我侭を聞いて

10月になって、やっと猛暑が落ち着いた。そろそろ衣替えしてもいいかもしれない。お気に入りのシャツの上からジャケットを羽織り、スニーカーに足を突っ込んだ。

「うし、完璧」

鏡の前で呟いて、ラックの上にあるキーケースへ手を伸ばす。色は少し暗めのネイビー。触り心地はまだ硬く、裏側にはK.Hとイニシャルが刻まれている。これは苗字がクリスマスにプレゼントしてくれた物だ。渡す時、ペアリングに比べて安価なのをやけに気にしていた。値段なんか関係ないのに。少し不満げな表情を思い出して、ひとり笑みを零す。

「ハギ、なんか食って帰ろうぜ」
「あ〜、ワリ。今日は苗字がうち来るからパス」
「ほぉ、そりゃお盛んなことで」
「一緒にメシ食うだけだって」
「……お前が?」
「俺のことなんだと思ってんのさ」

怪しむような視線に、どうにも居心地が悪くなってくる。自分勝手なあの誓いのことは、松田にも話していない。軽く返事をしつつ、苦笑い。勘のいい親友様は、それでなんとなく察したらしい。小さな溜息の後、釘を刺される。

「口を出す気はねぇよ。だけど、あいつには…あいつにだけは、理由くらい話しておけ。不安になるだろ、好きな相手が触れてこなかったら。ヘラヘラ笑って誤魔化してみろ、ぶっ飛ばすぞ」
「陣平ちゃん、こわぁ〜い」
「茶化すな」
「……わかってる」

優しすぎて笑っちまう。本人の前ではつんけんしてるくせに。最後に頷くと、鼻を鳴らして視線を逸らされた。不器用だなぁ、本当に。でもそれが、お前の良い所。

**

授業を終えて、駅まで急ぐ。苗字とは俺の最寄駅で待ち合わせをしている。無事に電車に飛び乗り、少し顔を顰めることになった。雲行きが怪しい。今朝の天気予報じゃ一日中晴れだったはずだ。折り畳み傘もないから、家に着くまで持ってくれることを祈るしかない。

「あとは、胡瓜とワカメだね」
「二本で足りる?」
「大丈夫」

今日のメニューは焼きおにぎりのスープ。卵たっぷりのスープに焼きおにぎりをぶち込む、とち狂ったメニューだ。それから胡瓜と大根の塩揉み。おまけにデザートのアイス。ルンルンでレジに並んだものの、一気に落とされる。

「げ……なぁ、傘持ってる?」
「持ってない、けど…うわ、結構振ってるね。萩原の家まで走ったらどれくらいかな」

願いは虚しく砕け散った。おまけに雷まで鳴っている。傘を買うという選択肢はないらしい。全力で走れば3分もかからないだろうけど、荷物もあるし、何より男の俺と彼女じゃ同じとはいかない。

「荷物は俺が持つよ。んで、これ被って」
「う…走りづらい」
「我慢。そんじゃ、行くぜ」

ジャケットを頭から被せると、眉を顰めて見せるから、苦笑しながら宥める。もう秋だし、濡れたら寒い。あ、でも風邪引いたら、いつもより甘えてくれたりするのかな。なんて、元気でいてくれるのが一番。熱で魘されるより、笑っていてほしい。手を繋いで、雨の中を走り出す。途端に頬を叩き出す無数の雫、髪やシャツが水を吸っていく感覚────雨は嫌いだった。憂鬱になるし、傘を差すのも面倒くさい。何より、あの日も雨だった。なのに今は、悪くないどころかむしろ好きだ。だって傘があってもなくても、君との距離が近くなるから。だって君が、雨が好きだと笑うから。理由なんて、それだけ。

「かと言って、雨最高とは思わねぇわ」
「お邪魔します」
「どうぞ。ちょい待ち、タオル取ってくる」

とりあえず買い物袋をキッチンに置く。玄関に戻ると、俺が貸したジャケットを大事そうに抱えて、苗字がこっちを見上げた。何してても可愛いな。

「メシはちょっと休んでからにしようぜ。適当に座ってて」

ジャケットを預かり、濡れて額に張り付いていた前髪を払ってやる。彼女が小さく頷くのを見届けてから、放置していた食材の元へ。そのついでにお湯を沸かす。インスタントコーヒーしかないけど、仕方ない。

「苗字、コーヒーしかないんだけど…何してんの?」
「外を見てた。向こうはもう明るいから、帰る頃には止むかな…っ、萩原?」

背後から抱きしめて、カーテンを閉める。来たばっかなのに、もう帰る話。それが無性に寂しくて、耳の辺りに顔を埋めた。

「冷たっ!」
「うわ、ごめん。自分が濡れてるの忘れてた」
「ちゃんと拭かないと風邪引いちゃう。ただでさえ寒暖差で体調崩しやすい時期なんだし…あ、でも半分は私が原因か。上着、ありがと。おかげで濡れずに済みました」
「礼はいいからさ、甘えさせてよ」

