どんな雨も一緒なら

2度目の大学生活が始まった。彼女は前と同じ小さなアパートの2階を、俺はあの時とは別のアパートを借りた。電車で5駅の距離は、3駅に。本当は「一緒に住もう」と言いたかったけれど、自分の為に留まった。扉を開ければ一番に迎えてくれたり、朝起きて隣で微睡む彼女を暫く眺めたり。想像するだけで夢みたいな日々。だけどそれは────、

「自殺行為」

日が落ちた、少し肌寒い道を歩きながら、ひとり呟く。それは喧騒に呑まれ、誰にも拾われることはなかった。わかってる。幸せに浸かるのは、今じゃない。失った時、彼女を言い訳にはしたくない。絆された結果、何も守れませんでした。なんて笑えねぇし、そもそも失うつもりもない。これは、望んだ未来を守る為に必要な選択だ。まあそこに不純な思いが欠片もないと言えば嘘になる。傍にいたら、触れたくなるに決まってる。決意が揺らぐことが目に見えているから、自制の意味もあるわけだ。いつか、そんな悶々とした思いを抱かずに、彼女に触れることができるだろうか────そこで思考を止める。やり遂げるまで答えは出ないことを知っているから。リセットするように呼吸をして、歩くスピードを速めた。前からやって来た車のヘッドライトが眩しくて目を細めたその時、ポケット中でスマホが一度だけ振動する。通知をタップすると、文章ではなく写真。

「ふ、観察日記かよ」
 
立ち止まって、小さく笑った。写真には小さな鉢植えと、そこから出ている緑色の新芽。ガーデニングを始めたいと言うから、少し前に鉢植えと、花やら野菜の種を買いに行った。流石は元園芸部だと茶化したら、あれは名ばかりだと不満そうしていたっけ。あの後すぐに植えたとしても、そんなにすぐに芽が生えるものなのか。律儀に報告してくるのが苗字らしい。

**

初夏。朝に羽織ってきた上着が、昼には鬱陶しくなる季節だ。授業が始まり、やっと新生活に慣れ出した頃。今日は、彼女の部屋で一緒に飯を食うことになっている。もちろん、手料理。これから過ごす時間を想像していたら、自然と呼吸に鼻歌が混じる。途中、せっかくだから何かデザートでも差し入れようと、コンビニに寄った。アイスか、それともプリンか。他のスイーツも捨てがたい。店内を何周かした後でやっと、棚に2つ残っていたプリンに手を伸ばす。

「あ……、

ところが、俺の指が触れる前に、それは横から現れた小さな手に攫われていった。思わず声を漏らすと、足元でプリンを握りしめた少女が俺を見上げている。さぞ大事そうに。俺が取ろうとしたのが分かったのか、不安げに尋ねてくる。

「お兄ちゃんも、これがいいの?ふたっつ?」
「いんや、また今度にするから大丈夫だ。気にせず持ってきな」
「うん!ありがと!!」

パタパタと駆けて行く背中に、プリンが無事か心配になった。少女を見送り再び棚を見てみても、プリンが増えているはずもなく、1つだけ寂しげに鎮座している。苦笑しつつ息を吐いて、アイスコーナーへ。一番レジに近い隅に、カップアイスの新作が置いてあった。人気女優がCMに出ているやつだ。しかもコンビニ限定の商品。少し値が張るけど、今日を逃したら機会はないかもしれない。一瞬迷ったが、それを2つカゴに入れた。会計を済ませ自動ドアをくぐり、絶望する。

「マジか…」

雨だ。それも結構しっかりと。店内にいた5分足らずの間に、降り出したらしい。コンクリートはすでに色を変えている。ゲリラ豪雨というやつだろう。軒下には、俺と同じく途方に暮れている客が数人いて、中には腹を括り走り出す奴もいた。彼女のアパートまでは歩いても5分程度だ。仕方ない、走るか。アイスが溶けちまう。それに、早く会いてえし。そう決めて進行方向へと踏み出そうとした時だ。

「萩原!」

愛しい声が俺を呼んだ。反射的に足を止めると、視線の先からライトグリーンの傘を差した苗字が小走りでやって来る。
 
「え、苗字?」
「今日、雨の予報じゃなかったから…傘持ってないかと思って…ごめ、急いで来たから、ちょっと休憩させて」

呼吸を整えている彼女を観察すると、ネイビーのスニーカーは水を含んで、スカートの裾も少し濡れていた。ちょっとくらい雨に降られたくらいで風邪を引くような、柔な鍛え方はしていない。だけど、こうして迎えに来てくれたことが堪らなく嬉しいから、それは言わないでおく。

