かけがえのない一頁

夏が過ぎて、秋が来た。夏休みが終わった9月のこと。彼女とは、あれから一度も会っていない。連絡先だって交換していないし、家も知らないのだから当然だ。

「リレー?」
「うん。萩原くん、運動神経良さそうだし」

学生恒例の運動会。うちの高校は、チームに分かれて競う形式。同じクラスでも、同じチームとは限らない。実際、松田とは別のチームだ。今のは、チーム対抗のリレーに出ないかという誘いらしい。

「ご指名されちゃ、やるしかないね」
「なんだ、ハギもリレー出んのか?」
「"も"ってことは、陣平ちゃんも?」
「おう、負けた方がハンバーガー奢りな」
「お、いいね」

なんて、つまらない賭けをした。リレーの選手は、各チーム学年毎に男女一人ずつ選ばれる。つまり一チームあたり6人だ。とある日の放課後、リレーの選手の顔合わせが行われた。メンバーが揃うまでの間、松田と他愛ない会話をしていた時、背後から声がした。

「あれ、松田?」
「…おお。って、お前も選手かよ。そんな折れそうな脚で走れんのか、イテッ」
「陣平ちゃん!女の子に失礼だろ」
「ダチを殴るのだって失礼だろうが!」
「ごめんね〜、苗字さん。こいつ本当にデリカシーとかなくってさ」

ジャージから伸びる脚は、確かに松田の言う通り細い。だけど、皮と骨だけってわけでもない。程よく筋肉がついて、たぶん細く見えるのはただ単に女の子だからだろう。当の本人は、松田の言葉に気分を害した様子は全くない。

「別に気にしてない。心で酷いこと思ってる人よりずっと良い。私は松田のそういう所、好きだけど」

少し口角を上げて、彼女が言う。隣の松田も言葉を失っている。本当、厄介だな。他意がないから余計に。そしてふと、彼女が手に持っている鉢巻が目に入る。

「苗字さんも黄色なの?じゃーん、俺も同じ」
「そうなんだ、よろしく」

たった一言の返事だったけど、僅かにその唇が弧を描いたのが分かった。嫌がられているわけではないんだよな。だから余計に複雑。それからチーム毎に集まって、走る順番を決めることになった。結論から言えば、俺は最終走者。そして運が良いのか悪いのか、ひとつ前は彼女だ。つまり、俺は彼女からバトンを受け取ることになる。

「本当に速いね」

試走の後、彼女が言う。声をかけられるとは思っていなくて、反応が遅れた。この流れだと"足が"速いという意味だろう。だけど、"本当に"の意味が分からない。復唱するように「本当にって?」と尋ね返せば、無表情だったが答えてくれた。

「クラスの子が、萩原はイケメンだから足が速いに違いないって言ってたから。疑ってたわけじゃないけど、容姿と運動神経に因果関係なんてないはずだし…恵まれてるんだ」

恵まれている、か。普段なら「ありがと〜」と笑顔で返しただろう。格好いい、優しい、そういう類の言葉は慣れっこだ。もちろん嬉しい。だけど大抵は薄っぺらいものばかりで、たった一度話しただけの相手からの言葉だったりするもんだ。一言だけで片付けられる人間なんていない。それに、なんでかな−−−彼女には、見てくれだけの男だと思われたくないって、そう感じてしまう。

「苗字さんも、俺の事そんな風に思ってくれてるの?」
「・・・まあ。実際この目で見てたし。さっきだって手抜いてたくせに一番乗りだったでしょ」
「あれ、バレてた?」
「なんとなく。多分、他は気付いてないと思う。私は、普段自分でもやってるから気付けただけ」

ああ、成程。彼女の場合、手を抜いているのは人間関係だろう。本来なら人生で一番手を抜いちゃ駄目な所だと思うんだけどね。走ったせいで少し乱れた前髪の隙間。そこから覗く額には薄っすら汗が滲んでいる。そのくせ涼しい顔だ。きっともう、会話はこれで終わりだろう。まあ、俺が何も言わなきゃの話だけど。

