傷も愛も抱きしめて

「まさか苗字は、自分の責任だって思ってるの?」
「そこまで僻んではいない…と、思う。罪という意味なら、間違いなくお酒を飲んで車を運転していた人にある。非力な子どもの私が、大人ふたりを庇えたはずがない。だけど頭でいくら正論を並べても、最後はいつも同じ問いが残る────こうなることは、わかってたでしょ?って」

よく知ってる。彼女はちゃんと俯瞰できる人間だ。落ち着いて物事を見て、判断する。今回のことだって、場合が違えばそうしたはずだ。だけど、理屈じゃない。後悔するなって方が無理な話。

「あの日の一つひとつの会話や場面を思い出す度に、救えたんじゃないかって、そう思うの。もっと必死に止めるべきだった。きちんと言葉で説得すればよかった。母の名を呼べばよかった。父の手を離さなければよかった……私の油断が、同じ悲劇を招いてしまった。誰が何と言おうと、それは変えようのない事実」
「油断?」
「ふたりのことだから、分かってるよね。今回の人生は、基本的に一度目と同じ道筋を辿る」

苗字は懺悔のように、積み重なった後悔を言葉にしていく。胸が苦しくなる内容なのに、口調は穏やかで悠然としていた。その姿を見て、悟る。強がりなんかじゃない。彼女はもう、両親の死と向き合って、前に進む覚悟ができている。好きだなぁ、とそう思った。

「事故が起きたのは、一度目とは違う場所だった」

彼女がそう言った直後、隣から舌打ちが聞こえる。視線を向ければ、不機嫌そうな顔で松田が言葉を繋げた。

「十字路だろ、一丁目にある。だけど今回はその一つ先の交差点だった。クソッ、その時点で気づくべきだったぜ。場所が変わるなんて、普通じゃあり得ねえ」
「一丁目の十字路……」

復唱した後で、糸が一本繋がる。それは、俺らの高校の近くにある。コンビニやハンバーガー店が並んでいて、放課後に時々通る場所だ。いつだったか、その角にある喫茶店で苗字を見かけたことがあった。あれは確か、会って間もない頃。松田がやけに急かしてきたのはこれが理由だったのか。その場所で人が亡くなったことを知っていたから。

「あの十字路を通り過ぎたことで、油断してしまった。もう大丈夫だって。結局、残ったのは後悔だけ……私は一生、この後悔を携えて生きていく」
「うん」
「それでも幸せになりたいって、今は心からそう思ってるよ……本当に」
「うん、わかってる。間違ってなんかないよ。俺が保証する」

幸せを求めることを、やめないでほしい。君と同じ幸せを望んでいる男がいることを、知っていてほしい。俺が頷けば、彼女は涙を湛えた瞳で笑う。今すぐ駆け寄って抱きしめたくなるけど、その前に俺の気持ちも伝えなきゃいけない。

「誤解しないでほしいんだけど…俺はさ、感謝してるんだよね。両親のことがなかったら、俺は君に恋してなかったと思うから」

その出来事がなければ、苗字はきっとあんな生き方を選ばなかっただろう。そうしたら、俺の瞳に彼女が映ることもなくて、俺達は他人のままだった。孤独を望み、ひたすら暗闇を求めていたからこそ、俺は君に惹かれたんだ。

「どんなに悲しい記憶でも、君と結び付けてくれた出来事なら、俺は感謝したい。だからこそ、預けてほしい……その後悔ごと、俺は君が好きなんだよ」

自分の口から出た言葉なのに、音にして初めて胸に落ちた気がした。涙の膜が張っていた瞳が、見開かれる。子どもみたいなその表情が堪らなく好き。

「ありがとう」

そして最高級の笑顔で一言。いつも素直なくせに時々頑固になるところとか、結構顔に出ちゃうところとか。全部、好きだから愛しいんだよ。何よりもまず、好きなんだ。

「あの生き方は、私の為だったの。傍にいたら誰かを不幸にしてしまうとか、そんな利他的な理由じゃなくて……私が、二度と同じ経験をしたくなかっただけ。もしもう一度あんな風に大切な人を失えば、今度こそ耐えられない。そう分かっていたから、心に蓋をして誓った────誰も、愛さない。それが最善の選択だって、信じて疑いもしなかった」