「何か買ったの?」
「ん?ああ、これ…アイス。一緒に食おうぜ」
「それ、キャラメルナッツだよね?嬉しい!この前、買おうと思ったら売り切れだったの」

え、なに、めっちゃ可愛いんだけど。会心の一撃を食らい、喉から変な声が出た。こんなに喜んでくれるなら、アイスにして正解だったな。さっきの子に感謝しないと。

「あ」
「ん、どした?」
「……ごめん。傘を届けに来たのに、もう一本持って来るの忘れた」
「ぶはっ!」

呆然とそんな事を言うから、我慢できず吹き出した。確かに手ぶらだわ。あーもう、愛しい。恥ずかしいのか、爆笑する俺に、彼女は不満そうに少し口を膨らませた。その仕草も可愛さを助長させるだけなのに。

「そんなに俺のことが心配だった?」
「それは…そう、だね」
「ん、素直でよろしい。その気持ちだけで十分。すっげぇ嬉しいよ、ありがとな。それに、一本で何にも問題ないだろ…ほら」

彼女の手から傘を奪い、広げた。左手で傘の持ち手を握ってから、振り返り右手を差し出す。同じ傘に入れば万事解決。彼女が俺の手に触れるまでの数秒間すらも惜しくて、自分からその手を取った。

「萩原、左肩濡れてない?」
「こんくらい平気だって。それにこの雨じゃ、どうしたって濡れちまうだろ」
「風邪引いたら大変だし、うちでシャワー浴びていったら?」
「……あー、やめとく」

また無邪気にそんな提案をしてくるんだから困る。俺の歯切れの悪さに、首を傾げて見せる始末だ。ほんと、何にも分かってないんだな。そういう所も好きだけど、なんか悔しいから、仕返しに態と低い声で本音を吐露する。

「余計に帰りたくなくなるだろ」
「っ、なる、ほど…それは困るね」

ふいと視線を前に戻し、彼女が言う。声音でいつもの軽口ではないと察したのだろう。困ってる顔じゃないじゃん、それ。俯いていて表情を窺い知ることはできないが、赤くなった耳のせいで、心中が手に取るように分かった。上擦った声と、不自然に途切れる会話。それまで何ともなかったのに、繋いでいる手へ途端に意識が集中する。雨音が、止まった気がした。

「その顔、反則だから」

足を止め、耳元で忠告。大袈裟に肩を揺らし、彼女が顔を上げる。そのままの勢いで横を向くから、至近距離で視線が交わった。驚いて足を後ろに引こうとするのを、握った手に力を込めて牽制する。誰にも見られないように傘を傾けて、触れるだけのキスを落とした。そっと離れると、再び雨音が聞こえてくる。

「悪い子にはお仕置き」

抗議しようと唇を開くものの、上手く言語化できないらしい。開いては閉じて、金魚みたいだ。顔も真っ赤だし。クスッと笑って、移動を再開する。精一杯の対抗心なのか、ぎゅっと手を握り返された。正直全く痛くないし、痒いくらいだ。悟られないよう笑みを零しながら、気がつく。

「って、あれ…なんか止みそうだな」

花が萎むみたいに雨音が小さくなっていく。見上げれば、雲は切れ、その隙間から青空が顔を覗かせている。マジで数分だったな。傘をどけると、最後の数滴とばかりに頬に雨粒が落ちてきた。

「萩原見て、虹が出てる。ほら、あそこ!」

さっきまで怒っていたくせに、明るい声で彼女が俺を呼ぶ。その指が差す空には、くっきりと綺麗な虹がアーチを作っていた。子どもみたいに喜んじゃって、ほんと見てて飽きない。感性が瑞々しいんだろう。俺が虹そっちのけで彼女を見つめていることすら気づかずに、写真を撮ろうと片手でスマホを構え出す。だけど上手くいかないらしい。角度が決まったと思ったら、落としそうになって、危なっかしい。繋いでいる左手を解けばいいのに、難しい顔をしながら実行しようとしているのが可笑しくて、後ろからスマホを取り上げる。向きを変え、少し腕を動かしてピントを合わせてからシャッターボタンを押した。

「ん」
「…ありがとう」

フォルダに保存された写真を確認し、その手にスマホを戻す。それを大事そうに握りしめ、彼女は顔を綻ばせてお礼を言った。

「やっぱり萩原は器用だね」
「どうかな。ただ単に手の大きさじゃね?」
「そっか、当然だけど指も長いもんね」

そう指摘すると、彼女は自分の掌を見つめた後、納得したように頷いた。そして握っていた俺の手をまじまじと観察してくる。手の甲から骨を伝い指先まで撫でられて、入っちゃ駄目なスイッチがONしそうになった。

