手だ。数十センチ下から俺を見上げていた。少し屈めばキスできそうな距離に、心拍数が上がる。

「熱はない、か」
「心配しなくても平気だよ、これは慢性的なもんだから。恋って言う病気」
「……大丈夫みたいで安心した。それで本題なんだけど、リレーの走者を決めてる子が萩原のこと探してて。たぶん、出てくれないかって相談だと思う」
「リレーかぁ。そういや去年も出たっけ。苗字、あの時は転ばなかったよな」
「あれは……忘れて」

残念ながら忘れてはあげられない。1度目に初めて苗字と呼んだあの日は、俺にとって特別だから。いや、彼女と出逢ってからは毎日が特別か。

「りょーかい。知らせてくれてサンキューな…あ。リレー、応援してくれよ。苗字の為に走るからさ、1位取ったらご褒美ちょーだい」
「あげられるものなら、ね。それと、私の為じゃなくてチームの為に走って」

こんな時でもど正論。簡単に「いいよ」と言わない所もらしい。だけど残念。頭に浮かぶのは、むしろ彼女にしかできないご褒美だ。その瞬間を想像するだけで、何千里だって走れる。

**

体育祭当日は、快晴だった。体調も頗る良い。ただ一つ、やらかした。ヘアゴムを忘れた。こりゃ誰かに借りなきゃならない。男子で持ってる奴なんて滅多にいないから、必然的に女子。その時点で一人に絞られる。校庭を歩きながら、その姿を探して視線を巡らせた。数分後、やっと見つけた彼女の隣には見慣れた男の姿がある。互いに気を許してるからだろうけど、距離が近い。心が少しささくれて、つい大きめの声で名前を呼んだ。

「苗字!」
「萩原…おはよう、元気だね」
「朝っぱらから五月蝿えな」

最高級の笑顔で、ちっぽけな嫉妬心が消えた。ぼやく幼馴染を華麗にスルーして、さりげなく今日の彼女を観察する。ポニーテール、めっちゃ可愛い。ジャージから伸びる腕は白くて細い。その先の手首には、予備のヘアゴムはない。マジか。

「なあ、ヘアゴム余分に持ってない?忘れちまってさぁ。他の子に借りるの嫌だし」
「輪ゴムで充分だろ。職員室行ってこい。それか、俺が散髪してやるよ」
「どっちも却下!!」
「あるけど、ちょっと待って」

そう言って、持っていた緑色の鉢巻を首に掛けてから髪を解く。ちなみに彼女と俺は同じチームだ。微かな音と甘い匂いを伴い、ふわりと髪の毛が肩へと落ちる。高く結われていたのに、少しも跡が付いていない。ああ、顔を埋めたい。そんな邪な事を思っていたら、ついさっきまでその髪を縛っていたヘアゴムを手渡された。

「無地のやつ、これしかないから。花の装飾が付いてたら、可愛いけどちょっと恥ずかしいでしょ」
「ありがと。あと今、両手塞がっててさ。ついでに縛ってくんない?」
「鉢巻しか持ってねぇだろ、甘えんな」
「俺はか弱いから、積載量10gなんです〜」
「ふふ、漫才見てるみたい……それくらい、いいよ。やりづらいから、椅子に座って」

望み通り甘やかしてくれる。意気揚々と腰を下ろすと、松田は呆れたように溜息を吐き出し去って行った。せっかくのイチャイチャタイムなのに勿体ねぇの。

「ずっと思ってたけど、萩原の髪って、本当に綺麗だよね」
「いつでも撫でてくれていいんだぜ」

いつものノリで答えると、クスッと笑う音した。頭のてっぺんから首筋の髪に、優しく指が通る感覚。何度か梳いた後、両サイドを整えられる。それからゴムで留め、頭頂部の毛を緩めてくれた。