儚げに微笑みながら、そっと胸を撫でる。その声に耳を傾ければ、今まで見てきた色んな彼女の姿が浮かんでは消えていく。少しの温もりじゃ溶かせない。生半可な優しさなんかじゃ響かない。そういう場所にいた君に、俺の声は、思いは、ちゃんと届いていたんだろうか。

「萩原、私に言ったよね……遠ざけようとするのは、貴方が大切な存在になるのが怖いからだって。あれ、たぶん当たってたよ。あの時にはもう、私の誓いは揺らいでいたんだと思う。かなりの覚悟で結んだのに簡単に解いちゃうんだから、ズルいよね」
「簡単って……本気で言ってんの?」

イージーモードだなんて、どの口が言うんだか。俺が真顔で尋ねると、半歩後ろでふっと笑う気配がする。忘れてた。そういや松田もいたんだった。何も口を挟んでこないから、すっかり失念してたわ。黙って聞いてるなんて、珍しい。こいつなりに気を遣ってるってことか。

「違うの?」
「おい、ハギ。ありゃマジの顔だぜ」
「とんでもねぇな。そんな余裕に見えてたなら、そりゃ大間違いだよ。俺にとって君は、どんな定理や公式でも解けねえ超難問なの。たぶん一生解けないし、むしろそれが楽しいんだけどね」

分かりやすく例えてあげたのに、彼女は眉間に皺を寄せている。もしかして不本意なのかな。自覚がないんだから困ったもんだ。でも変わらないでいてほしい。これからもずっと、その難解さで俺を翻弄し続けてほしい。

「で、契りを破る覚悟は決まったのかよ?」

いつもの口調で、松田が穏やかに尋ねる。斜め後ろにいるから見えないけど、気味の悪いくらい優しい顔をしているんだろう。投げかけられた問いを受け止めると、苗字は一度目を閉じた。胸に手を当てて、ひと呼吸。瞼の下から顔を出した瞳には、一等眩い光が宿っている────嗚呼、綺麗だな。

「失う怖さを捨てることはできない。でもきっと、それが誰かと生きるって事なんだと思う。そういう恐怖を抱くほど大切な誰かがいて、その人達と一緒に歩いていくことを幸せって呼ぶんだね」

微笑みながらそう言うと、苗字は両親に向き直る。名残惜しそうに下唇を噛む姿に、松田と視線を合わせてから彼女の左隣に並んだ。微かに震えている手に触れて、指を絡ませる。握り返された手は、冷たかった。一拍遅れて、松田も溜息を吐きながら彼女の右隣に立つと、軽くその背中を叩く。

「しゃんとしろ。お前がそんなんじゃ、安心できねぇだろうが」
「大丈夫だよ、俺らが隣にいる」

俺達の言葉に頷いて、彼女は大きく息を吸った。それを見届けて、松田とふたり前を向く。それを合図に聞こえた声には、もう迷いなんて欠片もなくて、いつも通り芯のある音だった。

「私は、この幸せを大事にしたい。振り返るのは、今日で最後にする。お父さん、お母さん……私を生んでくれて、ありがとう。ふたりから貰った愛情を、私は絶対に忘れない────行ってくるね」

**

「私、松田に謝らなくちゃいけない」
「なんだよ」
「憶えてないかもしれないけど、前に学校でお父さんの噂が広まったことがあったでしょ。あの時、貴方に嘘吐いちゃったから」

その後、予定通り初詣を済ませた帰り道。申し訳なさそうに苗字が切り出した。一方、謝罪を受けた本人は心当たりがないようだ。かく言う俺も、未だに嘘の内容にピンときていない。親友を救ってくれた記憶が強いからだろうか。それを察して、彼女が説明してくれる。

「否定も肯定もできないって言ったこと。本当は否定できたのに…貴方のお父さんは、絶対に殺人を犯したりしない────あの人は貴方や萩原と一緒で、誰かを救える側の人だから。もしもまた同じ事を言われた時は、必ず私が証人になる」

あまりに真っ直ぐな言葉に何も紡げないでいる松田が面白くて、つい笑っちまう。返事は求めていないのか、彼女は足を止めない。苦い顔をする親友の肩を叩き、俺も後に続いた。

