心の氷が溶ける時

「ふたりとも、昨日はありがとう。コタローとお別れできたよ」
「そっか……はい、よく出来ました」
「イチャつくなら他所でやれ」
「もしかしてヤキモチ…冗談です。そういや、あの子猫は?病院連れて行ったんだろ?」

終業式の朝、苗字が声をかけてくる。萩原が堂々と頭を撫でるもんだから、思わず顔を歪めた。続く会話の中で、気怠げなフリをしながら神経を傾ける。子猫の様子を語る苗字の横顔は穏やかだ。相槌を打つ萩原の瞳も、いつも通り柔らかい。何ら変わらない光景。

「おい、萩原…気づいてんだろ」

苗字がいなくなってから、問いかける。昨日覚えた違和感、こいつがそれに気づかないわけがない。俺の方に視線を寄越し、真顔の後、笑った。

「人が触れないでいると、これだもんなぁ」
「馬鹿か?遠慮していつの間にか手遅れだなんて、目も当てられねえ。嫌ってほど知ってんだろ」
「ああ。分かってるし、そんな事はさせない。だけど強引な手段なんて死んでも選びたくねぇの。だから、こうしてんだ」

こう、とは────ただ傍にいるだけじゃない。苗字の一挙手一投足に気を配り、微かな変化も見逃さない。実にこいつらしい護り方だ。俺にはとても出来ない。あの頃とは違う。遠慮じゃなく覚悟だと、わかる。

「あいつ、自分から話すと思うか?」
「話すよ」
「……なんでそんな自信満々なんだ」
「苗字がそう言ったから」

たったそれだけ返し、萩原は笑う。自己暗示なんかじゃない。こいつは心から信じている、盲目的なまでに。疑うよりも何倍も難解なことだ。それを、なんでもないって顔でやってのける。

「それ以外にも気になってる事あんだよなぁ」
「なんだよ?」
「んー、ナイショ……んな不機嫌そうな顔するなって。たぶん、松田も無関係じゃないし」

その言葉の意味が、この時は分からなかった。散々巻き込まれているし、無関係だなんて言わせない。だが恐らく、今の『無関係』は毛色が違う。視線で尋ねてみても、答えは返ってこなかった。

「他に予定がなければ、初詣行かない?」

終業式の帰り道、苗字からそう誘いを受けた。勿論、萩原もだ。異議を唱えようとしたが、できなかった。何故って、その時の苗字の顔がやけに真剣だったから。思わず素直に了承しちまった。あれは、覚悟を決めた目だ────どうやら、真に苗字名前という人間を知る時が来たらしい。隣で笑顔を浮かべ頷いた萩原も、そう思ったことだろう。俺も一緒なのは甚だ疑問だが、せっかくのお呼ばれだ。行ってやろうじゃねえか。

「ワリ、寝過ごした」
「だと思ったよ、ったく」
「謝ってるだろうが。秒で行くから待ってろ」

そして1月1日、早朝。盛大に寝坊した。布団から這い出し、とりあえず萩原に電話をかける。開口一番で謝罪をしたのに、文句を垂れてきた。言い合いになりそうな雰囲気を感じて、部屋着を脱ぎ捨てながら返事をする。

「偉そうに言うなっての…仕方ねえから、家までお迎えに上がりますよ。どうせ神社はそっち方面だし。ゆーっくり準備してください」
「……悪かったって」
「俺はいいんだよ。でも苗字を待たせるのはダメ」
「へいへい。ちゃんと謝りマス」

電話を切って、浅く溜息。萩原はああ言っていたが、当の本人は「別にいいよ」と言うに決まってる。あの女は遠慮が上手い。息をするように我慢をする。人に寄り掛かるのが苦手、たぶん慣れ切っているんだろう。自立していると言えば聞こえは良いが、人間ってのはそこまで強くない。だからこそ、心から良かったと思う────苗字の隣にいるのがあいつで良かった。

