秘め事を垣間見る

クソ寒い、終業式の前日。俺を含めたほとんどの奴らが、冬休み気分だったに違いない。朝のホームルームまでの間、いつものように萩原とくだらない会話をしていると、苗字が教室に入ってくる。席を外しているだけかと思っていたが、どうやら今登校してきたらしい。その時点で違和感を覚えた。こんなに時間ギリギリなのは初めてだ。当然、萩原も気づいた違いない。

「珍しいな」

その呟きに相槌を打った瞬間、我が目を疑った。俺と同じく、隣からも息を飲む気配がする。数メートル離れていても分かるほどに、苗字の目元は赤く染まっていた。泣いたんだろう。俺がその事実に戸惑っている間に、萩原は素早く立ち上がって駆け寄ろうとした。こういう時に痛感する、こいつがどれだけ苗字を大事に思っているのかを。だが、タイミングよく担任が入室してくる。仕方なく椅子に座り直した萩原へと、斜め前から如月が睨みを飛ばした。

「泣かせないって言ったのは、どこのどいつよ」

嫌味じゃない。心からの敵意だ。聞いてはいたが、ここまでとは。もはや苗字名前信者だろ。一方で萩原は、その言葉に返事をしなかった。というより、たぶん聞こえていない。いつにない真面目な顔で、苗字の背中を凝視している。それに十中八九、原因は萩原じゃない。こいつは、惚れた女を泣かせるようなヘマはしない。

「名前、何があったの?コイツに何かされたなら言いなさい。丸坊主にしてあげるから」
「いやまあ、それで苗字が元気になるなら剃るけどさぁ……とりあえず、理由話してくれない?泣き顔も可愛いけどっ、イッテェ!!」

ホームルームが終わると、ふたりしてお節介を焼き始める。真面目にふざける萩原の足を、如月が踏み付けた。おっかねえ女。その輪に入る気にはなれず、自分の席に座ったまま傍観する。圧に押されるように、苗字はぽつぽつと話し始めた。声からは哀しみが滲んでいる。

「悲しい事があって────今朝、コタローが死んだの。朝起きたら、私の隣で…ッ……あの子、まだ温かくて、眠っているみたいだった。なのに、名前を呼んでも目を開けてくれなくて……信じられない。こんな気持ち、二度と味わいたくなかった」

刹那、心臓が妙な音を立てる。珍しくボロを出しやがった。咄嗟に萩原の様子を窺う。鋭いこの男のことだ、気付いただろう。いや、今はこいつも冷静じゃない。すぐに神経を会話へと戻す。苗字はこう言った────二度と味わいたくなかった。"二度と"という言葉、それに過去形だった。つまり、以前にも経験してるってことだ。

「ごめん、朝から……そんな事でって思うよね」
「思わない。思うわけないだろ」

らしくない、強い口調。ついさっきまで萩原に対抗していた如月も、驚いた顔をしている。優しいだけじゃないんだよ、こいつは。大事な相手の為に怒れる奴だ。

「そう、だよね。ごめん…ううん、ありがとう」

そう言って、歪だったが笑顔を見せる。今日、初めて笑ったな。それを褒めるみたいに、萩原が苗字の髪を撫でる。一瞬、ここが教室だってことを忘れそうになった。いつの間にか如月も、半歩後ろに下がり、その様子を見守っている。どうやらただの狂信者ではないらしい。悪く言えば、分を弁えている。今この瞬間、苗字が誰の言葉を必要としているのか、理解しているんだろう。

「コタローは幸せだったよ。ずっと、最期まで、大事な人の隣にいられたんだから。今は無理して笑わなくたっていい。悲しいなら言って。俺の傍でなら、泣いてもいいから。そんで帰ったら、ちゃんと笑ってお別れするんだ────後悔しないように。大丈夫、苗字ならできるよ」

しゃがんで目線を合わせて、ガキに言い聞かせるみたいだ。苗字も苗字で、素直に頷いている。俺には決して出来ないやり方だ。

「まーつだ、今日バイトも部活もなかったよな?」
「ああ」
「じゃあさ、俺らと一緒に帰ってくんない?」

俺の側まで戻ってくると、小声でそう尋ねてくる。イチャつく奴らと一緒に帰るなんざ新手の嫌がらせかと思ったが、どうやら違うらしい。その声も顔も妙に真剣で、静かに俺の答えを待っている。

