刹那を積み重ね

「すっかり夏だなぁ」
「7月だからね。でもちょっと暑すぎるかも」
「マジで犯罪級の暑さ……ところでさ、明日の夜って空いてる?もしかしてバイト?」

いつも通りの帰り道。一向に休む気配のない太陽に文句を言いたくなる。夏がやって来た。そろそろ本腰を入れて受験勉強をしなきゃならない。その前にエナジーチャージするつもりで軽く尋ねると、彼女はキョトンとした後で首を横に振った。心でガッツポーズを決める。

「なら散歩でもしに行かね?雨も降らなそうだし。あ……もしかして、あんま夜遅いと無理っぽい?」
「いや、たぶん大丈夫だとは思う……実は少し前、叔父さんに萩原のこと訊かれて、大切な人だって答えたせいで妙に敏感になってるみたい。知ってると思うけど、ちょっと過保護な人だから」
「へぇ、大切な人ね」
「拾ってほしいのはそこじゃない」

態と強調すると、不満そうな返事をされる。ニヤけるなって方が無理。だって、家族に俺のことを大切な人って紹介してるんだぜ。そりゃ嬉しいに決まってる。

「とりあえず、話してみるね。今日の夜にまた連絡する」
「了解。無理そうなら言って」

そしてその夜。約束通りに彼女から連絡が入った。吹き出しの中には『OK出ました』とある。映画の撮影みたいだなと思っていると、前足で○印を作っているネコのスタンプが送られてきた。可愛いがすぎる。あまりに微笑ましくて、ひとりで吹き出す。無事に許しを貰ったデートの夜は、8時に家まで迎えに行った。自転車を押しながら角を曲がり、あと数十メートルって所で立ち止まる。視線の先に、苗字と治孝さんの姿が見えた。遠目からでもわかる、ふたりとも笑っている。松田の言っていた通り、普通の親子にしか見えない。

「あ、萩原」

こっちに気づいた彼女が手を振れば、治孝さんも釣られるように俺の方に身体を向けた。背筋が自然と伸びる。こんな有様じゃ、結婚の報告をする時はどんだけ緊張することやら。って、それは流石に気が早いだろ。

「あ、えっと、初めまして。萩原研二です」
「こちらこそ初めまして。名前の叔父の治孝だ」
「……えっと、叔父さん?」
「ああ、すまない。ジロジロ見てしまって。気をつけて、行ってきなさい」

それだけ言い残して、中へと入って行ってしまう。正直、拍子抜けした。もっとこう、色々と訊かれるかと身構えていたのに。隣の彼女も同じなのか、ふたりで顔を見合わせる。

「なんか逆に怖くね?」
「そうだね。昔からあまり表情を変えない人だし。時々、母と血が繋がってることを忘れそうになるくらい」
「そういや言ってたな。底抜けに明るい人だったって」

笑いかけながら尋ねると、嬉しそうに頷いた。本人は自分と正反対だとか言ってたけど、俺はちゃんとその遺伝子が受け継がれてると思う。

「ところで、どの辺を歩くの?」
「川沿い。んで、一緒にこれやろうぜ」

そう言いながら、自転車のカゴを指差す。ビニール袋に入っている物の正体に気がついて、彼女は目を丸くした。

「それ、花火?」
「そ。家の押し入れで眠っててさ。高校生にもなると家族で花火とかやらねぇし。たぶん火は点くと思うんだけど」
「やりたい」

子どもみたいに顔を綻ばせるから、自転車を持ってることを忘れて抱きしめそうになる。危ない危ない。川原に下りると、虫の鳴き声が微かに聞こえてくる。持って来た折りたたみ式の小さいバケツを広げて、水を汲む。

「花火って夏のイメージがあるよな。冬にやっちゃいけねぇ気がする」
「……元々、慰霊の意味があるから。それでお盆の時期、つまりは夏の風物詩になったみたい」

袋から出した花火を見つめながら、少し寂しそうに彼女は言った。学校で習うことじゃないから、自分で調べたんだろう。たぶん、花火から慰霊じゃない。慰霊から花火に行き着いたに違いない。その姿を想像したら堪らなくなって、衝動的に抱き寄せた。

「っ、萩原?どうしたの?」
「別に何も。ただ抱きしめたくなっただけ」

驚いて抜け出そうとする身体をさらに強く抱きしめる。額にキスをして、頭を少し乱暴に撫でてから解放してあげた。何だったのかと呆然とする彼女に、誤魔化すように笑い、花火を手に取る。