「お、王子サマ登場」
「おはよう」
「スミマセンでした」

棒読みで謝罪すれば、ジト目が飛んでくる。一方で苗字は、予想通り然程気にしていない様子。開き直ったら萩原がまた五月蝿そうで、鼻から息を吐くだけにしておく。

「陣平、財布忘れてるぞ」
「お、サンキュ……親父?」

玄関から親父が俺に財布を差し出す。礼を言いながらそれを受け取った。否、受け取ろうとした。ところが、俺が触れても親父は一向に手を離そうとしない。不審に思い顔を上げて、惑う。その目は俺でも財布でもなく、ある一点を見つめていた。視線の先には、萩原の隣に佇む苗字がいる。

「お久しぶりです」

どこか悲しげに瞳を揺らし、苗字はそう言って頭を下げた。その声には、とても一言じゃ表せないほどの感情が乗っている。狼狽える俺を置き去りにしたまま、会話は続く。

「アンタ……あの時の嬢ちゃんか」
「謝罪に訪れるのがこんなにも遅くなってしまい、申し訳ありません。どうか無礼をお許しください」
「顔、上げな。せっかくの正月だ。それに、責められることはあっても、謝られる覚えはねぇよ」
「おい、何なんだよ。全く話が読めねえ。親父、こいつのこと知ってんのか?」

傍観に徹するのも癪で、割って入る。妙なのは、萩原が表情一つ変えないことだ。まるで、この展開を予想していたみたいに。ふざけんな。散々巻き込んでおいて今さら蚊帳の外とか、認めねえ。

「こっちの台詞だ。まさか倅と知り合いとは、縁ってのは侮れねぇもんだな。おい、陣平。ひょっとして彼女じゃ、
「残念ながら違いま〜す」
「……みてえだな」

親父の言葉を、萩原が笑顔全開で遮った。あまりの迫力に俺も親父も顔を引き攣らせるしかない。見せつけるように苗字を引き寄せる姿に、呆れを通り越し、清々しくすらある。てか、そんな事はどうでもいいんだよ。

「で、どういう知り合いだよ?」
「…こいつらは知ってるのか?」
「今日、話すつもりでした。そう決めたのに、ふたりを見たら足が竦んでしまって…だけど、臍を固められそうです。"話さなくちゃ"ではなくて、"知っていてほしい"って、やっとそう思えるようになりました。この傷も、私の一部ですから」
「そうかい。強くなったなぁ、嬢ちゃん」

その時の親父は、見たことのない表情をしていた。たぶんもう二度と見ることはないだろう。これが最初で最後だ。誤魔化すみたいに数秒瞳を閉じる。次に目を開けた時にはもう、いつもの親父だった。

「もしそう思われるなら、それは周囲の人達のお陰ですね。恥ずかしながら、強さとは何かを知ったのは最近で…履き違えたまま生きようとしていた私を、彼らが救ってくれました────私はもう、大丈夫です。また会いに来てもいいでしょうか。今度は御礼をしに」
「……勝手にしな」

苦笑しながらそう言い残し、ドアが閉まる。結局、何一つ分からなかった。苛立ちを募らせ苗字を睨むと、笑い返してくるもんだから流石と言わざるを得ない。萩原は黙り込んだままで、気味が悪いくらいだ。

「初詣、お寺に変更してもいい?」
「は……この状況で初詣行くのかよ」
「だから、なんだろ?」

いつも以上に優しく萩原が問えば、苗字はゆっくりと頷く。その場所にどんな意味があるのか、敢えて考えることはしなかった。こいつ自身の言葉で聞くから意味がある。そんな事を思う自分に苦笑している間に、苗字が歩き出して、萩原がその後を追う。最後に一度だけ玄関に目を向けてから、幼馴染の隣に並んだ。少し先を行く背中は、相変わらず嫌になるほど真っ直ぐで、凛としている。

「ふたりは、どんな子どもだった?」

暫く歩いた頃、前を向いたまま苗字が尋ねてくる。雑談じゃない。たぶん、これからの話に繋がる問いだ。俺に一瞥を向けた後、萩原が答える。

「今とあんま変わらないかな。誰かと話すのは好きだったし、人見知りもしなかった。陣平ちゃんなんか今と同じで悪ガキでさぁ、俺の実家に忍び込んでイタズラばっかしてた」
「ふふ、目に浮かぶ。私はね、真逆。大人しくて人と話すのも苦手で、決して社交的な方じゃなかった。好奇心よりも圧倒的に恐怖の方が強い、そんな子ども。だから私にとって、両親は世界そのものだったの」

