解けぬように結ぶ

「好きです」

春風が吹き込む、空き教室。窓の向こうでは桜の花が舞い、外からはガヤガヤとした放課後特有の雰囲気が漂ってくる。予想通りの展開に、浅く息を吐いた。潤んだ瞳を見返して、先を促す。

「苗字先輩と付き合ってることは知っています。だからって諦められません。正直あの人より容姿もオシャレも自信があるし、気配りもできます。私の方がずっと萩原先輩に見合ってるじゃないですか」

さて、どこからツッコむべきか。目の前には、1年生の女の子。顔は知っている。2年生になったばかりの頃に誰かが噂していた、新入生にすごく可愛い子がいるって。小柄で、目が大きい。自分の魅せ方をよく分かっている。だけど、俺の心は微動だにしない。好きという言葉も、自分の名前も、苗字の声で紡がれなきゃ意味がないんだ。

「ありがとう。でも、君の気持ちは受け取れない」
「なんで……私の何が足りないって言うんですか。こんなの、納得できません」
「どうしても理由が欲しいの?」

そう尋ねると、その子はこくりと頷いた。随分と粘るな。それほど思ってくれているのは、男として素直に光栄だ。だからこそ、ここは誠意を持って断るべきだろう。中途半端が一番いけない。誰も傷付けずに、なんて無理な話。だって俺は、苗字以外を選べないんだから。

「理由なんて一つだけだよ────君は、苗字じゃないから」

残酷な返しだと、自分でも思う。だけどこれが、最も明快で確かな答えだ。どんなに羨んでも、他人にはなれない。その相手が自分より劣っていようが恵まれていようが、それは同じ。どうやらこの子は自分が苗字よりも全ての面で上だと思っているらしいが、その正否すらも取るに足らないことだ。俺にはそんな事、関係ないから。

「君がどうこうじゃないんだ。極端に言えば、天使みたいに優しい世界三大美女並みの美人に告られても、俺の答えは今と変わらないよ」
「世界三大美女?」
「あれ、知らない?クレオパトラ、楊貴妃、小野小町。昔はさ、そんなに美人なら拝んでみたいって思ってたけど、今は全然。たぶん見たところで何も感じないし……俺の心はね、端から端まで余すことなく苗字名前に支配されてんの。だから、他の誰かが入る隙間はないんだよね」

敢えて、ごめんねとは言わなかった。だってそれじゃまるで、苗字を好きになったことが悪いみたいじゃん。狂おしいくらいに愛しいこの想いが、何よりも大切だ。これから先、辛くなる瞬間があるとしても、俺は絶対に後悔しない。

「っ、わかりました」

そう呟いた唇は歪み、瞳には影が宿った。それを見過ごすほど鈍くはない。教室を出て行こうとする細い肩を掴んで、力を込める。振り向いたその子は、怯えたように身体を縮こませた。まだ何も言っていないのに、胸の内は伝わったらしい。

「何しても怒らないと思った?俺はね、苗字の為なら優しさなんていつだって捨てられる……わかってると思うけど、彼女に危害を加えたりしたら、俺は君を許さないよ」

鼓膜に擦り付けるように告げる。優しさを放り捨てたうえ脅しとか、らしくねぇな。そう思いつつも、罪悪感の欠片もない自分に苦笑した。努めて静かに扉を閉め、廊下を足速に歩き出す。苗字を待たせたままだ。一刻も早く会いたくて、階段を下り自分のクラスへと駆け込んだ。ところがそこに、彼女の姿はない。鞄は置いたままだから、トイレかもしれない。入口近くにいたクラスメイトに早口で尋ねる。

「なぁ、苗字どこ行ったか知らね?」
「……あ〜、たぶんお前と同じ」
「は?」
「だから、告白。さっき1年の男子に連れてっ、

気付けば教室を飛び出していた。放課後は大抵、どのクラスも誰かしら居残りしている。音楽室や美術室は部活で使っているし、校庭や廊下は流石にないだろう。そんな場所で告るのは、余程の目立ちたがりか、OK貰える自信がある奴くらいだ。同じ階にある空き教室のドアを、片っ端から開けていく。廊下の隅まで来たら、今度は階段を下りて2階へ。次のドアに向かおうとした時、窓の外に見えた人影に足を止めた。脳で認識する前に、階段をさらに下る。中間くらいからジャンプして着地。少し足の裏がジンと痛んだが、構わず走った。校舎裏へと続く通路まで来て、我に返る。ちょっと待てよ。俺、出て行ってどうするつもりなんだ。

