- ※沖田目線です。
僕は、弱い。そう思ったのは何年振りだろう。九つの頃に兄弟子達から折檻を受けたとき以来かもしれない。
僕にできることなんて、ほんの一握りだって分かっていた。近藤さんの為に強くなることが僕の全て。そう胸を張って言えるように名前と離れることを選んだ。傍に置いて、選択を迫られるのが怖かった。近藤さんか、名前か。そんなの、選べる訳ないのに。君はもしかしたら僕が近藤さんだけを選ぶことを願っていたのかもしれない。そうすれば、僕と君を繋ぐものは無くなって、今頃どこかの誰かと幸せになれていたのかな。
否、きっと結果は変わらない。大事な人を奪われたのに、全て忘れて安穏と生きることを選ぶような子じゃない。それに、誰かの血で塗れた手で幸せを求めることも絶対にしない。僕との約束があってもなくても、あの子が復讐に駆られ死を選ぶことは決まっていた。
名前は大切な人相手だと僕以上に不器用だった。でも、いつも誰かの為に怒って、泣いて、笑う。
自分は幸せになろうとしないくせに、何倍も汚れている僕の手を握って、幸せを願ってくれる。何一つ疑問なんて抱かずに。
僕も、そうだ。何があっても君の幸せを祈り続ける。約束なんかしないで手を握っているべきだった。大事なものを全部守れるくらい強くなる努力をすればよかった。
あのとき最善だと思っていた選択は最悪で、後悔ばかりが浮かんでくる。結局、守るどころか守られて、想いの一つも伝えられないのか。
身体が重い。喀血したせいで呼吸すら上手く出来ない。その間にも名前の体は抗うことなく落ちていく。なんで、動かない。今走らないでいつ走るんだ。死に物狂いで手を伸ばし、喉が潰れるくらいに叫ぶ。
「名前!!名前っ、」
我が目を疑う。名前は笑った、僕の絶望を掻き消すくらい優しく。その姿が暗い濁流に飲み込まれる。
川沿いにある役立たずの柵を乗り越えて飛び込もうとしたのに、体が動かない。背後から羽交い締めにされて、引き戻される。振り向けば、見慣れた浅葱色と聞き慣れた大嫌いな声。
「総司!馬鹿野郎、やめろ!!」
「っ、放せよ!ぐっ、」
腹に衝撃が走って、意識を失う直前に見たのは刀の柄。土方さんの刀じゃない、一君の…。
目を閉じたくないのに、視界が暗くなる。頭の奥で名前の声がした。いつも言葉になんかしないのに、泣きそうな顔をしてあの子が吐いた弱音。
−−強くなりたい。空っぽな自分を受け入れて全部諦められたら、その方がずっと楽なのにね。
僕はなんて答えたんだっけ。重みのない言葉で返したかもしれない。今だったら、どんな言葉を贈るかな。
決して空っぽなんかじゃない。空っぽだったら僕は君に惹かれたりしなかった。最初に惹きつけられたのは強い心。幼い頃の僕には無かったものだったから、とても眩しく見えたんだ。
好きだという事実しか伝えたことがないから驚くかもしれない。
初めて出会った日。たとえ一対一の試合で下しても、一度に三人倒すほどの力量はあの頃の僕には無かった。兄弟子達は自慢の悪知恵を発揮して、普通にしていれば見えないような所を狙って木刀で叩かれたのを覚えてる。
悔しくて、心だけでも負けないようにと顔を上げたとき、初めて名前を見た。また、近所の人達みたいに『可哀想だな』って顔で背を向けられると思ったのに、去っていくどころかたった一人で打ち負かす君から目が離せなかった。
僕には剣があったから、心は負けなかった。でも君は、心だけで負かして見せた。女の子とは思えない言葉を吐いて、笑った顔を今も覚えている。
あの時から、きっと、ずっと好きだった。だから、名前にも自分自身を好きになってほしいと思っている。でもそれは、凄く難しいことだってよく知ってる。僕も自分が嫌いだったから。誰かに認められて初めて自分を受け入れられる。それなら、近藤さんが僕にしてくれたように僕が君の"誰か"になる。だからどうか、どうか自分を否定しないでほしい。
−−−−−
どのくらい眠っていただろう。ダン!という畳に何かを叩きつける音で瞼を少し開けば、見慣れた天井。どうやら屯所の自室らしい。
「じゃあ何か、総司は目の前で惚れた女を亡くしたってことかよ!」
左之さんの声だ。また新八さんか平助と喧嘩でもしたのかな。なんて呑気な考えはすぐに吹き飛んだ。
誰が何を亡くしたって?その言葉の意味を反芻して、意識が覚醒する。そして、恐らく数刻ほど前になる光景が蘇って絶望感が心を覆う。
「あの急流では生存の見込みは低いだろう。副長の制止がなければ、総司は飛び込んでいた」
「分かってるよ、んなことは!だけどよ、理屈じゃねえだろうが…」
ああ、夢じゃない。名前が、いない。どこにも、いない。なのに僕はどうして生きてるんだろう。名前は今もあの冷たい水の中にいるのかな。哀しくて、苦しいはずなのに心は不思議と凪いでいる。
一君の主張は正しい。でも、左之さんもきっと正しい。当事者だからこそ、そう思う。理屈じゃない。
