ヒロインは君だけ

夏休みの8割は課外とバイトで終わった。非常に遺憾である。だけど、苗字との通話アプリでのやり取りは途切れることはなく、気分転換という名目でデートにも行ったし、松田と3人で勉強もした。

「よっしゃ、これでやっと毎日会える」
「夏休み明けで喜んでるのはオメェくらいだ」

始業式。呆れたようにそう言って、松田が隣で欠伸をした。確かに俺以外の生徒達は、どこか暗い表情だ。情けないな、青少年諸君。

「ふたりとも、おはよう」
「苗字!!と、如月」
「アンタね、ついで感があからさまなのよ」
「って、え、髪めっちゃ切ったな」
「無視とはいい度胸ね」

肩下まで伸びていた彼女の髪は、顎の辺りまで短くなっていた。「似合ってる」と告げながら前髪に触れる。照れたように視線を逸らすのがまた可愛い。

「ちょっと、松田。あの男、いっぺん殴っていいかしら?全てが癇に障るわ」
「おー、いいぜ。男前にしてやってくれ」

物騒な会話を背中で聞きながら、校庭を横切る。バイト先の新メニューのこと、明日行われる確認テストのこと。ふと隣を見れば、声を弾ませ話す彼女の肩に、薄茶色の毛が付いているのに気がついた。太陽光を吸い込んで、綺麗な色を放っている。

「苗字、肩。髪の毛かな?」
「え……本当だ。ありがとう。たぶん私のじゃなくて、コジローの毛だね」

立ち止まって指で摘んであげると、彼女は微笑んでそう言った。コジローの正体を尋ねるより先に、松田が手元を覗き込んでくる。

「なんだ。あの猫、結局お前んちで飼ってるのか」
「うん。里親募集してたんだけど、私も叔父さん達も手離したくなくなっちゃって……今は立派な家族だよ」
「だからってコジローはないだろ。おい、ハギ。ガキができたら、絶対こいつに名前付けさせんな。男だったらコサブローにしかねない」
「私の前で名前のセンスに文句つけるなんて、いい度胸してるじゃない」

いやいやいや、子どもって。よく普通に会話できるな、こいつら。軽く受け流せないのは、俺が当事者だからなのか。仲間を探すように苗字に視線を向けると、バチッと視線がぶつかった。その瞳を見れば、俺と同じように感じていると瞬時にわかる。笑いかけるのもなんか違う気がして、態とらしく髪を掻き上げながら目を逸らした。

**

体育祭が終わってすぐに文化祭の準備が始まった。と言っても、俺と彼女は違うクラスだし、出し物も別だ。でもせめて、休憩時間くらいは一緒に回りたい。

「苗字達のクラスは何やんの?」
「コスプレ喫茶」
「は、コスプレ!?」

俺の問いかけに短く答えたのは松田だ。なんか物騒な単語が出てきたんだけど。

「まあ、強ち間違いじゃないけど…一応、フェアリーテイル喫茶って名前でね。店員が童話の仮装をして、料理を提供するの。衣装も自分達で一から作るから忙しくなりそう」
「へぇ……って、苗字も何かの仮装すんの?」
「いや、私は料理担当だからしないよ。衣装作りは手伝うつもりだけど。でもそういう服って普段着ないから、ちょっと残念かな」

ホッと胸を撫で下ろす。何を着たって可愛いけど、その手の衣装は露出が激しい。そんな姿を他の誰かに見せるなんて、考えただけで頭がおかしくなりそうだ。だけど、着てみたい欲はあるのか。意外。いつかお願いしたら俺の為だけに着てくれるかな。

「萩原のクラスは?」
「メイド・執事カフェ。俺らのとこは料理よりドリンクメインだな」
「ホストカフェの間違いだろ」

鼻で笑いながら松田が言う。失礼だな。全国の執事の皆さんに謝れ。あんまりな言い様に文句を付けようとしたら、苗字がクスクス笑うから口を結ぶしかなくなった。そんなある日の放課後、ふたりのクラスの横を通り過ぎた時のことだ。目に飛び込んできた光景に足を止める。松田と苗字が座り込んで何か作業をしていた。それだけなら素通りした、かもしれない。問題は、距離感。いや、近すぎんだろ。ふたりとも手元を見ているせいで気づいていないが、顔を上げたら鼻先が触れ合いそうな距離だ。たぶん、どっちも無意識。それならいいかと思えたら楽だけど、とても無理だ。嫉妬心のままに大股で近づいて、座り込むと同時に苗字を引き寄せる。