今まで頑なに触れてこなかったとは思えないほど、流暢に話す。もしかしたら、こいつなりに備えをしていたのかもしれない。どういう順序で、どんな風に話すのか。会話の途中で疑問が生まれないように、一つひとつを漏らさず話していると、伝わってきた。

「父はアウトドアが好きで、よくキャンプや天体観測に連れ出してくれた。だけど私はあまり楽しめなくて、帰りたいと愚図るから苦労したと思う。なのに怒らず笑ってくれる、優しい人だった」
「どっかの誰かみてえだな」
「……言われてみれば、少し萩原に似てるかも」
「いや、複雑!!俺は苗字のお父さんになりたいわけじゃないんだけど!?」

俺の茶々に苗字が笑い、萩原が叫ぶ。その声に耳を傾けながら、寺の山門を通った。周りの参拝客は誰も彼も浮かれている。俺らもそう見えているに違いない。人間は他人を意識して見ないし、興味もない。そういう奴が大半だ。だけど生憎なことに、苗字は他人じゃない。親友の女で、俺にとってもたぶん大切な人間。

「母は私とは正反対な人。底抜けに明るくてお転婆で、太陽みたい。そのくせ、本を読み聞かせてくれる時は信じられないくらい静かな声でね。それが可笑しくて……いつも私や父よりも前を歩く、道標のような女性だった。あの日もそう。母は、私達より少し先にいた」

そこで言葉を切って、立ち止まった。仄暗い瞳は、一つの墓石を見つめている。線香と花のにおいが漂う中で、苗字は一度大きく息を吸い込んだ。そして吐き出された息の白さに気を取られていると、俺らを振り返り、髪を耳にかけてから呟く。

「────ここで、ふたりは眠ってる」

わかっていた。確証がなかっただけで、疑念は至る所にあった。いつか初詣で会ったのが、墓の側だったこと。同じ中学の奴がいないのに、如月とは幼馴染なこと。用事と称して、いつも誰かに会いに行っていたこと。一緒に住んでいるあの夫婦を、一度だって親とは呼ばなかったこと。"死"を身近に感じていること。

「小学校の入学式を間近に控えたあの日、家族で水族館に行ったの。その帰り道、横断歩道を渡っていた母に車が迫ってくるのが見えて…一目でおかしいと思った。尋常じゃないスピードで、止まる気配がなかったから。そして、父は握っていた私の手を離し飛び出して、母と一緒に……その場に居合わせたのが、松田のお父さんだった」

そう言われ、俺の中で何かが繋がる。春、親父、交通事故────ああ、あの時か。親父がシャツを血に染めて帰って来た、あの夜。いくら尋ねようと答えてくれなかったから、新聞記事で詳細を知った。確かに夫婦は犠牲になったが、息子の俺にとっては、父親が人命救助に手を貸したという事実がただ誇らしかったのを憶えている。だが、違った。親父が頑なに語ろうとしなかったのは、こいつが理由だったのか。ひとり遺された子どもに、何もしれやれないことへの無力感。

「まだ意識のあった父を、貴方のお父さんは必死に救おうとしてくれた。それをちゃんと傍で見ていたのに…ッ……私は、最低な言葉を吐いてしまった。『どうして?』って、そう、言ったの」
「成る程、さっきのはその謝罪ってわけか」
「受け取ってもらえなかったけどね。どうしてだなんて…それは私自身に突き付けるべき言葉だったはずなのに」

瞬間、萩原の空気が変わる。馬鹿が、と思わず言いそうになった。萩原じゃなく、苗字に対してだ。一等大事な女が、自分を責めるような言動をした。誰より優しいこの男が、それを許すわけがない。浅く息を吐いて、一歩足を引いた。

「オラ、出番だぜ」

- back -