「苗字に言ってなかったけど、俺さぁ、ベビースモーカーだったんだよね」
「……全然知らなかった。だって、私の前で煙草吸ったことないよね?」

ライターの火を点けたら思い出して、何故か罪悪感めいた気持ちを抱えながら告白した。すぐに今世の話じゃないと理解したのか、彼女は首を傾げる。

「当たり前じゃん。苗字が隣にいないのが寂しくて吸い始めたんだから」
「そう、なんだ…なら、もう吸わなくてもいいね。だって私は、ずっと貴方の隣にいるから」
「……はぁ〜。またそうやってサラッとぶちかましてくる。なんなの、マジで」
「ふふ、日頃のお返しかな」

困らせたくてちょっと意地悪な言い方をしたのに、倍になって返ってきた。勝手に口元が緩んでくるから、咄嗟に手で隠す。視線で抗議すると、彼女は悪戯っ子みたいにクスクス笑った。

「そんじゃ、口寂しくなったらキスしてくれる?」
「寂しい時だけでいいの?」
「……いや、ダメです」

完敗。速攻で首を横に振る。そしたらまた可笑しそうに喉を鳴らすから、俺も釣られて声を漏らした。彼女の手から、握られたままだった花火を取り上げて、今度こそライターを近づける。暗闇に、音を立てて光が弾けた。手渡すと、彼女は少し躊躇しながら受け取る。腕を触れ合わせるようにして火を貰えば、もう一本も火花を噴き出した。

「綺麗だね」
「そうだな」

相槌を打ちながら、そっと横顔を盗み見る。花火を見つめる瞳は、その光を映し輝いていた。唇は緩い弧を描いている。両親のことを忘れたいだなんて露程も思っていないだろうけど、ほんの少しでいいから共有したい。悲しい最期だったからこそ、綺麗な記憶を大切にしてほしい。

「小腹空いたな」
「何か買いに行こうか?すぐそこにコンビニあるし。私もアイス食べたい……なに?」
「いんや、意外だなって。不規則な生活しなそうだから、夜食には否定的なのかと思ってた」
「普段はそうかも。でも萩原といると、ちょっと悪い事したくなるんだよね。だから、今日はいいの」

夜9時にアイス食うのが悪い事って、定義が厳しすぎないか。らしいけど。俺や松田の警察学校での経験を聞いたら、どんな顔すんのかな。苦笑しながら、丁寧にゴミの後始末をしている彼女に続いた。

「苗字のそれってシャーベット系?」
「違う。なんて言うのかな、ねっとり系?」
「はは、分かったわ。ナイス表現力」

公園のベンチに並んで座って、アイスを食べながら笑い合う。彼女が買ったのは、マスカット味のアイスだ。ちなみに俺のは一番安いソーダ味。ほぼ氷って感じだけど、何故か好き。チラッと隣を見て、目を逸らす。小さな口で食べ進める姿に、妙な気分になる。時々顔を出す舌先を冷静に見ていられない。男というのはどうしてこうも愚かな生き物なのか。アイスを食ってるのに、逆に暑くなってきた。

「…──ら、萩原!アイス溶けてる、落ちそう!」
「へ、げっ……最悪」
「ふはは、蟻の餌になっちゃったね」
「くっそ〜、結構残ってたのに」

ビチャッと音を立てて、アイスが地面に落ちた。砂が水気を帯び、滲んでいく。これじゃ3秒ルールってわけにはいかない。俺が悔しがる隣で、彼女は楽しそうに肩を揺らしている。その横顔だけで、アイスなんかどうでもよくなった。

「ねぇ、ブランコ乗ってもいい?」
「いーけど、あんま勢いつけんなよ」
「うん」

目を輝かせて尋ねてくるから、父親みたいな台詞が出てくる。子ども扱いされたことにも気づかず駆けて行く背中を、ゆっくりと追いかけた。楽しめない子どもだったって、本当かよ。と、心でツッコんだ。幼い頃にもきっと、こういう顔を見せる瞬間があったんだろう。もしかしたら彼女の父親は、そんな表情が見たくて色々な所に連れて行っていたのかもしれない。囲みの鉄棒に腰掛けて、その姿を見守った。彼女が漕ぐ度にブランコがキコキコと音を立てる。それに合わせて揺れる髪は、柔らかくて甘い香りがするんだろう。顔を寄せなくてもわかる。