「ちょ、凝視すんのは勘弁して」
「ごめん、つい…萩原らしい手だと思って」
「そりゃあ俺の手ですからねぇ」
「ふふ、確かに。だからこんなに愛しいのかな」

またも被弾。茶化す余裕すらなくて、空いている左手で顔を覆った後、髪を乱暴に掻き乱す。こうでもしないと、気が紛れない。戦場と化している俺の心を他所に、彼女は「行こっか」と笑い、歩き出した。つい数分前まで不機嫌だったことなんて、忘れているみたいだ。

「そういえば今日、冷やし中華でもいい?スーパーで見てたら無性に食べたくなっちゃって」
「勿論。今年初の冷やし中華だわ」
「私も。冷やし中華って、もっと夏本番になってからな気がするし。先取りだね」

そろそろ街中でも冷やし中華の旗が目につく時期だ。俺の発言に頷くと、苗字は楽しそうに笑う。アパートに着く頃には、雨が降っていたのが嘘みたいな天気になっていた。傘を持っている理由すら、忘れかけるほどに。濡れた地面と、少し湿った左肩だけがその証拠。

「すぐに作るから、手洗って寛いでて」

言われるまま洗面所で手を洗った後、キッチンを覗き込む。苗字はすでにテキパキと冷蔵庫から材料を取り出して、作業を始めていた。
 
「俺も手伝うよ」
「…それじゃあお願いしようかな」

少し迷った後、彼女は控えめに頷いて、スマホを操作し始めた。そしてすぐに近寄って来ると、画面を指差しながら話し出す。
 
「タレを作ってもらっていい?」
「ちょい待ち。え、タレまで手作りなの?」
「うん。混ぜるだけだし、全然難しくないよ」
「マジか。市販のやつしか食ったことねぇな」
「ラー油を入れたり、気分で味変できるから結構オススメ」
「お、それ美味そう。了解、タレは任せて」

ガラスのボウルへ、分量通りに調味料を入れていく。俺がそれを混ぜている間に、苗字は卵をフライパンで焼き、胡瓜とトマトを切り終えていた。流石の手際だ。

「先生、完成しました!」
「先生って…はい、よく出来ました。そしたら次は、お湯が沸いたので麺を茹でてもらえますか?」
「がってん承知」

珍しく便乗してくれる。中華麺を袋から出して、沸騰した鍋にいれた。タイマーをセットしたところで、ふと彼女の手元に目がいく。

「へぇ。苗字家はベーコンなのか」
「萩原家はハム派なの?」
「まぁね。冷やし中華でも家庭によって色々なんだな」

そんな雑談を交わしつつ、麺の茹で具合を確認する。彼女が相槌を打ちながら、サラダオイルをひいてベーコンを炒め始めると、美味そうな匂いがしてきた。カリカリになったところで皿に乗せて、満足そうに頷く。その隣で、ちょうど茹で上がった麺を、氷水できっちり冷やす。

「あとは盛り付ければ完成だね。あ、ラー油入れてみる?」
「入れる入れる」

テンション高めで頷けば、愛おしそうに見つめ返してくるから、また胸が鳴る。デザートに食べちまいたいな。純粋な邪心を飲み込み、腰を掴んで抱きしめた。

「どうしたの?」
「別にどうも、好きだなぁって思っただけ」
「今のやり取りで?変な萩原」

そう言って、彼女は腕の中で静かに微笑んだ。いつだって君を想ってる。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、本当だ。思考の全てに、彼女がいる。愛しくて小さな頭に頬を寄せたところで、甘い雰囲気を崩すように、グゥーと、なんとも気の抜ける低い音が聞こえた。

「ごめん、その、お腹空いてて」
「ぷっ、くく。言わなくても分かるって。にしても、凄えタイミングで自己主張するな」
「そんなに笑わなくても…生理現象なのに」
「拗ねんなよ。さ、早く食おうぜ。これ以上待たせるとヤバそうだし?」

そこまで照れていないのが彼女らしい。人間として腹が減るのは当然のことだと、そういう認識なんだろう。そのくせ俺が揶揄うと、拗ねたように唇を結んで見せるのが可愛い。綺麗に盛り付けられた皿を持って、先にキッチンを出る。テーブルを挟んで座り、声を揃えて手を合わせた。

「いただきます」

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