「別に構わねえけど、なんで」
「陣平ちゃんの不器用さが必要なの」
「喧嘩売ってんのか?」
「いや、全然。本音を言えば、頼りたくなんてないさ。でも、俺よりお前の優しさの方が響く場合だってあるだろ。今回がそうかは分からねえけど……その時は、頼むぜ」

なんて顔しやがんだ。そう文句を付けようとしたら、チャイムが鳴る。自席に戻って行く背中が、いつもより大きく見えた。苗字が関わると、萩原は嫉妬深いし、余裕がなくなる。その場所を譲る気も無いだろう。だが、あいつは苗字の為なら何だってする。それでテメェが傷付くとしても、だ。自分以上にあの女が大事だから。

「(なら俺は、これからもこの距離にいてやるよ。どっちを失うのも御免だからな)」

**

「まっすぐ帰る?」
「うん。朝は取り乱しちゃって、きちんと顔も見てあげられなかったから」
「そっか。今日はね、陣平ちゃんも一緒に帰ってくれるって。心強いだろ?」
「そう、なんだ……ありがと」

目を見開きながら礼を言われて、早くも逃げたくなった。調子が狂う。溜息を飲み込み、なんてことない話をしながら3人で歩いた。俺がいるからか、萩原は手も繋がなければ甘い言葉も吐かない。いや、違う。苗字を気遣っているのかもしれない。視界に映った横顔、赤くなっていた目元は綺麗に化粧で隠されている。如月がやったんだろう。そんな事を考えていたら、苗字が振り返った。見ているのがバレたのかと一瞬焦ったが、その視線は俺を捉えることなく、何かを探すように巡る。

「どうかした?」
「今、鳴き声が」

そう呟いて、戸惑いなく草の伸び切った空き地に入って行く。萩原と顔を見合わせ、追いかける。途中、手の甲に痛みを感じ目を向けると、皮が少し剥けていた。棘でもあったんだろう。再び前を向けば、数歩先で苗字が立ち止まり、萩原がその隣に並んでいる。側に寄り、ふたりの視線を追って地面を見下ろした。

「飢え死に、じゃねえな…事故か」

そこには猫の死骸があった。茶色の毛が血で黒く染まっている。固まり乾燥しているところを見るに、それなりの時間が経っているんだろう。即死ではなかったのか、車に轢かれた後ここまで歩いて来たらしい。そしてその傍らには、冷たくなった母猫を守るように、一匹の子猫が毛を逆立て威嚇していた。見つけちまった以上、役所に電話するかとスマホを取り出した俺の横で苗字が動く。

「おい、やめとけ。引っ掻かれるぞ」

俺の制止なんて聞きやしない。鞄から出したハンドタオルで子猫を包み込んで抱き上げる。野良猫だから汚ねえし、人馴れもしていない。引き寄せられた胸元で、必死の抵抗を見せている。

「猫ちゃん、羨ましいねぇ。俺も苗字に抱っこされたいな」
「どさくさ紛れに変態発言すんな」
「萩原、少し代わってくれる?」
「はいよ」

気持ち悪い台詞は華麗に聞き流された。それを特段気にする素振りなく、萩原は差し出されるまま子猫を受け取る。白いタオルはすでに土で汚れていた。

「死は強烈だよね。感情を物差しで測ることなんてできない。だけど、何の繋がりもない猫の死でさえこんなに胸が痛いんだから、身近な誰かの死は……気が狂いそうになるくらい哀しいに決まってる」

母猫の側にしゃがみ込んで、苗字は手を合わせる。その頬に涙は見えなかったが、声は微かに震えていた。そしてそっと目を開け、ぽつりと呟く。

「あの時、私は置いて行く側この子だった…ッ……ねぇ、教えて。ふたりも、今の私と同じ気持ちだったの?どれだけ哀しいか知ってたのに、私は周りの人達にこんな思いをさせたの?」

振り向いた表情に、心が軋んだ。そんな顔で泣くんじゃねえよ。こっちが悪者みたいだろ。口を開いたら責めちまいそうで、必死に奥歯を噛む。同じ気持ちだったか────愚問だ。当たり前だろうが。薄暗い霊安室で味わったあの思いは、俺の心に深く刻まれ、二度と消えることはない。

