行き場のない感情

8月某日。18時半の駅前は、うんざりするほど人が多かった。理由は明確。今夜は毎年恒例の花火大会で、ここはその最寄駅だからだ。早くも帰りたくなってきた頃、スマホが着信を知らせる。

「おい、オメェ今どこにいんだよ?」
「悪い、松田。体調最悪で行けそうにねぇ」
「はぁ?体調っていつから?」
「今朝。昼間寝てれば夜は復活するかと思ったんだけど、駄目だわこりゃ」

ふざけんな。それならもっと早く連絡を寄越せ。こっちはもう現地入りしてるんだぞ。そう怒鳴りそうになるのをぐっと堪える。電話口から聞こえる親友の声には覇気がない。身体の不調のせいもあるだろうが、今日の花火大会に行けなくなったのが響いてるんだろう。遠足前の小学生並みに楽しみしていたから無理もない。

「なら仕方ねぇな。また来年行きゃいいだろ」
「や、俺抜きで頼むわ」
「抜きってお前・・・寝言は寝て言え」

怒りを通り越して呆れた。もともと今日は、野郎二人で行く予定だったわけじゃない。萩原が苗字を連れて来るはずだった。つまり、俺にあの女をエスコートしろってか。何が楽しくて親友の女と花火デートしなけりゃならない。

「苗字、すげぇ楽しみにしてたんだよ」
「……馬鹿か?お前がいなきゃ意味ねーだろうが。そのくらい分かんだろ」
「はは、嬉しいこと言ってくれるねぇ。分かってるさ、ちゃんと。ま、心配しなさんな。来年はふたりで行って、倍楽しむからよ」
「喧嘩売ってんだろ。いいから今すぐあいつに連絡しやがれ」
「いやぁ、もう着く頃だから無理だな」

再考を促しつつ、帰るべく改札の方へ歩き始めた。この野郎、逃げ道塞いできやがったな。その時だ。へらへらした態度に怒鳴り返そうとした唇が閉じる。喧騒の中、ふと耳を掠めた聞き覚えのある声。会話を中断し、辺りを見回す。突然黙り込んだ俺に、電話の向こうで萩原が不審がる気配を感じた。一旦スマホから耳を離し、視覚と聴覚に神経を集中させる。

「いないじゃん、彼氏」
「だから彼氏じゃない…っ、離してください」
「だったら尚更、俺らと回ろうよ」
「そうそう。せっかく可愛い浴衣着てんだからさぁ、楽しもうぜ」

ああ、面倒だ。見ちまったら、止めなきゃなんねぇだろ。別に絡まれてるのがよく知ってる顔だったからじゃない。どんな女だろうが、同じようにした。「かけ直す」とだけ告げて通話を切り、スマホをポケットへ。療養中の幼馴染様に、無用な心配をかけるわけにはいきませんからね。浅い呼吸を一つして、近づく。手始めに、細い肩に馴々しく触れている汚ねぇ手を捻じ上げてやった。

「いってぇ!!」
「テメェ、なにしやがんだ!?」
「っ、松田……」
「こっちのセリフだっつーの。誰の女に手ェ出してやがる。折らなかったんだから感謝しろ」

唾を撒き散らせる二人組にガンを飛ばす。注意がこっちに向いたのを見計らい、苗字の腕を引き後ろに下がらせた。萩原がいないってのに、そんな不安そうな面するんじゃねぇよ。普段を知ってるから、こういう顔をされると居た堪れなくなる。

「いいのかよ、そんなに騒いで」
「あん?」
「ほら、お巡りさんがこっち見てるぜ。せっかくだ。話を聞いてもらおうじゃねぇの」

お前らみたいな連中のために、警官は駆り出されてんだ。一対二だから余裕ぶっているのか、下品に笑い飛ばしてきた。雑魚が。スッと冴えた頭のまま、教えてやる。

「脅しじゃなく慈悲だって気付けないほど馬鹿なのか?勘違いすんな。見逃してやるのは俺の方だ……さっさと消えろ」

思いの外ドスの効いた声が出た。お前らごときにくれてやる拳はない。一目散を体現したように逃げて行く背中を見送り、振り返る。視線が合うと、ほっとした顔をされた。

「んだよ、その面…ちゃんと堪えただろうが」
「相手の心配なんかしてない。殴ったら、松田が痛いでしょ」

一瞬、面食らった。てっきり、俺が暴れ出す心配をしてるのかと思ったからだ。そして、いつかの幻聴が再び蘇ってくる。

──── きっと、殴る方も痛いよね。

無意識に欲しがった言葉。人の苦い記憶を、澄ました顔で塗り替えてきやがる。殴った拳の痛みなんざ、大したことはない。大事なものを失った時の痛みに比べれば、痒いくらいだ。

「それに、あの程度なら私一人で去なせた」
「はっ、強がり言うな」

そう鼻で笑った後、惑う。ちょっと待て。この女が強がりを言うか。いや、言わない。探るように見下ろすと、苗字は珍しく慌てた様子を見せる。益々怪しい。

「お前……ひょっとして喧嘩強えのか?」
「松田みたいな殴り合いは無理。さっきの人達にも、喧嘩じゃとても敵わないよ」
「前置きは結構。さっさと吐けコラ」
「…少し、護身術の心得があるだけ」
「へぇ、護身術。少し、心得があるだけ、ね」