「俺は萩原先輩みたいにイケメンじゃないですし、あんな風に誰からも好かれる男でもないです。優れてる所なんて一個もないですけど…でも、好きなんです、苗字先輩のことが。俺には、少しのチャンスもないですか?」

そう自問している間に、声が聞こえてくる。思ったよりも近い距離に、慌てて息を顰めしゃがみ込み、校舎の壁に張り付いた。盗み聞きしてる自覚はあるが、後ろめたさより興味が勝る。彼女の答えに対する期待と不安で、心臓が五月蝿い。

「……一つ確認させて。告白する相手は、私で間違ってないよね?」
「え?」

思いも寄らぬ返しに、俺も後輩Aと声を揃えそうになった。危ない危ない。てか、何を聞いてんの。あんなにちゃんと告ってて、人違いは流石にないだろ。相変わらず予想だにしない事を言うなぁ。

「だって、さっきから萩原の話ばっかりだから」
「っ、それは……」
「でも、貴方の気持ちはちゃんと伝わった。私は話すのが上手じゃないけど、体裁を気にする場面ではないと思うし、なんとか言葉にしてみる」

その声は微かに震えている気がした。そうだ。告白ってのは、する方も断る方もかなりの気力がいる。彼女は、目の前の男が絞り出した勇気に敬意を払い、応えようとしている。上手くできなくても、誠実さには誠実さで返す。こういう所、ほんと好き。口を塞いでいた手をどけて空を仰いだら、なんだか泣きたくなった。

「好きだと言ってくれたことは嬉しい。だけど、良い返事はできない。貴方の質問に答えるなら、チャンスはゼロだし、今後も機会は巡ってこない」
「断言しちゃうんですね」

揺らぎのない答えに、拳を握った。期待の欠片も残さない振り方だ。だけど、その残酷さの裏にはちゃんと優しさがある。ぶつけられた気持ちが生半可なものじゃないと理解しているからこそ、一思いに殺そうとしているのか。苗字らしいな。

「うん。自信があるから。萩原の話ばっかりだなんて、意地悪な言い方したけど、少しわかる気もした。私を形造ってる存在の中でも、萩原は一番大きい……私という人間は、萩原無しじゃ語れない」
「っ、俺は苗字先輩の良い所、たくさん知ってます。萩原先輩は関係ない。全部、貴女が本来持っている魅力ですよ」

不本意だが、激しく同意。マジで今度、苗字名前の美点を語り聞かせてやろう。恥ずかしがっていても構わずに、抱きしめながら夜が明けるまで。

「ありがとう。自分では分からないから、嬉しい。だけど、一つだけ確かな事がある。萩原がいるから、私は私なの。それが、答え────萩原がいなきゃ、私は今みたいに笑えない。たぶんそれはもう、貴方が好きになった私じゃない」

その瞬間、断末魔が聞こえた。恋が死んだ音だ。凛とした響きの中には、ほんの少し切なさが滲んでいる。あまりに非情だという自覚はあるんだろう。だけど、哀れみなんて余計に相手を傷付けることになる。そう分かっているから、毅然とした態度を崩さない。

「はは…ひどい皮肉だなぁ。関係ないとか言ったのに、俺はきっと、萩原先輩を想う貴女に惹かれたんですね────きっぱり振ってくれて、ありがとうございました」

そう聞こえてすぐに足音が遠ざかっていく。ただ聞いていただけなのに、神経を擦り減らした所為か、物凄く疲れた。肩の力を抜こうとした時、こっちに誰かが近づいてくる。言わずもがな、彼女だ。思わず息を止め、忍者の如く背中を壁にくっ付けた。角を曲がって来た影が、俺の目の前で立ち止まる。白い壁に黒い学ランだ。バレないわけがなかった。

