煌びやかな世界

クリスマス当日はよく晴れていた。ちょっと早めの昼飯を済ませ、12時07分の電車に乗る。遅延はなし。待ち合わせは13時だ。お気に入りのプレイリストを再生して、緩みそうになる口元をそっとマフラーで隠した。今日は彼女のリクエストである動物園を回ってから駅ビルをぶらついて、夕食の後に夜景を観に行くことになっている。最寄駅に着いたのは待ち合わせの20分前。ホームの電光掲示板を見上げる。たぶん苗字は次の電車だろう。ところが、渋滞しているエスカレーターを避け階段を下っていると、

「え……」

少し先に彼女の姿を見つけて、踊り場で立ち止まった。ながらスマホをしている人達が多い中、真っ直ぐ前を向いて歩いている。好きな所、また一つ。イヤホンを鞄のポケットに仕舞ってから、速足で追いかける。そっと近づいて肩に触れると、苗字は小さく悲鳴を上げた。ちょっと驚かすだけのつもりだったが、咄嗟に距離を取ろうとした彼女がよろつく。

「っぶねー……ごめん、驚かせて。どっか捻ったりしてない?」

慌てて腰に手を回して支える。そこでやっと相手が俺だと気がついたのか、苗字の身体から緊張が解けるのを感じた。

「だい、じょうぶ…ありがとう。ヒールだったら転んでたかも」
「よかった。今日歩くからスニーカーにしたの?」
「いや、ヒールで動物園だとミスマッチかなって」
「そっちかぁ〜。てか、もう一本後でも間に合ったでしょ。人のこと言えねぇけどさ」
「うん、それでも間に合ったと思う…」

改札に向かいながら会話を交わす。なんとなしに尋ねると、彼女は途中で言い淀んだ。珍しい。首を傾げる俺に、しどろもどろで続ける。
 
「けど、その、自然と早く家を出ちゃって」
「ふぅん、自然と、ね」

含みを持たせて返事をしたら、ちょっと拗ねた横顔。俺もだよ。俺も、早く会いたかった。そう伝えたくて手を繋ぐと、いつもよりも少しだけ強く握り返される。

「動物園なんてすごく久しぶり」

入り口を抜けてマップを広げた。声を弾ませそう言うと、苗字は指でなぞりながら難しい顔をする。どうやらルートを決めているらしい。子どもみたく燥いでるのに妙に計画的で、つい頭を撫でたくなったけど、怒らせそうだからやめておく。

「パンダって、熊の仲間なんだね。コロコロしてるから可愛いのかな。あとは模様?」
「確かに丸っこいし、熊みたいなイメージはない……、
「どうしたの?」
「いや、警察学校のダチに羆みてぇにデカい奴がいてさ。2mはあったんじゃねぇかな」
「2m…萩原も背が高い方だと思ってたけど、やっぱり警察官を目指すくらいだから、体格のいい人が多いんだ」

手を掲げながら班長の身長を思い出す。松田が、何を食ったらあんなにデカくなれるのか気にしてたっけ。俺が死んだ後、あいつらがどう生きたのかは知らない。松田からも聞いていない。もし俺達と同じように以前の記憶があるのなら、いつか聞くことができるかもしれない。

「んー、一概には言えねぇかも。成績トップだった奴は、見た目優男だったし。あとは、穏やかだけど心に重たいもん抱えてる奴とか。まあ、色々だな。んで、その羆みたいな奴だけ彼女持ちでさ。一番女っ気なさそうだったから、俺ら全員たまげちまって…まあ俺も、好きな子はいたけどね」

態とらしく覗き込んでそう言うと、苗字は困ったように口を結ぶ。その反応だけで十分だ。好きな子が自分だと認識してくれるようになっただけで大進歩。笑い返し目を閉じて、瞼の裏にあいつらの姿を浮かべる。

「正義感が強くて、いい奴ばっかだったよ」
「萩原は、また警察官を目指すんだよね?」
「え…ああ、そのつもりだけど」
「話を聞いてるだけで分かるよ。松田はもちろん、その人達が貴方にとってどれだけ大切か。再会が待ち遠しいね」
「……ん。その時は君のこと紹介しなきゃだな」
「本当?私も会ってみたい、楽しみにしてるね」

あれは確かゼロに言ったんだっけ。いつか会わせるって。結局叶えることができなかった。今度こそ、会わせてやりたい。そして大事な仲間に自慢するんだ、俺の大切な彼女のこと。ああでも、彼女持ちの班長は兎も角、ゼロも諸伏ちゃんもイケメンなのが些か不安要素だな。まあ、松田に靡いてないところを見るにそれほど心配はないだろうけど、女の子ってのはほぼ例外なくイケメンに弱い。