視線を逸らして語る様は、さながら白状する罪人。こいつは嘘が下手だ。吐き慣れていないと言ってもいい。この雰囲気、真実だが全ては語っていない。さっさとゲロっちまえ。

「う……えっと、一応、合気道の有段者」

マジか。さすがに絶句した。人は見かけによらない。そんな事はゼロに会って痛感していたはずだ。まあ、萩原みたいに見た目が8割の奴も大勢いるが。しかし、合点がいった気もする。今まで一度もこの女をか弱いと思ったことがないのは、これが理由か。

「習ってたのか?」
「祖父が教室を開いてて、それで。ちょっと昔気質な人だから、親がいなくても舐められないようにって……あ、あとはライカに教わったりとか。彼女、色んな武道やってるし」
「あいつ、おっかないのは中身だけじゃねぇのか。唯ならぬオーラは出てたけどな」

如月ライカ。苗字に害を及ぼすものは全て敵。見目が良いだけ余計に恐ろしいわ。苦笑しながら返事をすると、何故か苗字は気落ちした顔を見せる。今日はやけに表情豊かじゃねぇか。

「お願い、萩原には内緒にして」
「はぁ?なんで?てか、さっきから言い訳並べてっけど、別に恥ずかしいことじゃねぇだろ」
「っ、だって私……ライカみたいに綺麗じゃないし、ドラマの女優みたく可愛いセリフも言えない。ただでさえ女らしくないのに、こんな一面知られたら引かれちゃう」

二度目の絶句。途端に饒舌になりやがる。あまりに予想から外れた答えを言うもんだから、思考が一瞬止まった。その表情、言葉。どこを切り取ってもただの女で────、

「ぶっ、ぶははは!」
「な、なんで笑うの?」

耐えきれず吹き出した。なんでって、面白いからに決まってるだろ。あの苗字名前が、至極普通の事で悩んでいる。とても無表情ではいられなかった。

「はー、笑った笑った」
「笑う要素は全くなかったと思う」
「お前に無くても俺にはあんだよ。ハギに黙っとく代わりに、一つ指摘させろ。さっきお前が言った事、ありゃ杞憂だぜ」

恋は盲目とはよく言ったものだ。萩原を見ていると常々そう感じるが、どうやらそれは苗字も例外じゃないらしい。怪訝そうな顔をしている目の前の女に、第三者的視点で説明してやる。

「どんな一面を見ようが、あいつは幻滅なんざしねぇよ。むしろ『惚れ直した』とか言うんじゃねぇの。もし、ハギが何かに怯えて泣いてたら、お前はどう思う?男らしくないって失望するか?」
「……しない。するわけない」

俺の問いに、首を横に振って見せる。もうそれが答えだろうが。そう吐き捨てたくなったが、なんとか飲み込む。どう伝えればいい。異星人にでも分かるような言葉を探す。
 
「同じだよ、あいつも。まぁ、つまり。お前らしく、素でいろってことだ。自分を抑制してまで好かれようとすんな。嫌われない努力も、ハギ相手にはしなくていい」
「松田のアドバイスって、いつも命令口調」
「お前よぉ…悪かったな、偉そうで」
「ううん、参考にするよ。ありがとう……それじゃあ、そろそろ行こう」
「は?行くってどこに?」
「花火大会。早くしないと始まっちゃう。萩原に写真送るって約束したの」

そういやそんな話だった。仕方ない。付き合ってやるか。さっきからポケットで震えているスマホを取り出すと、通知が10件。通知元はもちろん萩原だ。余程焦っているのか、意味の分からない文章が並んでいる。大人しく寝てろよ。呆れつつも口元が緩む。心配性な親友を安心させるため、無事合流できたと返信する。送信ボタンを押してからカメラに切り替え、一歩先を行く背中に呼びかけた。苗字のことだから、花火ばっかり撮るつもりでいるんだろう。萩原が見たいのは、花火じゃなくてお前だっての。男心を分かってない。しかし、この女にそれは荷が重いこともよく知っている。

「おい、苗字」
「なに……っ、不意打ちは卑怯」
「るせ。さっさと行くぞ」

そう言いながら、撮りたての写真を送る。返事は見ずに歩き出した。不満げな顔をして、苗字が隣に並ぶ。自然と歩調を合わせてしまう。これが俺の役目。あいつがいない時にだけ許される場所。別に頼んでねぇけど。

「萩原、トイレ直ったって?」
「────は?」

質問の意味が分からず、たっぷり間を空けてから尋ね返す。トイレってなんだ。体調って腹の具合だったのか。いや、にしても妙だ。その場合、"直る"じゃなくて"治る"。そして治るのはトイレじゃなく腹だ。会話が上手く噛み合っていないのを察して、苗字が首を傾げる。