「萩原……松田と忍者ごっこでもしてるの?」
「だとすりゃ俺は下忍以下だな」
「ふふ、確かに。もしかして、聞いてた?」
「あ〜、うん。ごめん。未然に止めるつもりで来たんだけど…ってのは言い訳。本当は、君の答えが聞きたくて隠れてた。盗み聞きなんて最悪だよな」
「彼にとっては最悪かもしれないね。でも、私は別に。全部本心だし、聞かれて困る事は何一つ言ってないから」

普通、本心だから嫌なんだと思うけど。眉を寄せてそう伝えてみても、微笑み返してくるだけ。なんか悔しくて目を逸らしたら、傍に座り込む気配。吃驚して視線を戻した時、彼女が俺の髪に触れた。だけど一瞬で離れていく。

「てっぺんに付いてた」

小さな桜の花弁を摘んで、どこか自慢げに歯を見せて笑う。くっそ可愛いなぁ。ひょっとしたら桜の妖精なんじゃないか。

「川沿いの桜、そろそろ満開なんだって。ライカが教えてくれた。散っちゃう前に見に行かない?」
「仰せのままに。あ、苗字……立つ前に、も少しこっち寄って」

キョトンとしながらも距離を縮めてくれる。肩に触れて、軽く引き寄せキスをした。硬直する姿に、また愛しさが積もる。照れることすら忘れているみたいだ。クスッと笑って、手を取った。
 
**

それから数日後。終業式を間近に控えた土曜日の夜、苗字とふたりで川沿いを散歩した。俺達の他にも、ぽつぽつと夜桜を楽しんでいる人がいる。少し遠くには、レジャーシートを敷いて本格的に花見をしている集団も見えた。月明かりに照らされて、昼間に見るよりも幻想的だ。
 
「すっげえ、マジで満開じゃん」
「うん、本当に。でも、この分だと入学式には散っちゃうかも」

見上げれば、夜空と桜が視界一杯に広がっている。開き切った蕾は、あと数日もすれば散ってしまうだろう。少し残念そうな彼女の声に耳を傾けながら、落ちてくる花弁を視線で追った。散り際を見ていると、妙に切なくなる。

「萩原」

名前を呼ばれて振り返ると、彼女は少し離れた場所で佇んでいた。俺も自然と足を止め、向かい合う。見つめ合った瞳には以前のような儚さは影もなく、只々綺麗だ。その美しさに見惚れる俺の心へと、凄まじい衝撃が襲いかかる。

「私、貴方が好き」

時間が止まった心地がした。風が吹いて舞い落ちる花弁のお陰で、それが錯覚だと理解する。期待していなかったわけじゃない。嘘、本当は待ち侘びていた。彼女の秘密を知ってから、ずっと。そして、何度も想像した。どんな言葉で、どんな表情で伝えてくれるのかを。だけど所詮は妄想でしかなかったと、そう実感している。だってこの瞬間、胸を支配する喜びは、その全てを優に超える大きさと熱量だ。

「やっと、届けられた」

そう言って微笑んだ姿が、いつかの記憶と重なる。肉体から離れた狭間の世界で、幸せだと笑った君。もう一度見たいと願い続けた笑顔が今、目の前にある。何か言わなきゃと思うのに、上手く音になってくれない。心臓の辺りが締め付けられる感覚がする。息苦しいとまではいかないくらいの、だけど確実に感じる、そんな柔くて心地の良い痛み。

「もう、苦しくないよ」

再会した時、彼女は言っていた────伝えようとすると、胸が苦しいと。消えてなくなったわけじゃない。それはきっと一生消えないし、これからもずっと苗字の一部だ。

「なぁ、抱きしめたいんだけど」
「……どうぞ」

自分の声があまりに情けなくて笑えた。泣きそうだ。それを察してか、彼女は今までで一番優しく微笑んで、両手を広げて見せる。迷わずその聖域に飛び込んで、目を閉じた。思い切り息を吸い込んで、懇願。

「もっかい聞かせて」

少し身体を離して、額同士を合わせる。瞳を覗き込みながら強請ると、彼女は仕方なさそうに笑いながら、俺の頬を両手で包み込む。このままキスしちゃいたいけど、そしたら聞けないしなぁ。ああ、悩ましい。なんとか欲望を抑え込み、腰に手を回し引き寄せて、耳を傾ける。
  
