その美しさたるや

冬本番に突入しようとしている12月の初め。都内にあるカフェの窓際で、俺は頭を抱えていた。右手に持ったスマホの画面をスクロールしてみるが、いまいちピンとこない。何をそんなに悩んでいるのかと聞かれれば、ただ一つ。数週間後にやってくる一大イベント────そう、クリスマスだ。考えるべき事はいくつもある。プレゼントに用意する物、ランチは何を食べるか、どこに行くか。妥協はしたくないが、時間とは有限である。ネットで検索をしてみても、提案されるのは無難なプランばかり。どれもとっくに検討してるっての。全く参考にならない。はぁ、と。隣の席に聞こえそうなくらい盛大な溜息をついた瞬間、

「どうしたの、難しい顔して」
「うぉっ、びっくりしたぁ」

俺の視界を遮るようにひらひらと手を振りながら覗き込んできたのは、愛しい愛しい恋人だ。デニムにキャメルのニット。腕には黒いコートとバックを掛けている。この間肩上までカットした髪は、サイドが編み込まれ、ハーフアップに。不思議そうに俺を映す瞳は今日も綺麗だ。

「俺、そんなに難しい顔してた?」
「そりゃあもう。梅干しみたいな皺が寄ってたよ、ここに。外から手を振ったのに、全然気が付かないから笑っちゃった」

向かいの席に座りながら彼女はそう言って、自分の眉間をするりと撫でる。揶揄うように目を細めるから、釣られて俺も笑顔になった。彼女のことで悩んでいたのに、それをあっという間に吹き飛ばすのも彼女だ。いつだって、この心に変化を齎らすのはたった一人。心で降参のポーズを決めた。苗字はアールグレイラテを注文してから、尋ねてくる。

「何か悩み事?」
「そ、恋の悩み」
「どんな?」

困らせたくて頬杖を突きながら正直に答えた。すると、間髪入れずに詳細を尋ねられて、こっちが戸惑う。またもや一瞬で余裕を奪われてしまった。どう返したものかと思案する俺の前で、彼女は眺めていたスイーツのメニューからこちらへ視線を寄越す。

「どんなって……それ聞いちゃう?」
「ごめん、ちょっと調子に乗った」
「え、どういう意味?」

パタンとメニューを閉じ、口を結んでそんな事を言うから、思わず聞き返した。本気で意味が分からなくて、眉間に再び皺が寄る感覚がする。誤魔化せないと察したのか、彼女はテーブルの上で両手を緩く握ってから、そっと唇を開いた。

「恋というワードで、勝手に私に関する悩みだと認識しました」
「は……ぷっ、いやいや、合ってるから!てか、他にいないだろ」

いつにも増して背筋を伸ばし懺悔のように言うもんだから、耐えられずに吹き出しちまった。こんなに可愛い生き物がこの世に存在していいのか。それもなんと、俺の彼女なんだぜ。

「安心して自惚れてよ。それとも…俺が君以外に恋をするって思ってんの?心外だな、そりゃ」

数十センチ向こうにある手の甲を指でなぞり、首を傾げて尋ねる。我ながら様になる仕草だ。一方、パスを受け取った彼女はきゅっとピンク色の下唇を噛んだ。不満半分、照れ半分ってところか。余裕綽々と微笑んでいたら、豪速球が飛んでくる。

「なら、聞かせて」
「え、何を?」
「その悩みとやら」
「マジで言ってる?流石に本人に相談するのは…いや、まあ、それが一番早くて確実ではあるんだけど……」

ありえない。と思うのに、こういう普通じゃない展開も愛しくて楽しい。苗字といえば、余程の案件だと思っているのか、真剣な瞳で手を握り返してくる。

「あ〜、そんじゃお言葉に甘えて…今度のクリスマスなんだけど、何かしたいことある?行きたい所とか、食べたいものとか」

あーあ、情けねぇな。リクエストなんか聞かずに、自力で立てたプランを自信満々に実行できる男でありたかった。例えば相手が第三者だったなら、違っただろう。友達の彼女とか、直接関わりのない相手であれば、もっと良いアイデアが浮かんだ自信がある。だけど、俺は当事者だ。捻り出したものがどんなに完璧に思えても、不安がゼロになることはない。思い付いた瞬間は最上に感じても、数秒後には疑いが生まれる────幻滅されないだろうか、喜んでくれるだろうか、笑ってくれるだろうか。マイナスな方にばかりベクトルが向く。楽観的じゃない自覚はあったけど、ここまでとは。