「ところでさ、容姿の方は?」
「容姿って…ああ、さっきの話。うん、綺麗な顔してると思う。肌とか、あとは目かな。なんだろ、あったかいんだよね・・・だから、

フイと目を逸らしながら呟かれた最後の言葉。きっと聞き間違いだ−−−だから苦手、そう聞こえた。やっぱり普通と違うなぁ。誰だって、自分を嫌っているより好意を持ってくれている方がいいだろう。冷たくされるより優しくしてくれる方が嬉しい。だけど、どうやら彼女は違うようだ。そういう相手ほど遠ざけたい質らしい。苦手だと言われて、悲しむよりも苦笑いが浮かんでくるのだから、俺も大概だ。

**

そして運動会当日。天気は晴れ。絶好の運動会日和だ。あれから何度かリレーの練習で顔を合わせたけれど、少しも距離が縮まった気はしなかった。まあ、当然だ。俺が話しかけなければ、多分会話はない。プライベートな事をズケズケ訊けるような相手でもないし、まあつまり、他愛のない話しかしていないわけだ。

「おい、ハギ。忘れてないだろうな、負けたらハンバーガーだぞ」
「分かってるって。ま、勝つのは俺だけど」
「んだと?スカした面してられんのも今のうちだ」

午後になって、いよいよリレーの順番がやって来た。強い日差しの下で、松田が笑う。熱いねぇ。でも、そういう所、尊敬してる。真っ直ぐで曇りがなくて、俺には真似できない。そこに凛とした声で鋭い突っ込みが入った。

「でも松田って第一走者だよね?それって勝負になるの?萩原はアンカーなのに」
「うるせ。男の勝負に口出すな」

不愉快そうに眉間に皺を寄せて松田が言った。粗暴な口調なのにその瞳がどこか優しげで、少し戸惑う。他の子にこんな目はしない。だけど生憎、俺は彼女の恋人でもなんでもない。つまり松田を責める権利なんてないわけで、開きかけた唇を再び閉じた。それぞれトラック半周を走るから、俺と彼女のスタート地点は別だ。パンッと鳴った音を合図に、第一走者が走り出した。松田がすぐにトップに躍り出ると、全力で駆けて行く。楽しそうな顔しちゃって、なんだか早くも負けた気がするんだけど。第四走者にバトンが渡った時には、松田のチームが一位、少し遅れて俺達のチームが二位につけていた。反対側で彼女が走り出す。右手でバトンを受け取って、駆ける姿に思わず見惚れた。芯の通ったような、ブレないフォーム。カーブを曲がった所で再び加速し、前を走っていた上級生に並んだ。俺の隣で待機していた3年生が「マジかよ」と呟くのが聞こえる。心で同意しながらも、口端が持ち上がるのが分かった。

「自分だって手抜いてんじゃん・・・はは、ハンバーガー関係なしに負けられねぇな」

ストレートに入ったところで目が合う。小さく頷いてくれた気がしたけれど、きっと見間違いだ。それから助走を開始しようとしたが、出来なかった。視線の先で、彼女がふらついて倒れ込む。砂埃が舞った。追い越す時にぶつかったらしい。反動で取り落としたバトンが地面に転がる。

「苗字!!」

咄嗟に叫んでいた。弾かれるようにこっちを見る瞳が不安そうで、無意識に拳を握る。あと少しだ、頑張れ。本当は今すぐ駆け寄りたいけど、そんなの望んでないだろ。俺の思考を汲んだように起き上がるのを見届けて、走り出す。2秒後、バトンを手渡されると同時に聞こえた「ごめん」に振り向きたくなる。そんな衝動を堪えて、足に力を込めた。

「あとは任せて」

駆け出した瞬間、松田と目が合う。なに、その顔。見たことない面に思わず笑いそうになった。別のチームのくせに応援しそうになってる。優しい奴。それとも苗字の為だろうか。なら前言撤回、負けねぇよ。風を切る音。女の子達の応援。こんなに本気で走ったのは初めてかもしれない。不真面目ではないが、真面目でもない。手を抜ける時は適度にサボる。だから今まで、こんな風に思ったことはない−−−絶対勝つ。ゴールまで数メートルの所で一位の選手と並んだ。全力で走り抜けて、ゴールテープを切った。上がる歓声と、駆け寄ってくるチームメイトの姿。

