嫌いになれない景色

一度経験したんだから楽勝だろう。なんて、余裕こいていた己を恥じる。そもそも、受験で使う知識というのは、大人になればほとんど役に立たない。古文や漢文なんざ、社会人になってからは目にした記憶すらない。そんな往生際の悪い事を毎日のように考えつつ、俺は受験を乗り切った。

「松田は受験どうだったの?」
「はっ、誰に聞いてんだ。余裕だっての」
「それが直前までヒーヒー言ってた奴の台詞かよ…ほーんと、本番に強いよなぁ」

それもまた実力ということだ。俺達の会話を聞きながら、苗字が笑う。こいつも萩原も手応えはあったらしいから、大丈夫なんだろう。無事に受かっているとして、だ。いよいよ大学生活が始まる。今年もまた3月26日が近づいて来ている。世界が苗字を連れ去った、忌々しいあの日。思い出すのは、雨の音と冷たさ。そして、後悔ばかりだと泣いた萩原の顔だ。クソみたいな記憶ほど鮮明で苛つく。小さく舌打ちすれば、側を歩いていた萩原が俺に視線を寄越す。それを受け流し、空を見上げた。

「おい、これ何だ?」

まだ冬の気配が色濃く残る3月の初めのことだ。萩原の自室、机の隅に置かれた小さな包みを指差し尋ねた。乳白色のビニール製で、膨らんでいるところを見るに、何か入っているんだろう。指で押してみると、硬い感触がした。

「ああ、それ。バレッタだよ」
「バレッタだぁ?まさか自分用か?」
「意外。陣平ちゃん、バレッタ知ってんだ」
「馬鹿にしてんのか」
「してねぇって。純粋に驚いただけ」
「それが馬鹿にしてんだよ」

真顔で失礼な事を言いやがるな。軽い口喧嘩を交わし会話を終わらせようとする。それでなんとなく察した。だが生憎と、俺はここで空気を読むような男じゃない。

「苗字にか?」
「あのな。陣平ちゃんさぁ、親しき仲にも礼儀ありって言葉知ってっか?」
「俺の辞書にはねぇな」
「でしょうね……渡すタイミング逃しちまったんだよ」
「んなの、会ったら普通に渡せばいいだろ」
「言うと思ったわ。俺は松田と違って繊細なの」

じゃあ何で捨てないんだよ。こうして見える所に置いてるのは、なんでだ。溜息をついて、袋を指で摘む。明かりの方へ掲げてみる────透けて見えたピンク色に笑い、萩原に向けてそれを放った。

「色もこの時期にピッタリじゃねぇか」

慌てて両手でキャッチして口を結んだ後、萩原は手の中の物を見下ろした。決心したように握り締めるのを見届けて、部屋を出る。あんなザマで、結婚指輪なんか渡せるのか。と、そんな馬鹿みたいな事を案じている自分に笑った。

**

春が好きだと言う人間と、逆に嫌いだと言う人間、俺の周りでは半々くらいだ。女はよく春が好きだと言う。まあ、ほぼイメージアップの為の嘘だろうが。嫌いだと言う奴も花粉症だとか様々な理由があるもんだ。かく言う俺はどっちなのだろう。

「ごめんね、送ってもらっちゃって」
「別に。断って強姦に襲われでもしたら俺の夢見が悪いからな」
「ふふ、そっか、ありがとう」

萩原が委員会の仕事だとかで、俺は今日、苗字と一緒に下校していた。もう部活は終わっているし、用事もなかったから了承しただけだ。決して心配だとかじゃない。なのに笑って礼を言ってくるから、何も返せなかった。

「もうすぐ桜が咲くね」
「そうだな」

開き始めた蕾を見上げ、苗字が笑う。こいつは今まで、どんな思いで3月26日を過ごしていたのか。苗字の命日は俺や萩原と同じ11月7日だ。そんなとこで揃っても全くめでたくないし、そもそもその事実をこいつは知らないだろう。