手を引き、向かい合って座る。肩に掛けていたタオルを渡して「拭いて」とアピール。目をぱちくりさせた後、案外素直に要求を受け入れてくれた。頭にタオルを被らされて、優しく拭かれる。気持ちいい。その心地よさに目を閉じようとした時、微かに笑う気配がして顔を上げた。目が合うと、クスクスしながら答えてくれる。

「なんかコタローのこと思い出しちゃって。シャンプーの後、よくこうして拭いてあげたの」

出たな、コタロー。頻繁に会話に現れては、彼女を笑顔にする男。叶うなら、生きているうちに相見えたかったぜ。心配するなよ。彼女のことは、俺が必ず幸せにする。

「ワンッ…なーんつって」

調子に乗って鳴き真似をしてみる。そしたら急に真顔に戻るもんだから、なんだか恥ずかしくなった。視線を斜め横にずらして誤魔化すように笑えば、細い指がタオル越しに俺の顳顬から耳の後ろを両手でゆっくりと撫でる。妙な引力を感じて、チラと様子を窺った。視線が交わった瞬間、目を細めながら彼女は微笑む。

「よしよし」

はい、新記録更新です。瞳には、溢れんばかりの愛情。それは、いつも俺に向けられるのとは少し違う色彩を放っていた。心臓がギュッと音を立てる。ああ、駄目だ。我慢できない。無防備な腕の間に入り込んで、何か言おうと開きかけた唇をぺろりとひと舐めする。

「あんまり甘やかすと、調子に乗るぜ」

雨の音。薄暗い部屋でも、その瞳が揺れるのが分かった。俺の側頭部に触れたままだった指先が、迷うように震えている。今、彼女の胸にある感情はなんだろう────恐怖。驚愕。それとも、期待。なんて、そりゃ俺の願望か。

「はぎわ…ん、

再び唇を塞ぐ。頼むから、そんな声で呼ぶなよな。君はいつもそうやって、無自覚に俺を試そうとする。理性なんて糸の上に置かれたボールみたいなもので、ちょっとの風で落ちるんだよ。それを必死に食い止めてる。こんなこと出来る男は俺くらいだぜ。反射的に逃げようとする肩を掴み、そのまま押し倒した。猛獣紛いな事をしてるくせに、床に打ち付けないよう後頭部に手を回すあたり、我ながらイイ男。

「俺のこと、紳士だとか思ってる?」

覆い被さって、尋ねる。どういう答えを期待しているのか。分からない。優しいと言われるのは嬉しい。だけど、好きな女の前でずっと優しいだけでいられる男なんて存在しない。実際、困惑の表情を浮かべている苗字を見ても、止めるなんて選択肢はなくて。少し乱れた彼女の髪を払う。その瞬間、雷が鳴った。稲光で照らされた頬は仄かに色付いて、瞳は熱を宿しながら俺を映している。

「その顔、反則だから」

吸い寄せられるまま首元に顔を寄せた。視界の端できつく握り締められている手を解き、指を絡ませる。歯を立てないよう意識しながら鎖骨を食んで、なぞるように顎先まで舌を這わせた。彼女が息を吸う度、白い喉がひくりと震える。

「好きにしてって目だ」

どんな目で俺を見ているのか耳元で教えてやれば、恥じらうようにきつく目を閉じてしまう。照れ屋だなぁ。声が聞きたくて、捲れたシャツの下から、皮膚の薄い腹の辺りに触れてみる。すると、意図通り小さく悲鳴を上げてくれた。クスッと笑った俺に、羞恥と非難の眼差しが向けられる。拗ねた顔も可愛い。機嫌を取るようにキスを2回。脇腹を伝い肋骨を撫で、背中に手を回したその時、彼女が俺の頬に触れた。

「萩原、大丈夫?」

予想外の言葉に動きが止まる。大丈夫って、何が。いつもの調子で笑い飛ばそうと思ったのに、見下ろした彼女の顔があまりに真剣で、上手くできなかった。

「ごめん…なんだか苦しそうに見えたから」

こんな時くらい、気付かないフリしてくれたらいいのに。返事ができないのは、彼女の言葉が真実だから。苗字名前────誰より大切で尊い存在。触れたいに決まってる。それでも心の奥底に、迷いがある。どうすれば消えるのか、本当は分かっていた。少し先の未来、彼女や俺を襲うであろう恐怖。それをどうにかしない限り、俺はきっと、何の憂いもなく彼女に触れることができない。全部分かっているのに、その場の雰囲気に流されて、自分だけじゃなく彼女のことも誤魔化そうとした。

