悪夢は今も鮮明

ふと、考える時がある────苗字本人は、あの日をどうやって乗り越えるつもりなのか。まさか潔く死ぬつもりじゃあるまいし、何か策を考えてはいるんだろう。ただその話題を、俺や萩原の前で出したことはない。それが妙に気に食わなかった。

「うわ、なーんで朝っぱらから不機嫌なわけ?」

1限目。講堂の後ろから4列目、端の席。もうすぐ前期の試験が始まる。こんな好立地をキープしてやったのに、開口一番に文句とは良い度胸だ。隣に座ってリュックを漁りながら「んで、どうしたよ?」と尋ねてくるから、舌打ちしたくなった。誰の所為だと思ってんだ。
 
「おい、ハギ。お前、あいつに自分の死に様、話してないよな?」
「は……何かと思えば、そんなこと考えてたのか。話してないし、今後も話す予定はねぇよ」
「なんで」
「なんでって、悲しい顔させることになるだろ。それに何より、格好悪いじゃん。吹っ飛びました、なんてさ」

軽く言っているが、恐らく前者が本心だ。ああ、そうか。たぶん、苗字も萩原と同じだ。優しいこいつを悲しませると分かっているから、あの話題に触れない。だが、もし一人でどうにかしようとしているなら、阿呆だと言わざるを得ない。この期に及んでそんな遠慮されるのは、一周回ってぶっちゃけ面倒臭い。それに────、

「俺があいつの立場なら、知りたいと思うけどな」

聞こえるように、はっきり言ってやった。俺の言葉に僅かに瞼を動かして、黙り込む。何か言おうと萩原が口を開きかけたところで、教授が入室してきた。鼻から息を吐き、話は終わりだとばかりに視線を逸らす。配られたプリントの文字を視線でなぞりつつ、手の中のペンを弄っていると、ひどく穏やかな声が鼓膜を撫でた。

「なら、お前の口から語ってくれ」
「は…なに、言ってんだ…っ、本気の顔じゃねーか。ふざけんな」
「正直さ、全く死んだ実感なかったんだよ。痛みもなかったし」
「まあ、木っ端微塵だったしな」
「もうちっとオブラートに包めって…いや、悪い、今のナシ。最低だな、俺。さっきの言葉、忘れてくれ」

それまでの雰囲気から一転、急に態度を変えやがった。謝罪の理由を視線で尋ねても、答えは返ってこない。それきり話題が戻ることもなく、その後の講義もいつも通り受けて、いつも通り別れた。有耶無耶にされたようで納得いかなかったが、後から冷静に考えると、萩原の気持ちも分かる気がした。あいつの場合、死ぬ間際の記憶なんざ、気持ちのいいものじゃない。ましてやそれを、好きな女の前で吐き出す。いくら死んだ実感がなかったとはいえ、気力の要る作業だ。萩原が言ったように、俺の口から苗字に話した方がいいのかもしれない。考えてみれば、元々そうするつもりだった。眠ったままだったあいつに、伝えに行こうとしていたじゃねぇか。

「まさか今になって、あの役目が戻ってくるとはな……確かに優しいあいつより、俺の方が適任か」
 
帰ってから自室のソファに身を投げ出して、独り言を零す。萩原の死を、最も詳細に語れるのは間違いなく俺だ。あの時の光景は、今もリアルに思い出せる。鼓膜から全身を駆け抜けた爆音、空を覆う黒煙、焼け焦げた臭い、唇を噛み締めた時の血の味、何度も指でなぞったネックレスの感触、全て五感で憶えている。

「もしもし、松田?」
「よぉ」
「電話なんて初めてだね。何か急用?」
「話がしたい。少し時間あるか?」
「……わかった。どこに行けばいい?」

こういう時は察しがいい女だ。都内のカフェを指定すると、30分ほどで着くと返事があって、通話が切れる。スマホと一緒に手をポケットへ突っ込み、黄昏の街を歩き出した。

「ごめん、お待たせ…何も頼んでないの?」
「別に腹減ってねーし」

苗字が来ると、店員が安堵の表情を浮かべた。来店して10分間、何も注文せず居座っていたから当然だろう。少し悪い事をしたかもしれない。
 
「そう。喉渇いたから私はカフェオレ頼むけど、松田も何か飲む?」
「じゃあ…アイスコーヒー」

俺の行いを咎める気配もなく、尋ねてくる。だから自然と返せた。世の中にはテメェの価値観を押し付ける人間が大勢いる。それも無意識に。思い通りにならないと逆ギレしてくる奴も珍しくない。だが、こいつは他人に怒ったり、責めたりしない。その理由は訊かない、と言うか、たぶん当たり前だと認識している。違う人間なんだから当然だと、真顔でそう返す顔が目に浮かぶ。こういう女だから、隣にいるのが楽なんだろう。楽────そう、楽。心地がいいわけじゃない。

「それで、大事な話って?」
「大事だなんて言ってねぇ」
「松田が雑談するために私を呼び出すわけない。それに、声の感じがいつもと違った」
「ったく。いつも鈍感なくせに、こんな時だけ鼻が利きやがる」
「鼻じゃなくて耳」
「ばーか、今のは比喩だ」

頬にかかった髪を掻き上げて、ご丁寧に耳を指差して見せてくる。その仕草に、思わず声が漏れた。とぼけてるわけじゃなく、本気でやっているのがまた笑える。比喩だと教えてやると、納得したように頷いた。そして少しほぐれた口元を、今度こそ動かそうとした時だ。何かに気付いたように視線を窓の外に移すと、苗字が呟く。