「お前、春は好きか?」
「そうだね、どちらかと言えば。過ごしやすいし、桜も綺麗だし。でも環境が変わるせいで忙しないのが難点かな」

遠回しにそう尋ねると、至って真面目な回答をしてくる。そうか、好きなのか。何故かホッとした。まあ確かに俺も、秋に死んだからって秋が嫌いかと訊かれればそんなことはない。だがそれは、俺が逝く側だからだ。大雨で桜が散る度に、萩原が遠くを見つめる度に、春という季節を呪いたくなったもんだ。

「……松田、どうしたの?」

立ち止まった俺を振り返り、そう尋ねてきた。開きかけた唇が震える。逡巡するなんて、らしくない。いつも通りサラッと訊いちまえ。頭の隅でもう一人の自分が容易くそう言った。尻込みする口をこじ開け、問う。

「死ぬ寸前のこと、憶えてるか?」

平静を装ったつもりだったのに、笑っちまうほど情けない声だった。すぐに質問の意味を理解し、苗字が目を見開く。驚いた顔が可愛いとか、ハギの奴がそう言っていたのを思い出して、鼻で笑った。ただの間抜け面じゃねぇか。

「衝撃、痛み、寒さ。あとは…雨のにおいと、音」

瞳を閉じて、一音ずつ紡いでいく。一つひとつの感覚を掘り起こすように。クソみたいな質問に、クソみたいに穏やかな顔で答えるもんだから、膨らみかけていた罪悪感が急速に萎んでいった。どうして、そんな表情ができる。苦しかったんじゃないのか。生きたかったんじゃないのか。そうじゃなきゃ、おかしい。いや、許さねぇぞ。

「桜が散っちゃうなぁって、ぼんやり思って……それきり。最後くらい、大切な人のことを思い出せばいいのに、薄情だよね」

一瞬だけ自嘲気味に笑い、また表情が戻る。やっぱり苗字は、それが自分の最期だと認識しているらしい。まあ、それからは意識がなかったんだから当然か。漫画じゃあるまいし、萩原や俺の声が届いていたわけがない。そんな非科学的なことは信じない人間だったはずなのに、何故か無性に悔しかった。頭ではわかってる────俺が眠ったままだった苗字に会いに行っていたのも、萩原がその日の出来事を一方的に語って聞かせていたのも、全部テメェの為だ。俺達がそうしたかっただけだ。じゃないと、己を保てなかったからだ。

「そんなの、当たり前だろ。突然奪われたんだ。覚悟なんざ、出来てるわけがない」
「どうして松田がそんな顔するの?」
「っ、オメェが怒らねぇからだろ!」
「怒るって、誰に?」
「知るか!ムカつかねぇのかよ!理不尽に死んで、未練だってあっただろうがッ!」
「松田は本当に、怒るのが好きだね」
「はぁ!?テメェ、マジでふざけんなよ。こんな時に茶化すつもりか?」

こいつ、人が怒鳴ってるのに笑いやがった。おまけに吠える子犬でも見るみたいな目をしてくる。俺だけが大声を出しているせいで、側を通った婆さんが怪しげな視線を向けてきた。逆だ、逆。被害者は俺だっての。ひとり感情的になっているのが馬鹿らしくなって、盛大に溜息を吐きながら頭を乱暴に掻く。すると、目の前の女は苦笑しながら謝ってくる。

「ごめんごめん。ただ、私は果報者だなと思って」
「いや、日本語喋れよ」
「私ね、自己主張が苦手なの。たぶん生まれつき。自分がどう思ってるのか、すぐ言葉に変換できなくて。貴方達と会うまでは、それで何の不自由もなかったんだけど」
「そりゃすみませんね」

無意識に煽ってくるとこ、どうにかならねぇのか。捻くれた返しをしても、いつも通りの涼しい顔。通行人に不審がられるのが面倒で、すぐ側にあった公園に足を踏み入れると、苗字は何も言わずに付いて来た。

「萩原は、私が自分の中で整理して、ちゃんと言葉にできるまで待ってくれるんだよね」
「へーへー、どうせ俺は待つのが苦手ですよ」

よっこいせとベンチに腰を下ろすと、苗字が隣に座る気配がする。ふわりと鼻を掠めた香りは、もう嗅ぎ慣れたものだ。てか、まさかの惚気かよ。コミュ力の塊と比べられてもな。頭を悩ませるだけ損な気がして、おざなりな返事をした。