──── あいつにだけは、理由くらい話しておけ。

松田がちゃんと忠告してくれたってのに、駄目だな。後で申告して殴ってもらおうか。黙り込んだままでいると、苗字がもう一度俺を呼んだ。心配するように頬を撫でてくる手を取り、額に寄せる。

「ごめんな、不甲斐ない男で」

そう呟いて、立ち上がる。引き止めようとする指先に気付けるほどの余裕はない。ほんの少し頭を冷やすつもりでベランダへ。

「萩原ッ!」

だが、途中で物理的に阻止された。感情的な声に思わず足が止まる。振り返る前に、後ろから衝撃。逃がさないとばかりに強く抱きしめられて、見下ろせば鳩尾の辺りで小さな手がしっかりと組まれている。祈りのポーズかよ。んな事より、色々とマズいから勘弁してほしい。

「ちょ、苗字さん」
「知りたいなら強請ればいいって、そう言った」
「え、そんなこと言った?」
「言った。海に行った時」
「海って……あ〜、あん時」
 
濡れたシャツに顔を埋めたまま喋るから、聞き取りづらかったけど、なんとか拾えた。その声が、どこか拗ねているのも。テメェの発言には責任持てってことですね。

「とりあえず離してくれません?」
「嫌だ、逃げるでしょ」
「逃げない逃げない。ちゃんと話しマス」

背中に頭を擦り付けるように首を振るもんだから、可愛すぎて状況そっちのけで悶えそうになる。てか、これで拘束してるつもりなのが更に可愛い。緩みそうになる口元をなんとか引き締める。それから数秒。やっと腕が解かれたかと思ったら、すぐに手を握られた。導かれるまま部屋の中心に戻ると、そこに座れと彼女がカーペットを指差す。いや、完全に説教前の雰囲気なんですけど。

「至らない所があるならちゃんと言ってほしい」
「……ん?」
「私はスタイルも良い方じゃないし、どんな反応をすれば男の人が喜ぶのかも分からない。でも、指摘してくれたらその、頑張るから、
「ちょちょちょ、ちょい待ち……え、なに言ってんの?」

どっから突っ込めばいいのこれ。てか、お前がなに言ってんのみたいな顔やめて。分かってたけど、色事に関してはめちゃくちゃ鈍いな。天然の一言じゃ片付けられないほどに。一周回って笑いが込み上げてくる。隠さず吹き出せば、初めて見るような不快な顔をされた。

「あんね。どんな姿してたって、どんな反応されたって、相手が君じゃなきゃ意味ねぇの。苗字名前だから、ぜーんぶ愛しいんです。だからさ、別に頑張んなくていいよ」

頬に触れ、額を合わせる。スタイルとか仕草とか、それがどんなに不恰好だって構わない。君という人間から生み出されるもの全てが俺の心を動かしているんだ。

「苗字は、俺とそういうコトしたいと思ってくれてる?」

握った両手は冷たかった。指先はそれ以上に。お揃いのリングを親指でなぞりながら、答えを待つ。不思議と、恐怖はなかった。覗き込んだ瞳が、揺らぎなく真っ直ぐに俺を映していたから。

「うん。萩原となら、どんな事でもしてみたい」
「ふはっ、凄え殺し文句だな……俺さ、君に伝えられてない事があるんだ。これからも、伝えるつもりはない…一つだけ言えるのは、乗り越えなきゃいけないってことかな。それまでは、全てを君に捧げることができないと思う」

卑怯な奴だと怒るだろうか。存在だけ伝えて、正体を明かさないことを。俺のエゴに巻き込んでしまうことを。待っていてほしいとか、それでも傍にいてとか、それっぽい台詞すら言えないことを────泣かれたら、キツいなぁ。

「それは、誰の為に?」
「……俺の為だよ」
「そっか、良かった」

そう言って、彼女は目を細めた。安堵の表情。笑い返されるとは思っていなかったから、つい面食らってしまう。

「萩原は、いつも自分より他の誰かを優先するでしょ。その分、自身を疎かにしがち。そういう所もすごく好き。だけど、私の前ではちゃんと我儘を言ってほしいの。格好悪くても、情けなくてもいい。私も同じ。どんな貴方でも向き合う覚悟がある」

ああ、この目。知ってる。やると決めた人間の目だ。こうなったら、何を言っても聞かないんだよな。ぼーっと見惚れていると、握っていた手が優しく解かれた。子どもを諭すみたいに俺の頬を包み込んで、彼女は言う。

「一つだけ、約束して。私の為に、自分に嘘は吐かないで」

お願い。そう呟いた彼女は、最高に綺麗だった。大きく頷いた俺を褒めるように前髪を払い、顔を近付けてくる。意図を汲んで少し背中を丸めてやったのに、唇を押し付けられたのは額。それだけで満足そうな顔をするもんだから、意地の悪い事はとても言えなかった。

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