「トイレが詰まって大変なんだよね?業者が今日しか来られないって聞いたんだけど……」

成程、話が読めてきた。さっきのメッセージで『話合わせといて』とか言ってたのは、このことか。嘘吐くなら完璧にやれよ。

「いや、まだ来てないとよ。おまけにさっき逆流したらしい」
「え、それは……大変」

自分の面目のため、体調崩したのが格好悪くて吐いた嘘なら、バラしていただろう。だが幸か不幸か、付き合いが長いせいでそれは違うと断言できる。全部、この女のためだ。

「水回りは故障したらすごく不便だから…萩原、実家が工場だって言ってたけど、さすがに自分では直せないんだね」
「実家で修理してんのは便所じゃなくて車だからな」

まあ、やる気になれば出来るだろう。俺と同じであいつは手先が人より器用だ。しかし、そもそも故障なんてしていない。そう適当に返事をしつつ、隣の女を盗み見た。嘘の理由、簡潔に言えばそれはたぶん────苗字が心から楽しめるように、だ。具合が悪いだなんて正直に言えば、こいつは気にして花火どころじゃなかっただろうし、見舞いに行くと言い出したかもしれない。お優しいのは結構だが、辻褄合わせをさせられる俺の身にもなれ。てか、裏を返せば惚れた女より便所を優先してるってことになる。気付いてんのか、あいつ。

「来年は一緒に来られるといいね」

苗字も苗字で、責めもしない。怒るだろ、普通は。少し寂しげにそう言って前髪に触れる指で、萩原が贈ったリングが光った。浴衣、髪、化粧。疎い俺でも分かるくらい、洗練されている。一番見せたかった相手は、隣にいない。儘ならないもんだな。

「当たり前だ。そん時は俺抜きで行けよ。あいつの代打なんて今年だけだからな」
「松田のことを、萩原の代わりだなんて思ったことない」
「……おい、一瞬慰めかと思ったじゃねーか。翻訳したら中々に辛辣なこと言ってんぞ」
「そうなの?」
「自覚なしか。相変わらず恐ろしい女だな。俺じゃハギの代わりにゃならねぇよ。んな事は言われなくても分かってら。わざわざ言葉にすんな。なんかムカつく」

なんでムカつくのか分からない。それが余計にムカつく。駅を出ても人の多さは変わらなかった。苛立つまま、舌打ちをする。

「松田は萩原の代わりにはなれないし、萩原も松田の代わりにはなれない。私にとっては、萩原も松田もひとりだけだから」

力強い口調。別に感動的な事を言ってるわけじゃない。こいつはただ、自分の意見を主張しているだけだ。そう分かっていても荒んでいた胸の中が凪いでいくのは何故か。その言葉で心が動く訳を、俺は知らない。知りたくもないし、これからも探求することはない。

「あ、もう3分前。せめて建物で遮られてない場所を探さなきゃ」

誰かに同じ事を言われても、きっと同じようには感じなかった。この感覚を世間ではなんと呼ぶのかなんざ、どうでもいい。強いて名前を付けるなら、そう────特別。それでいい。それ以外、何もない。

「おい、あんま離れんな。はぐれたら面倒だろ」

そう言った時だ。耳朶に響く音。一瞬強張った体に、我ながら嘲笑が漏れる。世間では夏の風物詩だなんて呼ばれている、炎色反応を使った大衆のための娯楽。子どもから老人まで笑って鑑賞できるものに怯える自分が情けない。未だに、デカい音を聞くと、あの瞬間を思い出す。

「始まっちゃった…でも、ちゃんと見えるね。これなら写真も撮れそう」

こいつもこんな風に燥ぐのか。その横顔に釣られるように、空を見上げた。闇を彩る大輪。眩い光。大丈夫だ。ちゃんと感動できる。

「松田」

花火の音を押し除けるように俺を呼んだ声は、確かな焦燥を孕んでいた。手首を掴まれる感覚がして顔を向けると、視線が交差する。苗字の瞳に、安堵と驚きが順に現れ、消えていった。そして最後に残ったのは、戸惑い。

「んだよ」

花火の一発と一発の合間、音の狭間に尋ねた。怪訝な顔をしているだろう俺に、返事をしようと開いた唇が、何かを紡ぐ。しかし、周囲の音がうるさくて聞き取れない。読唇術を使おうにも、俯いているせいで無理だった。すると、少し長めの間。それを見計らったように、苗字が言った。

「なんか、何処かに行っちゃいそうだったから」
「……ふはっ、お前が言うなっての」

これは傑作。どの口が言ってんだ。俺が肩を揺らしても、暗い表情を浮かべたまま。精々味わえ、そっち側の思いを。そんな言葉は心の隅で溶けていった。正反対の台詞が勝手に口を突く。

「そんなに心配なら、服の裾でも掴んどけ」

掴まれたままだった手を解き、前を向いた。再び、花火が空へと打ち上がる。線状に伸びた光が円になった時、首が締まるくらいの力で裾を引っ張られ、グエッと蛙みたいな声が出た。思わず襟ぐりに手をやって酸素を確保する。このヤロ、少しは加減しろ。内心文句を垂れつつ緩む口元を、隠すことはしなかった。

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