「……あの子、笑ったんですよ」
そう呟いて身を起こすと、皆が目を丸くしたのが何だか面白い。一番近くにいた平助と千鶴ちゃんが慌てて支えようとするのを手で制する。一君の一撃を食らった所為で痛む腹をさすっていたら、土方さんに小さく名前を呼ばれる。
「総司お前、記憶がねえわけじゃないだろうな?」
「確かに僕は山南さんみたいに学がある方じゃないですけど、鶏じゃあるまいし数刻前の出来事くらい覚えてますよ」
「…お前が気を失って運ばれてから半日以上経ってる。幹部連中が揃ったから事の顛末を話していたところだ」
半日以上。外が明るいのだから当たり前か。そんな事にも気付かないなんて、自分が思っているよりも心労が重なっているらしい。
自嘲的に笑えば、肩に手を置かれる。近藤さんの手だ。尊敬してやまない温もりに少しだけ安心した。
「名前の遺体は見つかっていないですよね?」
僕の問いに全員が息を呑む。優しい近藤さんが言い淀むのを見かねて一君が口を開いた。
「ああ。夜が明けてから俺と左之、新八の隊で捜索したが見つかっていない。そのような報告もない」
「おい、総司。変な気を起こすなよ。お前にはまだ働いてもらわなきゃいけねえからな」
「あははは、まさか!土方さんは僕が身投げでもすると思っているんですか?しませんよ、そんなこと」
そんなつもりはない。近藤さんがいるのに、役に立てるのに死を選ぶなんて。笑い飛ばした僕を見る皆の顔は複雑そう。空元気に見えてるのかな。
確かに江戸を発ってからは、名前との約束が僕を支えていた。約束が叶うことはもうないかもしれない。でも、立ち止まっていたら近藤さんに置いて行かれてしまう。それなら僕は進む。哀しくても、苦しくても、名前がいなくても。
「再会を切望するのは愚かだと思いますか?だけど、生憎物分かりは悪いんですよ、僕は。あの子の死をすぐに受け入れられるほど良い子じゃない。せめて、この目で見るまでは名前が生きていることを信じます」
皆の反応は色々だった。土方さんと一君は何も言わなかったし、山南さんは目を細めただけ。平助と新八さんは『俺も信じる』なんて言っていたけれど、左之さんは最後まで割り切れないみたいで。近藤さんが寂しそうに笑うのが、少しだけ胸を重くした。
そのあと、土方さんから渡されたのは名前の小刀。羅刹から守る為に腕を引いたときに、あの子が落としたものだ。その羅刹を斬った誠志郎さんの刀は見つからなかった。たぶん今頃は水の中だろう。名前はあまり両親の話をしたがらなかったけれど、二人とも川に流されて亡くなったと聞いた。誠志郎さんは両親を尊敬していたから、同じ場所に逝けていたらいいな。
聞いた話だと、あの夜すぐ側にあった家屋の中から男女の死体が見つかったらしい。見つけたのは一君だったみたいだけれど。
『女の方は布団に寝かされていたが、外傷はなかった。問題は男の方だな。首に傷があった。そして、どういうわけだかその仏、笑っていやがった。羅刹に襲われたにしちゃ不自然だ。左腕に刀傷があったことからも誠志郎さんの仇はその男と見て間違いないだろう』
首に傷。土方さんは明言しなかったけれど、羅刹に襲われる前に事切れていたとしたら、手を下したのは恐らく名前だ。でも、笑っていたのはどうしてだろう。死を享受していたということだろうか。何にせよ、名前から誠志郎さんを奪って、復讐に手を染めさせた奴だ。その死を悼むことはない。
「(あの子を奈落に落としておきながら笑って死ねるなんて…斬り刻んでおけば良かった)」
そいつらの死体は回収して調べると言っていたし、他にも何か分かるかもしれない。でも、たとえ何が明らかになっても名前は戻らない。
−−−−−
当てもなくふらふらと街を歩いて、気づいたらあの場所にいた。思い出すのはあの夜のこと。抱きとめた感触、僕の名前を呼ぶ震えた声、川底へと落ちていく姿。どれも哀しくなる記憶なのに、それが君との最後なのが苦しい。
救われてばかりだった。世間からしたら僕よりもずっと弱い君に幾度となく救われた。名前が羅刹を斬ったとき、初めて会った日に兄弟子達を負かした姿と確かに重なった。『ありがとう』すら言えない。与えられるだけで、僕は何か返せていたのかな。思い返すと自分のことばかりだった気がしてくる。
流れ続ける川をぼんやり眺める。今日の空は雲一つない。名前の骸が見つかったらきっと正気ではいられない。この空の下、どこかで君が生きているという一縷の望みが僕を現に繋ぎ止める。
僕は、生きる。たとえ名前が隣にいなくても精一杯生き抜いて見せる。この身体が朽ちていこうが、人を捨て鬼になろうが、どんな地獄だろうが走り抜く。
だから、一つだけ願ってもいいかな。他には何もいらないから、全てが終わったその先で君に逢いたい。名前を呼んで、抱き締めてほしい。そうしたら、二度と手を離したりしない。ずっと、永遠に隣にいる。
「きっとまた逢えるから哀しくなんてないよ」