「びっ、くりした……萩原?」
「ちょっと距離が近すぎやしねぇか、お二人さん」
「距離?まあ、実際やって見せなきゃ分からないから。細かい作業だしね」
「やって見せるって……え、なに、裁縫?」

肩を抱いたまま覗き込むと、机の上には裁縫セットが置かれている。その横には色鮮やかな生地もあった。

「そう、衣装作ってるの。女子だけじゃ終わりそうになくて。松田、すごく手先が器用だから。私よりも全然上手。編み物とかも得意そうだよね」
「知らね。やったことねぇし、ってぇな、なにすんだハギ!!」
「もっと真摯な姿勢で臨めって」
「はっ、男の嫉妬は醜いねぇ」

こいつ、マジでムカつく。苗字に教えてもらっているだけでも、これ以上ないくらい幸せなことだ。おまけに人の心中を見透かして、鼻で笑ってきやがる。ああ、俺も同じクラスだったら、手取り足取り教えてもらうのに。不器用を装って、手を握ってさ。きっと彼女のことだから、澄ました顔で素直に騙されてくれるんだろう。

「苗字は休憩何時から?」
「午後1時の予定だけど、お客さんの混み具合によるかな」
「俺も2時からフリーだし、一緒に回ろうぜ」
「うん。じゃあ私が萩原のクラスまで行くね」

文化祭前日の夜。寝る前に電話でそう約束した。同じ学校での行事も、これが最後。少し名残惜しいけど、これからそれ以上に輝かしい未来が待っている。そう確信しているから、未練はない。ただ楽しむだけだ。

My princess 私のお姫様

あと20分で休憩に入れる。その時、スマホにそう通知が届いた。差出人は如月だ。バックヤードでアプリを開いてみても、それ以上の文章はない。意味が分からず首を傾げている間に、今度は写真が送信されてくる。

「はっ!?なんっだよ、これ!!」
「うわ、どうした萩原」

それを見た瞬間、堪らず叫び声を上げていた。隣にいたクラスメイトが尋ねてくるが、答えている余裕はない。釘付けになったスマホの画面には、ドヤ顔の如月と苗字が写っている。注目すべきはその格好だ。如月は紺のスーツを着て、ブロンドを高く結えている。たぶん、王子。演劇部の衣装だろう。文化祭で特別公演をするって言ってたし。今回は男役だからと、ここ最近は徹底してパンツスタイルで過ごしていた。スタイルの良さも相まって、悔しいが様になっている。しかし、俺の目に焼き付いたのはその隣にいる苗字の姿。彼女は淡いピンク色のドレスを纏い、少し恥ずかしそうに写真に収まっていた。夏休み明けより少し伸びた髪は緩く巻かれ、頭にティアラを乗せている。いつもより少し濃いめに施されたメイクも、露わになったデコルテも、なにもかも即死しそうなほど可愛い。なんだこれ、幻か。立っていられなくて、机に手を突いて呼吸を整える。てか、ちょっと待て。My princessってなんだ。お前のじゃなくて俺のだし。

『今から松田に届けさせるから、ちゃんとエスコートしなさいよ、王子様』

言葉を失っていると、ピコンと新たな通知が入る。ありがとう、如月デリバリー。心でそう言いながら拝み、天を仰いだ。それから15分間は脳内を彼女の姿が絶えずリフレインしていた。気を緩めたらニヤけそうで、顔面に力を入れる。真顔で接客する俺に、クラスメイトも客も引いていたが、どうでもいい。そして上がりの時間、トレーを次の奴に押し付け、教室を出る。廊下に溢れる人の海の中、視線を巡らせ彼女を探した。

「おい、こっちだ阿呆」
「っ、陣平ちゃん……って、苗字は?」
「捕まってっから置いてきた」
「はぁ!?置いてきたって、おまっ、配達員としての矜持はねぇのかよ!!」
「あるか、そんなもん」

サラッとそんな事を宣うもんだから、思わず胸倉を掴み捲し立てる。両耳に人差し指を突っ込んで五月蝿いとアピールされるが、構っていられない。

「どこに置いてきたんだよ!てか、捕まってるって誰に!?まさか野郎じゃねぇだろうな!?」
「そこの踊り場。まあ、野郎もいたな」
「こんの……チッ、後で説教だからな!」

全く悪びれる様子がない。沸々と怒りが込み上げてくるが、とりあえず彼女だ。舌を打って、人混みの中を走り出した。燕尾服で廊下を駆ける不審な男に、誰もが道を開ける。混雑している階段の前で、すれ違った生徒の会話がふと耳を掠めた。