「はい、完成」
「やった!これで今日頑張れます」
「それなら良かった。お互い頑張ろうね」

そう笑った顔があんまり可愛いくて、身体が勝手に動いた。後頭部に手を回し、前髪の上から額にキスを落とす。少し顔をずらし、ふざけた風を装いながら耳元で予告しておく。

「ご褒美は唇でよろしく」
「っ、そういうのは、勝ってから言って」

とか、余裕こいてる場合じゃなかった。まさかその前に試練が立ちはだかるとは予想外。今、目の前には息を切らした如月がいる。その手には俺と同じく小さな白い紙が握られていた。そんな俺達を見つめるのは、困惑顔の苗字と呆れ顔の松田。

「レディーファースト、譲りなさいよ」
「生憎と、ライバルはレディー対象外なんでね」
「そう、いいわ。まず互いにお題を見せ合いましょう。内容によっては交渉に乗ってあげる。ちなみに私は"好きな人"よ。真っ直ぐ名前の所に来たんだもの、大方アンタも同じでしょう?なら、この子じゃなくて松田を連れて行きなさいよ」
「なんでそうなる」
「確かに陣平ちゃんは俺の親友だけど、それじゃ失格なんだよ。見ろ、これを」
「だから俺を巻き込むな」
「なんですって……好きな、異性!?」

声に出すのを諦めたのか、松田が顔で「なんだこの茶番は」と語っている。一方で如月は至って本気なんだろう。ガーンと効果音が付きそうな顔で、俺が持つ紙を見つめていた。しかしすぐに表情を引き締める。流石は俺が認めた恋敵。その瞬間、火蓋が切って落とされた。ほぼ同時に苗字に向かって走り出す。俺が彼女の右手を、如月が左手を掴んだ。そしてこれまた同時に懇願。

「苗字(名前)、俺(私)と一緒に来て!!」
「わかった。じゃあ3人で行こう」
「お前も悪ノリすんのかよ」

そんな松田の声を背に、何故か3人並んでゴールを目指す。その間も、俺と如月は苗字を挟んで睨み合っていた。こうなりゃ、どっちが先にゴールできるかが勝負だ。

「おおっと!?これは一体どういう事でしょう!萩原選手と如月選手が並走しております!お題が集中してしまったのでしょうか!!」

放送委員が面白おかしく実況する。歓声の中、肩を並べて全速力で走った。最後の一歩、思い切り足を伸ばす────勝ったな。なんと言っても俺の方が足が長い。

「同着でのゴールです!」
「は、俺が先だろ!?」
「愚かね、萩原研二。この手の種目は胴体が先にフィニッシュした方が勝ちなのよ」
「え〜、マウントを取り合っているところ申し訳ありませんが、同着最下位になります」
「……ふは」

揃って最下位の旗を握らされた。そんな俺と如月の横で、苗字が声を漏らす。かと思えば、肩を揺らして笑い出した。子どもみたいな横顔に、繋いだままだった手に力が入る。

「あんなに頑張って走ったのに最下位かぁ……でも楽しかった。ありがとう、ふたりとも」
「……ほんっと、ムカつく男」
「なんでだよ!?」

何故かディスられた。声を上げた勢いで手を放しちまう。その隙を突いて、如月が見せつけるように苗字を抱きしめる。おまけに、抵抗せずキョトンとする彼女の頬にキスしやがった。こいつ、同性だからってやりたい放題かよ。

「色別対抗リレーに出場する生徒は、入場門に集合してください。繰り返します。色別対抗…──、
「やべっ、次リレーだった。ちょっくら行ってくる。あ、苗字!ご褒美、忘れんなよ!」

何か言いかける彼女に背を向けて、入場門に急ぐ。ついさっきまで全速力で駆けていたが、疲労は感じない。むしろ良い準備運動になった。トラックの反対側で第一走者がスタートする。それを眺めながら足首を回していると、肩を叩かれた。

「よォ、最下位」
「陣平ちゃん!?え、なんでいんの?」
「選手だからに決まってんだろ。ちなみにお前と同じアンカーだ。言っとくが、手は抜かねえからな」
「宣言しなくても分かってるよ。だけど俺も、今日は絶対負けられねぇの……本気で行くぜ」