「あ」
「なに、面白い動物でもいた?」
「見て、松田に似てる」
「どれ…ぶっ、確かに生き写し!!」

ちなみにこのやり取りは今日だけで3回あった。猿山の頂上にいるボス猿に、デカい欠伸をするライオン、それからサンドバッグを殴り続けるカンガルーだ。そう言われると松田にしか見えなくなってくる。たぶん怒られるだろうけど、あとで本人に写真を見せて報告してやろう。

「久しぶりの動物園の感想は?」
「最高でした。欲を言えば、今度はもう少しあったかくなってから来てみたいかな。その方がもっと動いてる姿が見られそうだし」
「あー、今日めっちゃ寒いから丸まってた動物多かったもんな」

駅までの道中、そんな会話をした。今度────何回そう言ったんだろう。ただ一つ分かってるのは、どれも叶えてやれなかったこと。置き去りになった軽薄な約束達を、全部すくい上げるのは難しい。だけど、ふと思い出したその時は、必ず叶えよう。一つでも多く。自分の尻は自分で拭わないと男が廃るってもんだ。

「可愛い……」

駅に直結したビルの5F。ファッション関係のショップを回っていると、隣で苗字が呟いた。その瞳が見つめる先には、革製のショルダーバック。メイク道具とか日傘とか、女性は男より持ち物が多い印象がある。それを考えると赤色のそのバックはちょっと小さい気がしたけど、彼女は普段から荷物が少ない。たぶん必要最低限しか持ち歩かないんだろう。さりげなく値札をチェックした後で尋ねる。安くはないけど、手が出ない値段ではない。決して安くはないけど。

「んじゃ、ここは俺が…」
「駄目。自分が欲しい物は自分で買うから」
「せっかくのクリスマスなんだし、君が欲しい物を贈らせてよ」
「それはそうかもしれないけど…私は、萩原が私のために選んでくれたなら、どんな物だって嬉しいよ。悩んだ時間も含めてプレゼントだと思うから」

その言葉にはっとする。思い出したのは、あのネックレスだ。治孝さんから渡された、苗字が俺のために選んでくれた贈り物。自分では絶対に買わないデザインだったのに、死ぬ間際まで身に付けていた。彼女の思いがそこに宿っていたからだ。

「そうだね。本当に、そうだ」
「萩原?」
「なんでもないよ。じゃあ、それ買うためにもバイト頑張らないとだな」

なんか泣きそうになって、誤魔化すように瞬きをする。俺の言葉に彼女は頷いて、少し名残惜しげにバックから視線を逸らした。

「夜なに食べたい?」
「んー、イタリアン」
「おっけ。東口の近くに評判の良い店あるから、そこにしようぜ」
「…いつの間に調べたの?」
「内緒」

迷わず歩き出そうとすると、驚いた顔で質問してきた。そんなの、昨日のうちにリサーチ済みに決まってる。スマホの検索履歴は格好悪くてとてもじゃないが見せられない。

「もしかして昔の彼女とか、
「ちょ、たんま、ストップ!違う、そりゃ誤解だから!楽しみすぎて事前にめっちゃ調べました……って、なーんで笑ってるわけ?」
「ごめんなさい。面白いから『昔の女』って言ってみろ、って前に松田が」
「あのヤロ。てか、律儀に実行しないの」

珍しくニヤニヤしてる彼女の頭に軽くチョップを見舞う。再び謝ってくるけど、全く反省していない。松田のやつ、小悪魔みたいな技を教えやがって。

「でも、半分は本当」
「え?」
「私といる時に、萩原が別の誰かのことを考えてるのは嫌だってこと」
「お嬢さん。そりゃあ世の中じゃ嫉妬って呼ぶんですよ」
「成る程、これが噂の……だけど、"ねたみ"とは違う気もする。悲しくて、寂しい。ただそれだけ。想像でも、すごく苦しくなる」

そっと目を伏せて、彼女は呟く。嫉妬してくれたら嬉しいけど、泣かせるのは論外だ。まあそもそも、そんな心配は無用なんだけど。だって俺は、君しか見てない。

「目移りなんかしないよ、絶対に。でもま、そんなに心配なら、こうして手繋いでて。束縛すりゃいいさ。俺は君の恋人なんだから。なんなら、おでこに"苗字 名前"って付箋貼っとくか。お名前シールみたいに」
「ふは、やめて。思い浮かべちゃった」