「お前、今の家にはいつから住んでんだ?」

暫くして松田が尋ねる。それに瞬きをする彼女の横顔は、いつもよりも明るく見えた。まあ、いつも綺麗で眩しいんだけどね。俺も気になってた事だから、黙って様子を見守る。

「中学卒業と同時、かな。両親が亡くなってからは県外の祖父母の家で暮らしてたんだけど…、高校でバイトを始めるつもりだったし、帰りも遅くなるから今の家にお世話になることになったの。お墓もこっちにあったしね」
「ちなみに治孝さんは親戚なの?」
「……ちょっと待って。どうして萩原が叔父さんの名前を知ってるの?」

立ち止まり、目を丸くして彼女が尋ねてくる。驚いた顔も超絶可愛い。頭の隅でそんな事を考えつつ、質問に答える。そういえば、事故の後に彼女を交えて治孝さんと会話したことはなかったな。

「苗字が事故に遭った時にね」
「そう、なんだ……あの人は母の弟なの」
「それがどうした?俺から見りゃ、どこにでもいる親だったけどな。壁作ってたのはお前の方だろ」
「陣平ちゃん、言い方」
「いや、松田の言う通りだよ。意地を張って、冷たい態度ばかりで…どうしようもなく幼稚だった。叔父夫婦もだけど、今度こそ周りの人達に誠実でありたい」

前向きな言葉に、口元が緩む。弱い所を見せてほしいけど、凛々しい彼女も好きだと思うのは可笑しいだろうか。益々いい女になっちゃって、これじゃあ世界が苗字名前の魅力に気付くのも時間の問題。他の奴らに知られたくなんてないのに、自慢したいとも思う。

「自分の駄目なとこ認めて向き合うなんて、中々できることじゃないぜ。苗字は偉いよ」
「けっ、甘やかすんじゃねーよ」
「改善すらしようとしない奴がなに言ってんの」

褒めてやりたくて頭を撫でれば、照れたように眉を下げるから胸がキュッとなった。甘ったるい雰囲気が気に入らないのか、松田が顔を顰めてぼやく。傍若無人を体現している奴が言う台詞じゃない。そんな俺達の間で、苗字が喉を鳴らす。

「私は松田のそういう所、好きだよ」
「っ、おっまえ、マジでやめろ。本音だからって何でもかんでも言葉にすんな。いいか、こいつは嫉妬深いんだよ。そろそろ俺が殴られるだろうが」
「しっ、と……って、あの嫉妬だよね、女編の」
「他にどういう字があんだよ」
「……萩原が?」

指で宙に文字をなぞり、漢字を尋ねてくる始末。呆然とこっちを見つめるから、息が詰まった。俺だって普通の男なんだと、何度言ったら理解してくれるんだろう。聖人君子なんかじゃない。嫉妬なんて毎日のようにするし、恋愛に関しては思い通りにならない事ばっかりだ。ところが彼女は、些か俺を美化しすぎている節がある。

「そっか。ごめん、鈍くて。今後は、あんまり松田のこと独り占めしないように気をつける」

沈黙。とんでもない勘違い。俺が嫉妬しているのは松田であって、彼女じゃない。そりゃ親友が他の奴と仲良くしてたら少しモヤっとするけど、それはそれだ。隣で笑いを堪えている松田をひと睨みしてから、弁明する。

「なんでそうなるかな。俺が独り占めしたいのは、松田じゃなくて君だよ。さっきの嫉妬もこいつにしてんの」

ぱちくり。そう効果音が付きそうな表情で俺を見た後、苗字は眉を顰める。不可解な時の顔だ。今こそ照れるところだと思うんだけどなぁ。思い通りの反応をしてくれない。そういうところも好き。口角を上げながら、小学生に加減乗除を教えるつもりで、解説する。

「あのですね、苗字さん。俺も人間なのよ。別に神様から生まれたとかじゃねぇの。君と同じで食事も睡眠も必要だし、好きな女の前じゃただの男なわけ。そろそろ学んでください」
「好きな、女……」

復唱して、彼女が俺の言葉を反芻する。『好き』の意味も、『女』の意味も、知ってるはずなのに。俺の辞書で好きな女と引けば、苗字名前と出てくるだろう。さらに苗字名前という人間を言葉で説明してやる。それは、彼女にだけ当てはまる定義。

「なぁに驚いてんの。俺が骨の髄まで惚れ込んでる、世界で一番愛しい女────それが苗字名前なんです」

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