「うん、知ってるよ。私は貴方のそういう所に救われてるから」
「…一体いつの話だ。自分で言うのもなんだが、全く心当たりがねぇぞ」
「松田は、必ず私より先に怒ってくれるでしょう?それがいつもストンと胸に落ちるんだよね。そうして初めて、ああ私、怒ってたんだって気がつくの。例えるなら、翻訳機みたいな感じかな」

クスクス笑って、微妙な例えをしてくる。そもそも、俺はこいつの気持ちを代弁しているつもりなんて更々ない。あれか、ポジティブなのか。それか、とんでもなく鈍いのか。
 
「ぜんっぜん嬉しくねー」
「ふふ。だけど、頼ってばかりじゃ駄目だよね。ちゃんと自分で言葉にできるように努力するよ。あと、さっきの話だけど……後悔は、あったよ」

忙しなく両指を動かしながら、苗字は言った。怒りはないが、後悔はあるらしい。その言葉に、無性に安堵する。それはつまり、あの人生に未練があったということだ。

「伝えたかった事が沢山あった。だけど、もういいの────全部、届けられたから。あとは前に進むだけ」

自分の膝を叩き、苗字が立ち上がる。空を仰ぐ後ろ姿は折れそうなくらい細いのに、こいつは強い。時を経るほどに、それを思い知る。瞼にらしくない熱を感じて、一度だけ瞬きをした。

**

卒業式。後輩の女子達に囲まれている萩原と如月を、桜の木の下で眺める。文化祭で王子の役をやって以来、如月は女子に大層モテているらしい。あの女共は、あいつが苗字信者だと知らないんだろう。チラと隣に立っている教祖様(苗字)に視線を向けると、珍しくぼんやりと桜を見上げている。

「苗字!」

ぶんぶんと手を振りながら、萩原が駆けて来た。ファンサは終わったようだ。如月はまだ後輩達と談笑している。

「はい、これ」

そう言って、苗字の手に何かを握らせた。開かれた掌には、ボタンが転がっている。たぶん第二ボタンだろう。自分から渡す奴がいるとはな。もはや押し売り。貰った本人はキョトンとそれを見下ろした後、眉間に皺を寄せた。こいつ、第二ボタンの意味わかってねぇな。流石は元無関心女。ふざけて丁寧に助言してやる。

「そりゃゴミだ、捨てちまえ」
「ちょ、駄目に決まってんだろ」
「まさか捨てたら呪われるとか?」
「いや、なんで悪ノリ?いいですか、苗字さん。それはただのボタンじゃなくて、俺のココに付いてたやつ。で、第二ボタンには『一番大切な人』って意味があんの。だから、君に貰ってほしい」

授業中みたいに真面目な顔で萩原の言葉を聞き終えた後、苗字は黙ってボタンを見つめた。それから「わかった」と頷き、大事そうに握りしめる。

「あ、そうだ。もう一個プレゼント」
「え……っ、なに?」

得意げに笑い、萩原が苗字の髪に手を伸ばす。かと思えば、すぐに離れていった。何もなかったはずのその場所には、桜と同じ色のバレッタがある。おかげで隠れていた横顔がよく見えた。鏡もないから何をされたのかわからず、苗字が戸惑うようにそこに触れる。質感でアクセサリーの類だと理解したらしい。

「ん、やっぱ似合うな。超絶可愛い」
「あり、がとう…貰っていいの?」
「もろちん」

甘ったるい顔で萩原が頷くと、苗字も照れたように笑う。いや、俺がいない所でやれよ。夏はまだ先なのに、暑苦しいったらない。

「アンタ、趣味だけは良いわよね」
「如月ィ、お前はいつも一言余計なんだよ」

いつの間にか側に来ていた如月が、鼻を鳴らす。小競り合いを繰り広げ始めるふたりから視線を逸らし、隣に目を向けた。刹那、風が吹いて桜が舞う。

「春も悪くねぇな」
「ごめん、松田…なんて?」
「別に、ただの独り言だ」

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