「ふは。なぁんだ、そんなこと」
「そら出た、会心の一撃」

そよ風のように笑って、握っていた手がパッと離された。そこに紅茶が運ばれてきて、一旦会話が途切れる。なんとなく予想していた反応だった。彼女は決して器用じゃないのに、潔いところがある。だけどそう感じるのは、俺と苗字が違う人間だからにすぎない。考え方も感性も異なる。俺が不安に感じる事を、彼女も不安に思うとは限らない。逆もまた然り。苗字にとっては大きな悩み事も、俺からすれば笑い飛ばせる事だったりする。それでも、一緒に悩みたい。俺の悩みも聞いてほしい。そして今みたいに、大した事ないねと笑い合えたら、何だって乗り越えられる気がするんだ。
  
「ごめん。予想よりずっと微笑ましい悩みだったから、つい」
「あのなぁ、こっちは本気で悩んでんだぜ」
「うん、わかってる。すごく嬉しいよ」

ふわりと頬を緩め、柔らかな声で苗字が言う。窓から差し込む太陽の光に照らされて、その美しさは一層際立った。思わず見惚れる俺を気にも留めず、ラテを一口含むと、目を細めて彼女は呟く。

「久しぶりに動物園に行きたいな」
「……それから?」
「夜景が見たい」
「いいね、採用」

笑い返し、頷く。ほら、一瞬で片付いた。頭を漂っていた靄が晴れていく。10分前まで形すら曖昧だったのに、今は簡単にイメージできるんだ。素晴らしいその日の光景を────君はいつもこうやって、笑顔一つで俺の世界に光を連れて来る。

**

クリスマスを1週間後に控えたある日。俺は松田を引き連れて、都内のジュエリーショップを訪れていた。隣の親友といえば、いつにも増して機嫌が悪い。その理由は黙って連れて来たのもあるだろうが、さっきの出来事がトドメだったに違いない。入店しショーケースに近づいた俺達に、店員のお姉さんが生温かーい視線を向けてきた所為だ。同性のカップルに見えたんだろう。それを敏感に察知した松田がこれでもかと顔を歪め、店全体に聞こえるくらい盛大な舌打ちした。おかけで誤解は解けたものの、店員どころか客からも距離を置かれてしまったというわけだ。まあ、出禁にならなかっただけマシか。

「陣平ちゃーん、そろそろ機嫌直せよ。こんな華やかな店でガン飛ばすなって」
「生まれた時からこの顔だ」
「嘘つけ。そんな面で生まれてきたら、お袋さん失神しちまうだろ」

この手の店に慣れていないのと、虫の居所が悪いのとで、松田は忙しなく視線を巡らせている。これじゃアドバイスを仰ぐどころか、ゆっくり見定めもできない。

「それくらいにしてさ、知恵貸してくれ」
「はぁ?本気で俺の意見聞くつもりか?」
「候補は3つに絞れたんだけど、この先がなぁ…」
「だったら尚更だろうが。あいつはお前の女なんだから、お前が決めろ」

ど正論に思わず苦笑する。何かを贈るのは初めてじゃない。苗字は、高価な物でなくたって、いつも喜んでくれた。上辺なんかじゃなく心から。だけど、今回みたいに明確な、恋人同士を意識したようなプレゼントはしたことがない。

「やっぱペアリングは重いッ、たぁ……いくらなんでもグーパンはねぇだろ。すぐ手が出るんだから」

後頭部に拳を入れられ、涙目になる。マジで痛え。物理的な攻撃が、弱気になっていた心に追い打ちをかける。だけど、瞬時に悟った。松田のこれは、イラつきからじゃない。俺を鼓舞する時の、不器用なこいつらしいエールだ。

