1. 「名前!!!」

    返事なんて、あるわけないと思っていた。手を伸ばしているのは私だけだと思っていたのに、聞き慣れた声が私の名前を叫んでいる。もう一度その手を取って、一緒に生きていきたいと思う。

    だけど、そう伝える余裕も時間もなかった。男達は笑みを浮かべながら一直線に私に向かって来る。纏っている浅葱色の羽織には見覚えがあった。よく知っている試衛館の面々が市中を見廻るときに身に付けていたものと同じ。目を合わせないように、いつも陰から見ていただけだったけれど間違いない。あれは新選組の隊服。

    こいつらは一体なに?人間…なのだろうか?尋常じゃない速さのはずなのに不思議と目で追えるくらい遅く見える。身体を震わせ、声も出せないでいると、一人が刀を振りかざし飛びかかってくる。『生きてやる』と誓ったさっきの威勢は何処へやら、身体が全く動かない。
    斬られると思った刹那に腕を引かれ抱きとめられる。その反動で胸元に入れていた小刀が落ちたが、気にしている暇はない。

    たった今まで自分が立っていた場所に刀が振り下ろされるのを見ながら感じたのは、二度と触れることはないはずだった温もり。安心する匂い。華奢なのに強くて、何度も抱き締めてくれた腕の感触。誰だか分からないわけがない。心が、身体が、私の全てが覚えている。

    「総司」

    自分の声があまりに弱気で情けなくなる。自分がこんなに弱いと初めて痛感した。溢れそうになる涙を堪えながら声に出して名を呼べば、抱き締める腕の力が強くなった。

    「よりによって、この子に手を出すなんて命知らずだね」

    総司らしい無邪気な口調なのに、その端々に殺意が滲んでいる。左腕で私を支えながら、右手で握った刀の切っ先は敵から狙いを逸らそうとしない。その目はあの燃えるような瞳で相手を捉えている。
    もはや人とは思えぬ呻き声を上げながら男達が距離を詰めてきたそのとき、

    「う…がはっ!」

    すでに返り血で汚れていた私の頬を生温かい血が濡らす。目を、耳を、疑う。頬に伝うのは紛れもない総司の血。対峙している男達に斬られたわけではないのに、その口元は血で染まっている。
    なに?どうして?頭から冷水を浴びたあとみたいに胸がすっと冷えていく。幻覚でも見ているに違いないと思いたかった。でも、その血の暖かさは現実のもの。横顔は苦しそうに歪み、吐く息は荒い。渇いた咳をしながらも総司は構えを解かない。

    考えている暇などなかった。血を寄越せと吠えながら、容赦のない斬撃を繰り出してくる。刃と刃がぶつかる。総司の身体を伝って感じる衝撃は凄まじい。
    数年会っていなかったから断言はできないけれど、普段の総司なら遅れは取らないだろう。兄弟子達を一瞬で下したあの剣技なら。近藤さんの為に、私と別れてからも稽古は怠らなかったはずだ。その腕前はあの頃の比ではないことは容易に想像できる。そういう人だと痛いほど知っている。総司は、強い。

    だけど、今は"いつもの総司"ではない。かなりの量の血を吐いたのだ、闘わせるわけにはいかない。このままでは、二人まとめて殺されてしまう。それは、それだけは、嫌だ。総司を目の前で失えば私には何も残らない。今の私には譲れないものは貴方だけ。今度こそ一緒に生きたいと、そう思う。だから、絶対に守ってみせる。

    体制を崩した隙を相手は見逃さない。今が好機と向かってくる。全身に力を込め、総司の身体を右に押し込む。予期せぬ行動にその身は倒れ込み、左腕から私の身体は解放される。

    「っ!」

    咄嗟に受け身を取った総司が息を呑むのが分かる。まずは、一人。その首に刀を突き刺せば血飛沫が舞う。後ずさる男から刃を抜き、もう一人と対峙すると力の限り打ち込んでくる。両腕で刀を握っていたのに、一太刀食らっただけで後ろに飛ばされ、ふらつく。

    「名前、動くんじゃねえぞ!」

    急に名前を呼ばれて一瞬硬直したが、よく知っているその声に脱力しそうになる。その怒号で男は土方さんに狙いを変え突進していく。

    今のうちに総司を安全なところへ。駆け寄って、未だ苦しそうな呼吸音に生きた心地がしなかった。泣きそうになるのを堪えて、名前を呼ぼうと口を開くが、その視線は私の背後に注がれている。
    振り向けば、赤い瞳。その顔は、ついさっき私が斬った男だ。羽織に血が付いているのに首には傷がない。

    『殺せ、守るために』

    頭の中で声がする。首の傷はどうしたとか、怖いとか、どうでもいい。本当だったら今頃は地獄にいたはずだった。でも、生かされた命。兄を殺した相手に礼なんて口が裂けても言いたくないけれど、総司に会えた。

    手を繋いで隣にいたいと願う自分と、守れるのなら死んでもいいと思う自分が混ざり合う。心がぐちゃぐちゃだ。

    総司が私を呼んで必死に立ち上がろうとするのを、相手が待ってくれる訳もない。
    刀を握り直し大きく右に逸れてから、敵の左胸-心臓-目掛けて突きを繰り出す。総司の得意な型。無明剣-三段突き-はとても無理だけれど一度なら私でもできる。
    刃が肉に食い込む感触を確かめて、そして思い切り押し込めば、男は獣のような呻き声を漏らした。今度こそ、死んだはず。短く息を吐く。

    直後、視界一杯に広がったのは夜空。理解が追いつかない。次に感じたのは浮遊感。私の身体は宙に浮いていた。そこで初めて、投げ飛ばされたのだと分かる。そして、同時にこの後自分がどうなるのかも。身体は地面ではなく轟々と流れる濁流へと落ちていく。

    一瞬の出来事のはずなのに総司の顔がはっきり見えた。驚愕。恐怖。絶望。暗い言葉ばかりをその顔に浮かべながらも、手を伸ばしてくれる愛しい人。
    それを見て"死んでもいいと思える瞬間"は今ではないと強く感じた。

    ずっと傍にいたのに伝えていないことがある。だから死ねない。今度は私に約束させてほしい。絶対に逢いにいくから、待っていて。そう願いながら、笑った。

    「(ごめんね。次は私が名前を呼ぶから、気づいてくれるまで呼び続けるから。だから、またね)」
 - 表紙 -