壊れないと分かっていても

「どうした、ギノ。お前が俺を訪ねてくるなんて、余程の用件か?」
「明日になれば分かることだが伝えておく。名前が怪我をした。数日は復帰できないだろう」

狡噛は言葉を失った。トレーニング後の汗を吸ったタオルが右手から音もなく落ちる。予想外の報告に戸惑いを隠せていない元相棒に、メガネの奥からなんとも言えない視線を向けたあと、宜野座は去って行った。残された狡噛は無言でタオルを拾い、大きく息を吐く。怪我と聞いてまず浮かんだのは「あの名前が?」という疑問。彼女には、赤井秀一という盾がいる。たまたま非番だったのか。そうだとしても、彼女に傷を負わせるほどの相手など、この国にはそう居ない。槙島のような奴なら別だが。油断はしない女だとよく知っている。兎も角、予定変更だ。適当にシャツを羽織り、部屋を出る。向かう先はもちろん、医務室だ。

「ッ、容体は?」
「ふふ、怖い顔しちゃって。心配で仕方ないのね」
「冷やかしはいい。さっさと教えろ」

鋭い眼光で、眠っている名前をガラス越しに見つめながら尋ねる。そんな狡噛を揶揄うような視線と口調で、唐之杜が笑った。

「左腕を骨折しているが、綺麗に折れている。完治にそれほど時間はかからんだろう。あいつは、よく食べよく寝るからな。治りも早いさ」

問いに答えたのは、唐之杜ではなかった。部屋の隅から、どこか楽しげな声が返ってくる。全く意識していなかった場所からの返事。流石と言うべきか、部屋が薄暗いのも手伝って、気配を少しも感じなかった。弾かれたように振り向く狡噛に、男−赤井−は笑みを深くする。

「君がそこまで取り乱すのは珍しい」
「・・・貴方がそんなにも冷静なことが、俺には不思議でなりません。あいつに医務室ここは不似合いです」
「冷静?ホー、君にはそう見えるのか」

喉の奥底を震わせるように笑った後で、赤井は表情を変えた。緩く弧を描いていた目が、怒気を纏い開眼する。その瞳に捉えられた狡噛は、思わず息を飲んだ。すっかり忘れていた。この男は内面をほとんど表に出さない。雑賀曰く、人は常にあらゆるサインを発していると言う。しかし狡噛には、先程までの様子から赤井の内心を推し測ることはできなかった。表情・態度・声音。それら全てにおいて赤井秀一は繕うのが上手いのだ。もしも、ありのままを見せるとしたら唯一人−−−ガラスの向こうにいる彼女だけだろう。

「八つ当たりをしてしまった。すまない。怒りこいつの矛先は君ではない、俺だ」

その言葉に、狡噛は狼狽えた。てっきり、名前に対して怒っているのだと思っていたからだ。実際、自分はそうだ。目覚めたら、説教の一つでもしないと気が収まりそうにない。

「不思議そうな顔だな。簡単なことさ。あいつを守る、それが俺の役目だ。全う出来なかったのは、俺の責任」
「ですが、四六時中一緒にいるなんて無理でしょう」
「そうでもないさ」

狡噛が怪訝そうな顔をすると、赤井は可笑そうに肩を揺らしてそう返した。そして背を向け部屋を去って行ってしまう。一方で残された狡噛は、眉間の皺を深くする。そうでもない−−−どういう意味だ。いくら赤井でも休暇を取らないわけにはいかない。名前が今回のように一人で仕事をすることは避けられないだろう。しかし、さっきの赤井の言動は、まるで対応策があるかのようだった。

**

その日の夜のこと。一度部屋に戻った狡噛に、赤井から連絡が入った。名前の意識が戻ったらしい。正直まだ、どんな言葉をかけるか決めかねていた。

「ほんと、彼の前だと怖いくらいに素直よね」

モニターを見つめ、唐之杜が微笑む。その先には、赤井に笑いかける名前の姿が映っていた。言われなくても分かっている。シビュラの信託より、赤井の言葉の方が彼女には何倍も重みがある。いや、"何倍も"は間違いだ。ゼロに何を掛け合わせても、ゼロにしかならない。