柔らかな日差しの下で笑う横顔に見惚れるのは、冬の澄んだ空気を揺らす声に耳を奪われるのは、何度目だろう。君の姿で、声で、俺の世界が色づいていく。

「ワイン飲みてぇな」
「まだ未成年…萩原、お酒好きそうだよね」
「お、分かってるねぇ」

カプレーゼにボロネーゼ。それからマルゲリータピザに、長ったらしい名前の肉料理がテーブルに並んだ。赤ワインが飲みたくなって思わず呟くと、ピシャリと制止される。

「ワインって飲んだことなかったな」
「これから飲めばいいよ。もちろん俺と一緒に」
「…うん、そうする」
「さ、腹減ったし食べようぜ」

少し離れた席のワイングラスを映す瞳には、小さな後悔。笑ってほしくて無難な台詞を吐くと、彼女は微笑みながら頷いた。

「ん、これ美味しい」
「はは、チーズめっちゃ伸びるな」

嬉しそうに頬張る姿は、普段より幼く見える。ハムスターみたいだ。いつも凛としているから、こういう光景はレア。最後に運ばれて来たジェラートに目を輝かせた時は、流石に堪え切れず声を漏らしてしまった。可愛いが過ぎる。それから店を出て、電車で30分。

「ここで降りるの?」
「そ。ほら、早く」

戸惑う彼女の手を引いて、歩き出す。20時まであと10分。ギリギリだ。

「萩原、なんか急いでる?」
「っ、ごめん、歩くの速かったよな」
「私は大丈夫だけど、なんでかなって」
「あれ、最終受付20時までなんだ」

そう言いながら、前方に聳え立つ観覧車を指差す。それを辿るように見上げると、苗字は一瞬キョトンとした後、頷いて俺の手を握り直した。

「なら、走らなきゃ!」

驚く間もなく、強い力に促され駆け出す。その背中は、夜なのに眩しかった。手を引かれるままの俺を振り返って、「早く」と急かす。それを合図に、足に力を込める。二人三脚みたいに走りながら、気づけばふたりで笑っていた。

「あっつ」
「ね。でも間に合った。ほら、2分前」

得意げな彼女の額には、薄ら汗が滲んでいる。撫でるふりをしてそれを拭い、観覧車に乗り込んだ。ゴンドラが動き出す。隣に座って、ポケットに手を突っ込む。指先で触れたケースの感触が、緊張を高まらせる。

「萩原、大丈夫?急に走ったから気持ち悪い?」

無言の俺を不審に思ったのか、苗字が心配そうに覗き込んでくる。体調は全く問題ないけど、心臓は今にも破裂しそうだ。そう正直に言ったら、彼女のことだから119番してしまうかもしれない。緩く首を横に振って平気だと伝えれば、ほっとした顔。初めて乗った時は、俺のことなんかそっちのけで、景色ばっかり気にしてたのにな。

「ねぇ。あれって、前にドライブしたとき渡った橋だよね?」
「本当だ、こんなによく見えんのか…あの時の約束も、守れてねぇな」
「いいよ、別に────傍に、手の届く場所にいてくれれば十分だよ。きっと、一人だったらこんなに綺麗に見えない」

思わず漏れた呟きに、苗字が振り返る。そして、俺の手を握ってそう言った。その姿は、背中で輝く景色よりもずっと煌々としていて、また心を鷲掴みされる。

「萩原が隣にいるから、私の世界は綺麗なの」
「っ、ああ、俺も。俺もだよ」

気の利いた台詞が出てこなくて、ただ頷く。そんな俺を愛おしそうに見つめる彼女に、緊張も迷いも宇宙へ吹っ飛んだ。ポケットに仕舞い込んでいたケースを取り出し、湧き上がってくる言葉をそのまま声にした。

「渡したい物があるんだ」

そう前置きして、ケースを開ける。その中で光るのは、一組のリング。不思議そうに俺の手元を映していた瞳が、大きく見開かれる。息を飲んで弾けるように顔を上げたかと思ったら、また視線を落とす。

「私に?」
「他に誰がいんの。俺が着けてもいい?」
「う、うん。えっと、どっち、左手?」
「苗字ってさぁ、無自覚に男前だよな……とりあえず、右手でお願いします」
「とりあえず!?」
「はは、珍しく声でっけ。そっちの手は本番に取っておいて。俺以外の誰かに許しちゃ駄目だからな」

そっと右手を取り、リングを嵌める。俺とは違う、細い指。中節を抜けて、基節部へ。居場所を探るように、軽く回す。歯車が噛み合うみたいな感覚がした。

「見立てどおり、すげぇ似合ってる」
「ありがとう……萩原のは私に着けさせて」

ふわりと笑いながらリングを攫い、滑らかな指先が手の甲を撫でる。目を伏せて、真剣そのもの。リングが定位置に収まると、ほっと息を吐いてみせた。それを見届けて柔い頬に触れれば、長い睫毛を震わせながら彼女が俺を見つめ返す。大きな瞳に自分が映る、この一瞬が好きだ。言葉にするのも億劫で、引き合うようにキスをした。

「好きだよ」
「私も」
「その先は?」

口を膨らませて抗議すると、苗字は可笑しそうに肩を震わせる。そして、俺の首に腕を回し、愛してると囁いた────嗚呼。これが、これこそが、俺が守るべき世界。俺が生きていく世界だ。

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