「なぁ、さっきの誰?めっちゃ可愛くね?」
「誰って苗字だろ、隣のクラスの」
「え、マジ?苗字ってあんなに可愛かったっけ?」

ほざけ。今さら気づくとか見る目なさすぎ。ずっと可愛いっての。そう指摘したくなるのを堪え、やっと人混みを抜ける。階段の下、目を引くピンク色を見つけて名前を呼んだ。

「苗字っ!!」

騒ついていた空間が、一瞬波を打ったように静かになる。その隙に階段を駆け下りて、その手を掴む。胸元に引き寄せ、額を合わせてやっと、安堵の息を吐き出した。息するの忘れてたわ。そして、彼女に言い寄っている野郎を睨みつける。いや、睨みつけようとした。

「って、あれ……虫は?」
「虫?よく分からないけど、迎えに来てくれてありがとう。この子達に引き止められて……ドレスが珍しかったみたい、ね?」

この子達。その視線を追えば、興味津々といった様子で、何人かの子どもが俺達を囲んでいる。通りで視界に入らなかったわけだ。てか、松田の野郎。紛らわしいんだよ。いや、確実に態とだな。

「うん!お姉ちゃん、すっごく綺麗。本物のお姫様みたいだもん!」
「ありがとう」

目を輝かせながら、少女が言う。それで一気に緊張の糸が切れて、ゆるゆると座り込む。深く息を吐き出すと、肩を揺すられる感覚がして顔を上げた。心配そうに俺を見る姿に、疲労感が吹き飛ぶ。

「萩原っ、どうしたの?具合悪い?」
「大丈夫。ちょっと目眩がしただけ」

適当に誤魔化して、立ち上がった。信じていないのか、探るように見つめてくる。何もなくて本当によかった。こんなに綺麗な君を、誰かに触られたらと思うと、気が狂いそうだ。そして、すっかり言い忘れていた感想を述べようとしたところで、彼女のドレスの裾を小さな手が引いた。その先には小学生くらいの少年がいる。

「どうしたの?」
「お姉ちゃん、僕のお嫁さんになって」
「え……」
「は?」

突然のプロポーズに、子ども相手だということを忘れてドスの効いた声が出た。なに言ってんだ、このガキ。なんて大人気ないことを思いながら、なんとか平常心で対応する。笑顔だ、俺。しゃがんで、努めて優しくその頭に手を置いた。

「いいか、ボウズ。このお姉さんは、もう俺が予約済みなの。だから、そりゃ無理だ」
「うっそだぁ。だって兄ちゃん、執事じゃん。その服知ってるぜ、燕尾服って言うんだ。この前アニメで観たんだからな」
「うぐっ、最近の子どもは目敏いな」

ビシッと指を差し、痛いところを突いてくる。そして言葉に詰まる俺に、勝ち誇った顔を向けてきた。なんて生意気なんだ。昔の松田を思い起こさせるふてぶてしさ。出せるカードを失い頬を引くつかせていると、ふわりと甘い香りがした。すぐ隣に座った彼女が笑う。ドレスの裾が汚れるのも気にせず、小さな手を取って語り出す横顔に目を奪われた。

「本当なの。お兄さんはね、私の王子様。どんな格好をしていても、それだけは変わらないんだ」

またとんでもない事を清々しいくらい綺麗な表情で言うなぁ。隣に本人がいるってのによ。抱きしめたい衝動を、拳を握って鎮める。
 
「そっかぁ……わかった。絶対に、お姉ちゃんより可愛いお姫様見つけてやる!」
「うん、その意気その意気。期待してる」

幼い恋心ってのは燃えるのも早ければ、消えるのも早いらしい。呆れている間に、子ども達は手を振って階段を駆け上がっていく。

「ふふ、元気だね」
「本当にな……さてと、そんじゃ行きますか」
「ちょっと待って。この格好で?」
「そ。今日は、世界一可愛い俺のお姫様を自慢する日。特別大サービスだぜ」
「それ、誰にとってのサービスなの?」
「誰って、君を見た人全員」

自信満々で笑い返せば、彼女は視線を泳がせる。ほらまた、そんな顔してさ。本当にズルい。仕返しのつもりで手を握って、恭しく一礼。

「エスコート、させてくれますか?」

覗き込むように尋ねると、小さく頷いてくれた。君が迷うなら、いつだって手を引いてやる。並んで雨宿りしたっていいし、一緒に濡れてやってもいい。どうか俺に、君の傍にいる権利を────そう願いながら、指先にキスを落とした。

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