「心配と嫉妬の意味を履き違えちゃ駄目よ」

分かってるさ、と言おうとしたが留まる。今この胸にあるのはどちらだ。知りたくもない。名付けたら最後、この想いと向き合わざるを得なくなる。胸に渦巻く感情を掻き消すように瞬きをして、医務室へと足を向ける。入室してきた狡噛の姿を認めると、名前は彼の名を呼び微笑んだ。

「狡噛」

その笑顔は不気味なくらいにいつも通りだ。それが何故か無性に堪らなくて、狡噛は何も言えなくなった。そんな自分に舌を打ち、ズカズカとベットへと近付いて無傷な方の右腕を掴み言い放つ。

「もう少し反省しろ」
「・・・反省?何を?」

暫しの沈黙の後、名前が尋ねる。その声音に僅かばかりの怒気が宿ったことを、赤井だけが感じ取った。疑問を投げかけたわりに、瞳は全てを見透かしたように狡噛を映している。彼女は反省の対象を理解したうえで尋ねているのだ。それは狡噛に対する牽制だった−−−つまらない忠告なら止めろと。だが焦りからか、そんな名前の心意に気付けるほど、今の彼には余裕がなかった。

「赤井さんがいない時は、いつも以上に注意を払えと言ってるんだ」
「それは、私に対する侮辱のつもり?」

謝罪が返ってくるとは思っていなかったが、あまりに冷たい声に、狡噛は身を硬くする。侮辱したつもりなど露程もなかった。ただ、その身に傷が付くことが恐ろしくて堪らないだけだ。何か言わなければと唇を開きかけた彼を遮るように、名前は続ける。

「赤井さんが居なきゃお前は無能だって、そう聞こえたんだけど。確かにこの人は、優秀な相棒だよ。でも私は、一人でも成し遂げてみせる。それに、無傷で達成できるようなものでもない」
「ちょっと待て、誤解だ・・・赤井さん、せめて終わってからにしてくれませんか?」

思わぬ方向へと進む会話に、狡噛は慌てて弁明しようとした。しかしその前に、ベッドの反対側で肩を震わせている赤井が目に入り、眉を寄せる。と同時に、この男もこんな風に笑うのかと驚いた。

「いや、すまない。君があまりに的確に地雷を踏んでいくものだから面白くてな・・・名前、信じられないと思うが、彼はこれでもお前を案じてくれているんだ」

挑発するように狡噛と視線を合わせながら、赤井が言う。"信じられない"、"これでも"、酷い言われ様だ。心外である。相棒の言葉に耳を傾けながら、名前はベッドの上から苦い顔をする狡噛を見上げた。

「案じるって・・・心配してるってことですか?さっきのあれが?」

信じ難いといった様子で、狡噛と赤井を交互に見た。この女、鈍すぎる。まあ確かに、「無事でよかった」とか「無茶をするな」とか、そういう言葉をかけるべきだったのかもしれない。だが、声に出してしまったら胸の奥底にある想いが露見しそうだった。結果、無意識にあんな説教じみた言い方になってしまったわけだ。

「ああ。折角だ、自分で聞き出すといい。俺は先に戻る。まだ仕事が残っているからな」

態とらしく肩を竦め、赤井は席を立った。そして名前の髪をひと撫でしてから、狡噛の隣に来て耳打ちする。

「偽らず言葉にした方がいい」

**

赤井の去った部屋で、二人きり。どうしたものかと頭を悩ます狡噛を他所に、名前はチョコレートを頬張っている。

「座ったら?」

椅子を指差し、促した。狡噛は大人しくそれに従い、改めて視線を合わせる。怒りは収まったらしい。流石は相棒といったところか。誰より彼女を理解し、尊重できる男だ。

「チョコ、食べる?」
「いや。それより、さっきは悪かった。俺が言葉足らずだった」
「普通に心配したって言ってくれればいいのに。狡噛って、頭がいいのに変なところで馬鹿だよね」

馬鹿−−−今までの人生で初めて言われた。つい言い返しそうになるのをなんとか堪える。心を宥めるように、狡噛は頭を乱暴に搔いた。普通なら神経を逆撫でされる台詞も、この女に紡がれると別にいいかと思えてくるから不思議だ。恐らく裏表がないからだろう。どんな言葉もスッと胸に入ってくる。