「愛が重いのは今更だろ。頭隠して尻隠さずどころか丸見えなんだよ。隠しきれる大きさじゃねぇんだから、最初からコソコソすんなって話だ。出し惜しみなんざしてねぇで、いっそ全部曝け出しちまえ」
「わぁ〜、大胆。じゃなくて、なにその当たって砕けろ的なアドバイス!?」
「どう訳したらそうなる……あの女はそんな柔じゃない。ああ見えてな。お前の想いがいくら規格外なデカさでも、あいつは取り零したりしねーよ」

それまで荒かった声音は途端に凪いで、瞳は澄んだ色彩を放つ。ああ、ほんと、眩しすぎて嫌になるな。こいつといい、彼女といい。随所でブレーキがかかる俺の質を美点だと言う人もいるけど、やっぱり素直に認められない。俺が躊躇している間に、周りの奴らは一歩先に進む。その一秒が首の皮一枚になることもあれば、無益になることだってある。後者なら、たとえそれが一瞬でも、重なればいずれ明確な差となるだろう。俺は置き去りにされて、いつか彼らの背中すら見えなくなる。だけどそれは、赤の他人同士の話。

「おい、顔キモイぞ」

そんな俺を肯定し、背中を預けてくれる親友がいる。手を取って、一緒に歩いてくれる人がいる。だから、大丈夫だ。俺は俺らしく、これからも大好きな人達の傍で生きていく。

「いやぁ、俺は幸せ者だな、と」
「……会話がドッジボールなんだよ」

緩みきった頬のままそう言えば、全て見透かしたみたいに松田が俺の腕を小突いて笑う。曇っていた心が晴天になったおかげで、目の前に並ぶ指輪達がさっきより輝いて見えた。軽く息を吐いて、さらに一歩近づく。宣言通り、隣の親友は一言も喋らない。口元へ手をやりながら、順に視線を巡らせ、瞼の裏で思い浮かべた。彼女が髪を耳にかける時、マグカップを持つ時、スマホの画面を指差す時────その指に一番似合う指輪はどれか。

「……これっきゃないな」
「結局秒で決まるじゃねぇか」

鋭いツッコミに笑い返す。遠巻きに見ていた店員のお姉さんを呼ぶと、歪な営業スマイル全開で近寄って来てくれた。逆に怖い。とりあえず、緊張を解くために、直立不動のままでいた親友を店の外に追い出す。

「このペアリングください。サイズは…、

自信満々に注文し始める俺に、お姉さんは少し慌てた様子でショーケースを覗き込む。デザインはかなりシンプルだ。苗字はその方が好きそうだし、実際似合う。アクセサリーの類は付けても一箇所とか、むしろ身に付けていない時もある。ちなみにサイズは、事前に如月経由でリサーチ済み。頼んだ時は般若みたいな顔をされた。恐ろしくて、今思い出しても身震いする。もちろん、俺がプレゼントするってことは本人には内緒だ。

「さっきはすみませんでした、連れが」
「え…ああ、いえ、そんな。こちらの態度がいけなかっただけですから」
「ははっ、カップルに見えました?まあ確かに、いい男ですよ。怖ーい顔してますけど、優しい奴で。今日もまた背中を押されちまって…自慢の親友なんです」

ラッピングの手を止めて、お姉さんが顔を上げた。自分でも驚くくらい穏やかな顔をしているのが分かる。ただの客にこんな事を言われたても困るだろうな。心で再び小さく謝った。誰かに吐き出したかっただけだ、今胸に溢れる幸福を。

「先程の方も、お客様と同じ顔をしていらっしゃいました。素敵なご友人ですね。そんなお二人が選んだ指輪ですから、きっと喜んでいただけるはずです」
「お姉さんのお墨付きなら間違いねぇな」

なんて会話をした後、外へと視線を移す。ガラスの向こうで、松田はポケットに手を突っ込み欠伸をしている。手渡された袋を受け取って、軽やかに歩き出した。

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