「我が儘だね。でも、今日は特別。何回だっていいよ────好き。私は、萩原が好き。大好き」

繰り返される度に、胸が高鳴る。俺の心臓が、彼女の言葉で動いている気すらした。もしそうなら、ずっと紡いでいてくれなきゃ困る。じゃないと、血が通わないから。

「甘えるのは下手なのに、甘やかすのは上手いのな……今から返事するからさ、ちゃんと聞いてて。目逸らすのもダメね」
「ふふ、わかった」

ああ、夜にして正解だったな。こんな表情、俺以外の誰かに見せたくない。募るばかりの愛しさに、ちょっとだけ心配になる。どんどん好きになっていく。終わりが見えない。どうやらこの想いは、飽和することを知らないみたいだ。本当に、こんなに幸せでいいのか。いつか痛い目見やしないかと、そんな事を思いながら愛を告げる。
 
「俺も、君のことが好きだよ。世界で一番、愛してる。これから一生、傍にいてほしい」
「うん……うん、何処にも行かない。何があっても、萩原がいるなら私は大丈夫。だから、お願い。ずっと手を繋いでいてね」
「当たり前じゃん。てか、頼まれても離してやらねぇから、覚悟しといて」

鼻先が触れるほどの距離で笑い合い、軽口で重い言葉を吐いた。花見客が騒ぐ声すら囁きに聞こえるほどに、全神経を彼女に注ぐ。やっと、この関係に名前を付けられる。そう思うと、胸の奥がジンと熱を持った。軽い咳払いの後、不自然に視線を逸らし、また目を合わせる。挙動不審な俺に、首を傾げながら見上げてきた。

「どうしたの?」
「あの、さ…今日から俺、君の彼氏だって宣言しちゃっていいんだよな?」
「彼氏……そっか。あんまり考えてなかった」

少し難しい顔でそんなことを言うから、ズッコケそうになる。恋人同士になったところで何かが変わるわけじゃないと、たぶん彼女はそう思ってる。しかし俺の可愛い男心は違う。苗字名前は俺の彼女なんだって、世界中の奴らに叫んで回りたい。

「ちなみに、恋人同士になると何か変わるの?」
「んー、そうだなぁ。まず、スキンシップが増えるだろ。『カップルですか?』って訊かれたら『そうです』って言えるし、お揃いの物買ったり……あと、世界に君を自慢できる」

そら来た。予想通りの質問に、悩む素振りをして回答する。スキンシップのくだりで彼女が「今より?」とギョッとしたけどスルーした。気にせずにつらつらと並べていく。最後は自分でも最高だと思う笑顔で締めた。どうだ、参ったか。きっと照れ顔で小さく頷いてくれるだろう。と、勝ち誇った気でいたら甘かった。

「なりたい」
「へ?」
「萩原の彼女になりたい」

どこか目を輝かせて詰め寄られ、グッと喉から呻き声が漏れる。あんまり純粋に求めてくるから敵わない。眩しくて、可愛くて、力いっぱい抱きしめた。

「すき」

たどたどしい口調で彼女が呟く。堪らない。左手で白いワンピース越しに細い腕を掴み、右手で頬から肩にかけて撫でる。彼女を形造るもの全てが愛おしい。伏せられた睫毛、柔らかい髪、透き通る肌。このままだと理性が崩れそうで、態とらしく話題を逸らす。

「そういやさ、今日のリップ新色だな」
「っ、そう……ちゃんと言葉にできるように、おまじない、みたいな」
「へぇ…じゃあ、キスしてもいいよね」
「じゃあの意味が全然わからない」

そんなの当然。ただの口実だし。いや、口実にすらなってないけど。未だに許可を得なきゃ安心できない俺の心を汲み取ってほしい。こんな情けない部分、知られたくなかったはずなのになぁ。だけど、仕方ない。

「何色だってするくせに。したいから、するんだよ────萩原も、私も」
 
だって君がそうやって、俺を甘やかすから。デカい図体してるのに、子犬になりたくなるんだよ。爪先立ちで目を閉じる姿を見て、迎えに行かずにいられるわけがない。息が触れ合い、混ざる。今まで何回キスしたかなんて数えてないけど、今日のが一番。そして、これからキスする度にそれは更新される。いつだって俺は、"今"が一番君が好き。

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