「私は死なないよ」
「絶対なんて、存在しない」
「知ってる。実はさ、たまに思うんだ。こんな私だからこそ、意外に呆気ない死に方するんじゃないのかなってさ」

可笑そうに喉を鳴らし、名前は己の左胸を撫でた。彼女の横顔を見つめ、狡噛は予感する。もしもそんな瞬間が来るとしたら、その時こそ自分は真の闇へと落ちるだろうと。美しい瞳から光が消えるのを見たくないと思う。一方で、最期の姿を目に焼き付けたいとも思う。たとえそれが、忘れたくなるような光景でも。

「お前は、傍に居ずに他人を守る術はあると思うか?」

投げかけた問いは、昼間の赤井との会話によるものだ。隣に居ずに守れるはずがない。そう言った狡噛に、赤井は「そうでもない」と返した。その真意が、未だに分からなかった。難しい顔をする彼を揶揄うように、名前は思案する素振りすら見せずに笑う。

「あるよ。はは、間抜け面。やり方、教えてあげようか?当事者だから、説明は出来るよ。と言っても私は、守られている側だけどね」

即答され、無意識に眉間に皺が寄るのが分かった。それを見て、名前はクスクス笑う。狡噛は思わずその頭を鷲掴み、軽く力を込めた。サラサラと揺れる髪は、指通りがいい。無言で先を促せば、得意げに語り出す。

「赤井さんに何か言われたんでしょ」
「なんでそう思う?」
「あの人の得意分野だから。狡噛も誰かを守りたいの?」

何を頓珍漢なことを。この期に及んで、その対象が自分だと何故気付かないのだろう。一瞬そう思うが、赤井のアドバイスが頭をよぎった。そうだった。本当に伝えたいなら、言葉にしなければ彼女には届かない。

「ああ。暴れ馬みたいな女でな。人の忠告なんて聞く耳を持たない」
「うわ、こんな真正面から貶されたの初めてだよ」
「それはそれでいい。そういう所が魅力だからな」

微笑んで狡噛がそう言うと、名前は瞳を見開いた。そしてすぐに、見定めるように目を細める。こんな風に好意を伝えられることに慣れていない。この男に限らず、刑事課ここにいる人間はどうしてこうも温かいのだろう。

「俺はそいつに死んでほしくない。だが生憎、常に側で守ってやれるほど暇じゃない」
「凄い我儘だね」
「貪欲なのは承知の上だ。それでも譲れないんでね・・・どうすればいい?」
「教えることなんてないよ。もう完璧に出来てるから」

名前は降参するように両手を上げて見せた。その答えに狡噛が怪訝そうな表情を浮かべると、彼女は一層笑みを深くした。それからゆっくりとベッドの端に腰掛けると、こちらに手を伸ばしてくる。意図が掴めずに無意識に少し身を引いたが、名前は躊躇うことなく狡噛の唇に触れた。

「言葉、だよ。呑まれそうになった時に聞こえてくる。死ぬなとか、笑っていろとか。それが私を繋ぎ止めてくれるの。また一つ、楔が増えちゃったか」

噛み締めるように語りながら、カサついた唇を端から端までなぞる。そしてそっと手を放し、どこか嬉しそうに目を細めた。狡噛の胸には、また狂気じみた望みが湧いてくる────いっそ身動き出来ないくらい多くの言葉を吐いてしまいたい。そんな衝動を誤魔化すように笑い、視線を落とした。いつか離れるその時が来ても、その楔が千切れることのないように、今だけはらしくない祈りを捧げてもいいだろうか。

−−fin.−−


匿名様へ
企画へのご参加ありがとうございました!お題の"もやもや"が壮大になってしまった感じがしますが、とても楽しく執筆させていただきました。たまには狡噛さん優勢でもいいと思います。本編ではヒロインにコロコロされてばかりでしたから(笑)個人的には糖度マシマシにしたつもりです。私肺は甘さよりシリアス重視な話なので、どうしてもこうなってしまう〜😅ご満足いただけているといいのですが・・・。あと、狡噛さんと絡ませるのが好きなので、赤井さんがめっちゃ出張ってますがお許しを。
簡単ですが、お礼とさせていただきます。これからもチラッと覗いてくださると嬉しいです。この度は本当にありがとうございました✨

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