「凄げぇよ、萩原!逆転だぜ!」
「ほんと、かっこよかった!」
「はは、ありがと。皆のお陰だよ」

揉みくちゃにされそうになりながら、視線をめぐらせる。一番喜んでほしかった彼女の姿はない。近付いたと思ったら離れていくんだな。野良猫みたいだ。ふと視線を感じて顔を上げた。その先には不機嫌そうな顔の幼馴染が立っている。ああ、そう言えば賭けをしていたんだっけ。すっかり忘れてた。

「陣平ちゃん、顔怖ーい」

茶化しながら近寄ろうとした俺に、癖毛の下にある眉間の皺が深くなる。てっきり拳が飛んでくると思って咄嗟に身構えたけど、松田は何かを示すように顎をしゃくった。

「校舎裏」

たった一言。でも、伝わった。自然と足がそちらに向く。誰もいない校舎裏、水道の側にその背中を見つける。静かに近付いて肩に触れた瞬間、驚いたように身を引くから、慌てて二の腕を掴んだ。なにこれ柔らかい、と変態みたいな感想がよぎる。いや、女の子に触ってんだから、男子高校生ならそれくらい考えるのが普通だ。秒で自分を肯定して、思考を現実に戻す。

「あっぶな…って、驚かせたのは俺か。ごめん」
「いや、むしろ支えてくれてありがとう」

目が合ったら、強張っていたその身体から力が抜けるのを感じて、ちょっと嬉しくなる。だけど、そんな俺の心を嘲笑うように自然に距離を取られた。それがもどかしいのに、踏み込む度胸は俺にはない。気取られないように目を逸らし、水道の蛇口を捻る。

「怪我、大丈夫?」
「ちょっと血が出ただけだから・・・さっきはごめん、足引っ張って」

チラと視線を向ければ、膝には血が滲んでいる。女の子なのに、少しも焦る素振りがない。傷が残ったら大変だとか、そんなこと考えてすらいないんだろう。怪我そっちのけで謝罪してくるから、責めることもできない。手を引いて傷口を洗うように促せば、彼女は大人しく従ってくれる。しゃがんで膝に付着した砂を流す様子を見ながら、笑った。

「冗談。スゲーかっこよかったよ。お陰でやる気出たし。それに、勝ったでしょ?」

転んで正解だっただなんて言わないけど、そうなっていなかったら、俺は本気で走らなかった。あのままだったら一位でバトンを渡されていただろうし、二位にならない程度に力を抜いていたに違いない。同じ一位でも、今の結果の方が俺には意味がある。

「・・・萩原って、変わってるよね」

こっちを見上げて、一度瞬きをしてから彼女が呟く。猫みたいに目を細めて微笑む横顔に、思わず伸ばしそうになった手を慌てて引っ込める。手の甲で口元を覆って、なんとか思考を正常に戻す。てか、ちょっと待って。変わってるって、盛大なブーメランだろ。

「じゃあ私、保健室で消毒してもらって来るから、またね・・・どうかした?」

当然ながらお供はさせてくれないらしい。容易く去って行こうとする彼女の手を、無意識に掴んでいた。やべ、と思っても時すでに遅し。

「あー、えっとさ…その、俺も苗字って呼んでもいい…ですか?」
「ふっ、なんでそんなに及び腰なの。私だって萩原って呼んでるんだし、どうぞ」

しどろもどろに尋ねれば、彼女はさぞ楽しそうに笑った。初めて見る顔に、また心臓が騒ぎ出す。まるで「これは恋だ」と知らせるように。その声に、心の中で耳を塞ぐ。耳を傾けたら最後、真っ逆さまに落ちていく。その先はきっと奈落だ。なのに、どうして俺は、身を投げたいと思うんだろう。

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