「なんだろう、火事かな」

その言葉に釣られて、俺も顔を上げた。ガラスの向こう、通りを挟んだ歩道には人集りができている。スマホを構える奴、連れと会話する奴と様々だ。ただ一つ共通していたのは、皆一様に上を見ていること。倣って自然と目線を上げた瞬間、心臓が音を立てて軋んだ────煙。向かいのビルから黒煙が空へと続いている。ぐにゃりと効果音を伴って視界が歪み、俺の目の前にあの時の光景が蘇った。親友の命が散った、あの日の記憶。

「っ、松田!?」

感覚までもが鮮明で、呼吸すらままならない。誰だ、俺を呼ぶのは。息ができない。背中を丸めて、喉を掴む。落ち着け。そう自分に言い聞かせながら、なんとか意識を現実にとどめようとした。

「───だ、松田!」

耳元で響いたのは、焦燥の孕んだ声。誰かが俺の肩を掴む。強い力で上を向かされたと思ったら、今度は頬を鷲掴みしてくる。細い指のくせになんて力だ。爪が皮膚に食い込んでんだよ。だが、その痛みのおかげで正気が蘇る。五感ごと引き戻される、そんな感覚。

「松田、しっかりして」
「っせぇな……そんなに何回も呼ばなくたって聞こえてるっての」

ノイズがかかったように揺らぐ視界。そこに割り込んできた女の姿に、らしくもなく安堵の息を吐いた────嗚呼、これが現実だと。次いで、太腿に不快感を覚え見下ろせば、机に置いてあったコップが倒れ、ズボンにシミを作っている。最悪だ。これじゃ漏らしたみたいじゃねぇか。

「お客様、大丈夫ですか?」
「っ、はい…軽く眩暈がしたみたいで。すみませんが、代わりの水を貰えますか?」
「そうですか、かしこまりました」

こいつは驚いた。あの苗字名前が適当に店員を誤魔化してみせた。随分と演技が上手くなったもんだな。
 
「…体調が、悪いわけじゃないよね」

気付けば隣に座って、覗き込んでくる。口を開いたら暴言が出てきそうで、なんとか顔を歪めるだけにとどまった。すぐに店員が新しい水を持ってきた。それを受け取り俺の前に置くと、苗字は向かいの席に座り直す。嫌な沈黙が落ちる。コップを伝う雫を凝視しながら、投げやりに尋ねた。

「なんで、何も聞かない」
「……伝えたくても言葉にできない歯痒さはよく知ってる。貴方も萩原も、私に強制することはしなかった。そのことにどれだけ救われていたのか、思い知ったのは随分と後になってからだったけれどね。本音を言えば、もちろん話してほしいよ。でも、強い貴方をそこまで苦しめるものなら、それは私が想像するよりずっと暗くて重いに違いない。それに、萩原みたく力になれる自信があるわけでもない。だけど、それでも、もし叶うなら傍にいさせてほしい────貴方達が私にそうしてくれたように」

顔を上げることができなかった。心の揺らぎを具現化するように、テーブルの上で組んだ両指が無意識に震える。胸の中に渦巻く思いを鎮める意図で、目を閉じ深呼吸をした。決して、瞼の裏から湧いてくる熱を誤魔化すためじゃない。

「この行為が貴方に余計な苦痛を与えているなら、正直に言って」
「仮にそうだっつったら、どうするんだ?俺の前から消えるのか?」
「…それは寂しいから、違うやり方を模索する」
「はっ、結局エゴを通すのかよ」

あまりに情けない声で寂しいだなんて吐かすから、笑っちまった。しかし、こいつを馬鹿にする権利なんざ俺にはない。無意識に意地の悪い聞き方をした。目の前から消えろだなんて、心にもないことだ。いなくちゃ生きていけない────そこまで執着しちゃいないが、こいつのことはそれなり好ましく思っている自覚がある。例えばその身に危険が迫れば、俺の手足は勝手に動くだろう。悪意のある言葉を浴びせる奴がいれば、苛つきが募るのは想像に難くない。つまり、そこの歩道を行き交う人間達と比べれば、俺にとって苗字名前の存在はデカいってことだ。

「ごめんね」

たった一言だけ零す。どんな顔をしているのか、視線を合わせなくても容易にわかる。言い訳をしないのが、こいつらしい。謝罪はしても、今の姿勢を改める気は毛頭ないということだろう。相変わらず頑固な女だ。
 
「別にいい、仮の話だ。煩わしさで言ったら、惚気まくる萩原の方がよっぽど上だしな。本気で嫌いなら、とっくに見限ってる。萩原のことも、お前のことも」
「それはえっと…少しは自惚れてもいいのかな」
「好きにしろ」

数秒後、おずおずと尋ねてくるもんだから正気を疑う。つい即答しちまった。分かっちゃいたが、この女、鈍すぎる。いや、鈍感とは言わないか────臆病。暗い過去ゆえ、人間関係に対しては特に。その不器用さに親しみを覚え、自然と口元が緩んだ。そして、顔を上げ、淀みのない瞳を見返し、告げる。

「いつか、必ず話す」

苗字と、そして自分自身に対する誓い。乗り越えたつもりでいたが、あの日の記憶は今もまだ、この心に暗い影を落としている。これは一生、消えることはない。たとえ薄くなり疼くことがなくなろうとも、無傷には戻れない。糧にできるか、それは俺次第だ。

「わかった、待ってるね」

クリアになった視界の中で、苗字が頷く。疑いの欠片もない笑みだった。それを見て思い出したのは、いつかの萩原の横顔だ。

────苗字がそう言ったから。

全く、似なくていいところばかり似やがる。それとも生来か。だとすれば、俺の周りには厄介な人間しか集まらないのかもしれない。そういう奴らを尊く思う俺も大概だ。だが、仕方ない。失えば、傷を負うことになる。なら、全力で守り抜くだけだ。

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