ダイアモンドの心

「さっむ」

家を出て思わずそう言ってしまった。季節は冬、12月も終わりに近付いている。もうすぐ冬休みだ。ちなみに俺と彼女の関係は、相変わらず進展の兆しすらない。まあ、そういう関係になりたいのかと訊かれて頷けるほど、この想いに自信もない。ただ、ほんの少し変わったことがある。会えば話すようになった。他の子と大差はないし、松田が一緒のことが多い。それでもよかった。目が合うようになっただけでも、かなりの進歩だろう。少なくとも、同級生Aから友人Bくらいには昇格したと思う。いや、思いたい。

「あり得ねえ!冬休みって1ヶ月ないよな!?なのにこの量、夏休みと同じくらいあるぞ!うちのセンコー、全員頭おかしいぜ」
「まあ、な・・・今回ばかりは全面的に同意だわ」

ガシガシと頭を掻き毟りながら、松田が半狂乱で叫ぶ。いつもなら宥めるところだが、俺も思わず首を縦に振った。終業式を明日に控えた日の放課後、机を突き合わせてどうしたものかと途方に暮れる。俺達の目の前に山積みになっているのは、冬休みの課題だ。進学校ってわけでもないのに、これは流石に正気を疑う。

「ハッ、もしかして陣平ちゃんの素行が悪いからじゃね?だとしたら、俺は巻き込まれてるだけだって弁解しに行かないと」
「現実逃避はやめとけ」

そうに違いないと高らかに宣言したのに、冷静な返し。そりゃこの前だって「なんだその前髪は!」って怒られたけどさ、こんな仕打ちはあんまりだぜ先生。なーんて、いい加減に現実と向き合わなきゃだな。大きく息を吐いて松田を見れば、意外なことにすでに一番上のテキストを開いている。覗き込んでみて、納得した。広げているのは化学の教科書だ。ほんと、自分の好きな事に対しては清々しいくらい素直なのよな。

「んじゃまぁ、ゆるゆると取り掛かりますかね」
「正月には終わらせるぞ」
「りょーかい」

ペンをくるりと回し、山の一番下からテキストを引き抜く。松田は上から、俺は下から。出されているのは同じ課題だし、両側から攻める。それで終わったら互いに分からない所をまとめて片付ける。まあ、英作文みたいなオリジナルなやつは無理だけどな。カリカリとペンが紙をなぞる音が響く。不思議と集中力は途切れない。一度没頭しちまえば、片付けるまでやる。俺も松田も、そういう性分だ。

「だぁーー!!」
「なに!?どしたの、陣平ちゃん」
「筆者の気持ちなんて知るかよ!!」
「あー、現代文ね・・・それ言っちゃお終いよ」
「文章にすんな、面と向かって言え」
「いや、友達じゃないんだから」

今にもテキストを破きそうになっている手を慌てて制止する。てか、もう化学終わったのか。好きこそ物の上手なれを体現してんなぁ。会ったこともない作者に面と向かって言えとか、無茶苦茶だけど松田らしい。課題なんて面倒だと思うけど、こういう時間は好きだ。ブツブツ文句を垂れながらも再開するのを見届けて、俺も次のテキストに手を伸ばす。やり始めて2時間ほどたっただろうか。それでもまだ割合で言えば俺と松田合わせても1/5くらいしか片付いていない。

「んー…陣平ちゃん、この問題分かる?」
「んぁ?ハギよ、俺は日本人だ」
「いや、知ってるよ。俺を含めた殆どの生徒がそうだろ。でもだからって、英語はやりませんってわけにいかないでしょうが」

真顔でただの事実を言ってくる幼馴染を呆れたように見返した。てか、その理論だと現代文の出来ない松田は日本人失格だろ。

「そういや確かいい参考書が図書室にあるって先生が言ってたな。ちょっくら行ってくるか。陣平ちゃんはどうする?」
「俺も行く。この本読めば誰でも現文できるようになるらしい。お前もこれにしろ」
「えー、なになに・・・『猿でも分かる現代文』。いや、絶対置いてないと思うけどな」

取り憑かれたような瞳で俺を見てくる。こりゃ少し休憩させた方がよさそうだ。ポンポンと肩を叩き、とりあえず図書室へと歩き出す。そろそろ日が落ちる。調べ物が終わったら、今日は終わりにするか。ガラガラと扉を開ける。人は疎らだ。

「全然人居ねーな」
「ほんと。まあ正確にはまだ冬休み前だからね。俺らが真面目すぎんのよ・・・陣平ちゃん?」
「おい、俺ら以外にも変人がいたぞ」

ニッと笑う松田の視線を追って、驚く。いや、吃驚はしてない。心臓が鳴ったからそんな気がしただけだ。夕陽の差し込んだ窓際で机に向かっている生徒が一人。見覚えのあるシルエットに思わず立ち止まる。そんな俺を差し置いて、松田は面白そうに近づいて行く。いつもそうだ。俺が躊躇してしまうラインを、軽快な足取りで超えていっちまう。妬ましく思ったことなんてない。むしろ、誇りだった。そのはずなのに、なんだよこれ。平静を保つために拳を握った。胸が軋む理由なんて、知りたくもない。

「よお、バイトはねぇのか・・・出た、必殺無関心」
「苗字」

押し退けるように名前を呼ぶ。一瞬、松田が探るように見てくるけれど、気付かないフリをした。机に向けられていた視線が、俺を捉える。

「ふたりも課題?」
「そうなんだけど、躓いちゃってさ〜。陣平ちゃんなんか、悟り開きかけちゃってるとこ」
「俺はいたって通常だ馬鹿。お前も課題か・・・へぇ、分かっちゃいたけど、やっぱ性格出るよな」