「哀しかったよ、息が出来なくなるくらい。決まってんじゃん。だけど、それは苗字もだろ。置いて行く方だって苦しいに決まってる。どっちが辛いかなんて比べられるもんじゃねえけど、思いはきっと同じだ────もっと一緒に居たかった、出逢えてよかった。それから、大好きだってな」

余裕のない俺の隣で、萩原はいつも以上に柔らかい声で語りかける。膝を突き、右手で苗字の髪を撫でながら、穏やかに笑う。それから頬を伝う涙を拭って、肩口に小せえ頭を引き寄せた。苗字は導かれるままその場所に顔を埋め、肩を震わせる。

「悪いと思ってんなら、今度は消えんな」

そう吐き捨てれば、苗字じゃなく萩原が弾けるように顔を上げた。そうだ。テメェにも言ってんだよ。鼻を鳴らしてやると、苦笑が返ってくる。それを見届け、背を向けた。お優しい言葉をかけるのは俺の役目じゃない。空き地の入り口で今度こそ電話をかける。事のあらましと詳細な場所を伝え終えた頃、背後で足音。

「弔いは済んだみてえだな。どうすんだ、そいつ」
「……動物病院に連れて行くよ。その後のことも考える。私にはその責任があるから」
「あっそ。ハギ、お前そろそろバイトの時間だろ?いいから、行けよ。こいつには、俺が付き添う」

ふたりして目をパチクリさせてから、顔を見合わせている。揃って失礼な奴らだな。そんなに意外か。前言撤回したくなったが、なんとか我慢した。

「こりゃ明日は雪か」
「余程ぶっ飛ばされたいらしいな」
「冗談だから!拳収めろって!」

手を開閉させながら近付くと、慌てて謝ってくる。俺の気が変わらねえうちに、さっさと行けってんだよ。目でそう告げれば、気持ち悪いくらい優しげな顔を向けてきた。そういうのは俺じゃなく苗字にしろ。

「きちんと家まで送り届けてくれよな」
「わぁーってるよ」
「あと……手ェ出したらブン殴る」
「誰が出すか!!」

耳打ちでふざけた事を言いやがった。怒鳴り返す俺の肩を叩いた後で苗字に向き直ると、さっきまでの雰囲気が嘘みてえに話しかける。腕に抱かれている子猫は、いつの間にか大人しくなっていた。

「んじゃ、俺は行くね。陣平ちゃんがいるから帰るまでは大丈夫だと思うけど……お別れ、ちゃんと出来そう?」
「うん、大丈夫だよ。萩原のお陰で笑って見送れると思う。今日は本当にありがとう」
「どういたしまして。それじゃあ、また明日な」

軽く手を振って、駆けて行く。それから役所の到着を待ち、動物病院へと向かった。別に話したい事もなかったし、居心地が悪いわけでもないから、無言のまま。苗字も俺に話しかけようとはしなかった。こういう所は女らしくなくて、気が楽だ。子猫は一応は診てもらえることになったが、診察後の引き取りから今後まで責任を持つことが条件だと言われた。当然だろう。あっちだって商売だ。一時の同情で仕事を増やされちゃ堪らない。

「里親でも探すつもりか?」
「まずはそれが第一候補かな。それまでは一時的にうちで飼えないか家族に頼んでみる」
「ふぅん。ま、何かあれば俺か萩原に相談しろ。見つけたのはお前だが、俺らも共犯だからな」

俺の言葉に苗字は返事をせず、ただ微かな笑い声だけを落とした。「優しいね」と言われた心地がしたのはきっと気の所為じゃない。だが、そう指摘するのも自意識過剰だと思い、無言を貫く。再び訪れた沈黙の中で、今日の苗字の言動を思い返した。

───こんな気持ち、二度と味わいたくなかった。

たぶんそれは喪失感だと、直感的に理解した。苗字はあの感覚を知っている。胸の真ん中に穴が空いたような、人生の一部が欠けたような、あの感覚。それを今日再び味わったことで、秘め事の蓋が緩んだ。それも、苗字自身が無自覚のうちに。

───どれだけ哀しいか知ってたのに、

出会った時から、こいつの心の真ん中にあるもの。ひた隠しにしてきたそれが今日、俺達の鼻先を掠めた。恐らく、萩原がその傷に触れる日は近い。だが、心配はしていない。たとえどんなに暗く苦しい過去だろうと、大丈夫だという確信がある。ずっと近くで見てきた。萩原と苗字を結ぶ絆の強さを、俺は誰よりも知っている。

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