マジなトーンで返事をすれば、驚いた顔。だけど次の瞬間には、見慣れた挑発的な瞳を向けてくる。ボクシングの試合で強敵と対峙した時に見せる目だ。光栄だね。その時、反対側で前の生徒にバトンが渡るのが見えた。運が良いのか悪いのか、この時点で松田のチームが1位で、俺のチームが2位。ハンデを寄越すなんて、神様は意地が悪い。お先、と言い残し松田が走り出す。

「萩原!」

はっきりと聞こえた声に、顔を上げた。生徒の海の中、苗字が俺に向かって手を掲げて叫ぶ。それは容易く沢山の声に飲まれてしまったのに、確かに聞こえた────頑張れ。たった4文字だけど、今の俺にとっては無敵の言葉だ。手渡されたバトンを握り締め、勢いよく駆け出した。少し先にある見慣れた背中を追いかける。最後の直線に差し掛かった所で、松田と並んだ。互いに視線を交わし、笑う。死んでも負けねえ。足じゃなくて、胴体。ついさっきの如月の助言(という名の嘲笑)を意識しながら風を切る。

「勝者、チーム緑!」
「っしゃああああ!!」
「だぁーー!くっそ、もう一回だ!!」
「往生際が悪いぜ、陣平ちゃん」
「っるせ、ただのリーチの差だろうが」
「いいや、違うね。勝利の女神がいるからだよ」

言い訳を並べようとする親友の肩に腕を回す。振り払われるかと身構えていると、鼻で笑われた。そして俺の肩を組み返し、頬をつねってくる。地味な痛みに耐えながら、拳を空に突き上げた。視線の先で、女神がふわりと微笑む。彼女の笑顔を見る度に願う────これからもずっと、俺の傍で笑っていてほしい。

**

「やべ。早くも疲労がきてる」
「お疲れ様。いっぱい食べて早く寝ないとね」

帰り道、夕焼けの中を並んで歩く。筋肉が悲鳴を上げているのは俺だけらしい。伸びをするフリをして、右隣の彼女を盗み見る。結び直されたポニーテールが、規則正しく揺れた。その根元のヘアゴムには、言っていた通り小さな花の飾り。風に運ばれてくる香りは、朝と変わらず俺を惑わせる。気を紛らわせようと、視線を少し落としたのがいけなかった。見え隠れする頸に、釘付けになる。少し汗が滲んだ首筋。そこに細い髪の毛が数本張り付いている。その様がやけに艶かしくて、眩暈がした。きっと、暑さの所為だ。そう言い訳しながら、尋ねる。

「そういやさ、ご褒美は?」

いつもみたいに冗談めかしたつもりだったのに、自分の声があまりに真剣で内心焦った。いくら繕うのが得意だって、誤魔化しきれない。悟られないように抑え込もうとしても、それを上回る勢いで恋心が溢れてくる。

「あれ、本気で言ってたの……ごめん、てっきり冗談だと思ってた」
「ほーんと、こういう時だけ鈍いよなぁ。いや、俺の日頃の行いか。こりゃ改心しねぇと」

とぼけているわけじゃないんだろう。だって、本気で反省してる時の顔だ。そんな表情されたら、責められないじゃん。そういう所も好きだけど、ちょっと残念。苦笑しながら数歩進んだところで、腕を引かれてバランスを崩す。なんとか転ばずに済んでホッとしたのも束の間、飛び込んできた光景に心臓が跳ね上がった。

「え、ちょっ、苗字さん!?」
「萩原みたいに上手じゃないけど、大目に見て」

俺の頬を包み込み、上目遣いで意味のない保険を掛けてくる。ツッコミを入れる前に、数十センチの距離が縮まって、呼吸が奪われた。身体が沸騰するような感覚に溺れる。おいおいおい、マジか。てか今、上手とか言ったよな。誰と比べてんの。脳内の俺が叫び終えた頃、そっと唇が離れる。その瞬間の、熱の混じった吐息が止めだった。もう煮るなり焼くなり好きにしてくれ。両手で顔を覆い、白旗を上げた。

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