感心したような声で松田が言う。釣られて覗き込んで、思わず頷いた。広げられたノートは綺麗にまとめられている。先生の板書をまるっきり写しているわけじゃない。後で見て分かるように、書かれたことだけじゃなく、口頭だけだった事も丁寧に記されていた。

「口で言ってた事の方が重要だったりするし、後から調べるより効率いいから」
「なんか俺らのノートより地味だな」
「陣平ちゃん、もっと言い方に気を付けなって」
「いや、間違ってないよ。私、決まった色しか使わないんだ。あんまりカラフルだと、どこが大事か分からなくなるでしょ」

そう言って、並べられた筆記用具を指差す。確かに、マーカーもペンも赤や青といったノーマルな色しかない。女の子はオレンジや紫みたいな、キラキラしたやつを使っているイメージがあったけど、彼女なら納得だ。

「なぁ、この問題分かるか?」

俺が持っていたプリントを引ったくり、松田が机に置く。抗議するように見返すと、ヒョイと肩を竦めてくる。こんなのも分からないのかって思われたらどうしてくれるんだよ。そんな俺の心情などお構いなしに、彼女はプリントに視線を向ける。

「ああ、このプリントならさっき終わったよ。でも多分それ、まだ授業でやってない文法出てきてると思う…ほら、このページ」
「マジかよ。あのハゲ、態とじゃねぇだろうな」
「ハゲ…てたっけ?」
「え・・・もしかして気付いてなかった?あの先生、カツラだって有名だよ」

首を傾げる彼女に、そう教えてやる。衝撃の事実だったのか大きく目を見開いたあと、瞬きを繰り返す。見たことない表情に、思わずクスッと笑ってしまった。

「ま、気付かないだろうな。お前、興味ねぇだろ。あのハゲに限らず、俺にも・・・萩原にも」

和やかな空気を引き裂くように、松田がとんでもない事を言いやがった。最初、意味が理解できずに暫く呆然としてしまう。言われた本人は僅かに瞼を動かしたけれど、すぐに元に戻る。少しは怒れよ、なんて伝えたらどんな顔するかな。

「おい、松田!ちょ、待てって」

言うだけ言って、スタスタと去って行く背中に向けて叫んだ。途端、図書委員の刺すような視線が飛んできて、慌てて口を噤む。気が逸れたせいで、引き止めようと肩を掴んだ手は、容易く振り払われた。行き場をなくして空を切ったあと、拳を握る。よく知ってる、松田は心に嘘を吐かない。たとえそれで相手を傷付けることになったとしても、それを超えなきゃ分かり合えるはずがないって本能的に理解してる。だから、彼女に向けたさっきの言葉は、あいつなりの好意。どうでもいい相手なら、あんな風に言ったりしない。

「ごめん。後でちゃんと言っておくから」

ここでフォローできないのは、たぶん悔しいからだ。俺には、松田みたいなやり方はできない。あいつならいつか、そんな生き方はやめろと、彼女に真正面から言えそうな気がする。

「どうして松田が言ったことで萩原が謝るの?友人にそんな義務はないでしょ。松田と同意見だとしたら、分かるけど」

文字で起こしたら、高圧的に見えるかもしれない。でも、彼女の声はひどく柔らかかった。怒りも悲しみも感じられない。それが、苦しい。

「だって、傷付けたでしょ。なら謝らせてほしい」
「傷付いてる…のかな。正直よく分からない。あんな風に言われたことは今までなかったし、戸惑ってはいる・・・たぶんさっきのが事実で、それを言ったのが松田だったからだと思う」

自分の気持ちを探るような、ゆっくりとした口調。なのにその言葉達は、俺の心を刺激するには十分なくらい鋭い。じわり、と胸で音がした。松田の言葉には、その心の壁を揺らがせるだけの威力があったってことだ。つまり、少なくともあいつは、彼女にとって他人ではない。もし俺が同じ言葉を吐いたとしても、同じように思ってくれたかな、なんて。そんな俺の汚い部分を追い払うように、彼女が教科書を閉じる。パタンという音がやけに大きく感じた。

「確かに君は、他の子と違う。でも、だからこそ俺は、知りたいと思うよ。迷惑かもしれないけど」
「迷惑?まさか、逆だよ。嬉しい」

そっと微笑んで、彼女が言った。思わぬ返答に戸惑う。必要ない、要らない、てっきりそういう類の言葉が飛んでくると思っていた。俺が何も紡げないでいると、今度は淡々と迷うことなく語り出す。

「ただ、私はそれに応えることはないってだけ」
「正直だなぁ。もっと狡くなった方がいいんじゃない?じゃないと、俺みたいな奴に噛み付かれるよ。"出来ない"んじゃなくて、"しない"んだ・・・ならそれってさ、苗字の意思ってことだよね?」

笑顔を消して、尋ねた。座ったまま俺を見上げる瞳からは、少しの怯えも感じられない。こっちが怖気付きそうになる。それだけ、強固な意思ってことだろう。友人Bごときに揺らぐことはない。

「うん、ずっと昔に決めた事。貴方や松田が、私を変わってると思うのは、その所為だよ」
「曲げるつもりは?」
「ない」
「その昔に決めた事が何なのか教えるのは?」
「出来ない。話したら、その誓いを破るのと同じだから。もう、いいかな?そろそろ閉門だし、支度しないと。萩原も早くした方がいい。松田に置いて行かれちゃうよ」

そう言いながら、少し忙しげに机の上を片付け始める。突っ立ったままの俺を一瞥して、「じゃあ」と残して去って行く背中はいつも通り凛々しかった。その心を覆う殻は、きっと何より硬くて、些細なことじゃ傷一つ付けられない。ただの気紛れならやめろと、そう言われた気がした。

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