「萩原」
「ん?」
「空。星がすごく綺麗」

漕ぐのをやめて、空を指差し彼女が言う。それに倣い見上げれば、確かにそこには美しい夜空があった。散りばめられた星達の中で、月は恍惚と輝いている。

「月じゃなくて?」

誘導するつもりで尋ねてみる。揶揄い半分、本気半分。鋭い彼女は、声音に紛れた俺の意図に気がついたらしい。だけど困った様子は微塵もなくて、少しだけ落胆した。そんな男心を吹き飛ばすように、芯のある声が鼓膜を揺らす。

「月が出てなくたって、私は萩原が好きだよ」

1メートル先から飛んできた言葉は、瞬く間に俺の心を貫いた。人が遠回しで攻めようとしてるってのに、これだ。何度好きだと言われようと、慣れることはない。その度に、この心臓は大きく跳ねる。自分の言動がいかに俺を翻弄しているのか、思い知らせてやりたいなぁ。腰を上げ、彼女の前に立った。その目に映る星空を遮るように見下ろして、苦笑する。

「意地がワリぃのな。夏目漱石も吃驚だぜ」
「私には遠回しな表現ってすごく難しい」
「はは!逆だろ、普通。ストレートが難しいからこその変化球なんだって」

フイと視線を逸らして拗ねた顔を見せる。照れが遅れてやって来るのが可愛くて、肩を揺らし笑った。その捻くれた不器用さが、たまらなく愛おしい。

「これから頑張って、バリエーションを増やしていく……予定」
「へぇ、楽しみにしてる」
「でも萩原には使わないでほしい」
「使わないでって…ああ、そういう表現を?」

コクリと頷かれて、つい口角が上がる。さて、良い方に捉えるべきか。それとも彼女の望んだ通りに受け取ってやるべきか。たぶん今の発言の意図はこうだ。苗字は頭が良いし、鈍いわけでもない。しかし、人の心の変化には疎い。そう自覚もしているようだし、実際そうだ。だから、わかりづらい言い方をされるのは困ると。とまあ、こんなところだろう。だけど裏を返せばそれは、飾らず伝えてほしいと言っているようなもの。物凄く積極的な姿勢になっていることにすら、本人は気づいていない。返事をせずにいると、不審そうに見つめてくる。そんな表情も、俺を掻き立たせる要因でしかないのにな。

「俺は全然オッケーだけど、本当に平気?」

ブランコの持ち手を握り、距離を詰める。俺の想いのデカさを知らないから、そんな事が言えるんだ。質問の意味が分からないのか、首を傾げる仕草をかましてくる。クソ可愛い。ふっと笑い、無防備な唇を奪いに行く。瞬間、ピシッと身を硬くする。彫刻みたいだ。

「だって、言葉だけじゃ足りなくなるぜ」
「はぎわ、

首裏に手を回し上を向かせ、身を屈める。戸惑うように名前を呼びかけたその口を塞いで、齧り付くように堪能した。態と音を立てて食みながら、お望み通りその心目掛けて放つ。

「好きだ…狂っちまうくらい、君のことが」

息が、唇が、身体が、熱い。唇同士を触れ合わせ、胸に込み上げる感情をひたすら言葉にしていく。

「どうしようもなく好きなんだよ」

想いが絶え間なく溢れてくる。呑まれそうだ。このまま身を任せてしまいたい欲望に駆られる。髪の毛から爪先、俺が触れていない所がなくなるくらい隅々まで貪りたい。それから、もう充分だと言われるまで甘やかして、その全てを俺に捧げてくれたら────なんて理想はまだ、現実にすべきじゃない。求めればきっと、彼女は応えてくれるだろう。そして必ず、俺にこれ以上ない幸福を齎してくれる。だけど、駄目だ。心に決めている事がある。松田にも苗字にも明かしていない契り。あの11月7日を乗り越えるまで、俺は絶対に彼女を抱かない。それにどんな意味があるのか、正直俺にも分からない。ただ、そう決めたから。

「っ、ん……は」

苦しげに声を漏らし、縋るように腕を掴んでくる。ずっと上を向いているから、息継ぎが難しいのか。ああ、駄目だな。彼女を前にすると、優しさよりも欲を優先したくなる。名残惜しくて、最後に柔く下唇に歯を立ててやった。

「ご馳走様……おっと、力抜けちゃったか」

唇を離すと、そのまま後ろに倒れそうになるから、慌てて支える。態と揶揄ってみたのに、彼女は目を伏せて肩を上下させている。責める余裕もないほど必死に呼吸をする姿に、少しだけ反省した。そう、ほんの少しだけ。

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