1. ※病気に関する記述があります。筆者は医術の知識があるわけではないので、誤記等があるかもしれません。以上、踏まえた上でお読みください。


    一君を見送ってから数刻後には凪屋を出た。店主には郷里に帰ると伝えたが、急な申し出に嫌な顔ひとつせず『寂しくなるな』と残念がってくれた。それを見て私一人いなくなったところで何も変わらないのだなと捻くれた性分が顔を出す。本当に可愛くない。

    −−悪い子なんかじゃないさ。名前はいつも俺の代わりに怒って泣いてくれる、自慢の妹だ。

    いつか兄に言われた。あれはそう、幼い頃に両親を罵倒したとき。後になってから怖くなって泣き出した私に兄はそう言った。

    なぜ今になって思い出すのだろう。ひとつまみだけ残っている"自慢の妹"が止めようとする。あの兄が復讐など望むはずないことは分かっていた。それでも憎まずにはいられなかった弱い自分。夢も、信念も、才能も、何一つ持っていなかった。大切な人達にすら羨望を抱いて、そんな自分が昔から嫌いで、やっと手にした唯一は汚くて醜い。

    日が沈みかけている。暗くなるまでもう少し。道行く人々は皆楽しそうに見えて足を止めそうになる。帰る場所はない。未練もない。成し遂げたら生き続けるつもりもない。だからすれ違う人達を羨むことはない。

    「(総司はもう、一君から聞かされたかな。怒ってるかな、まさか泣いてはいないだろうけど……どうか幸せになってほしい。笑っていてほしい。もし他の誰かと一緒だったら少しだけ嫌だな)」

    橋の上に立って、空を見上げれば雨が止んでいる。総司を想うと私でも優しくなれるから不思議だ。振り返りそうになったけれど、轟々と川が流れる音に背中を押されて歩き出す。兄の刀を握り締めながら目的地へ。

    −−−−−

    いよいよ、仇が討てる。天誅を下すときがやっと巡ってきた。早足で歩きながらも呼吸を乱さぬように進む。そして、前に立ったと同時に戸が開いてはっとする。戸の近くに気配はなかったはずなのに。身を硬くして距離を取る。

    「君は確か凪屋の…、どうしてここが?」
    「店主に聞きました。遅くにすみません。近くを通ったのでご挨拶を−−、」

    顔を上げて狼狽する。これが、兄を殺した男か?頬はこけ、無精髭を生やしたその姿はまるで別人。だけど、あの左腕の傷は健在だ。それだけであの真っ赤な景色が蘇る。真っ直ぐに目を合わせ尋ねた。

    「ひとつ、聞いてもいいですか?その傷のことです。左腕の、その傷です」

    虚な目が一瞬大きくなって、また戻る。悟ったような目を見て身体が熱くなるのを感じる。その憎悪を忘れないように何度も口ずさんだ。憎い。殺してやる。差し違えてでもこの手で、こいつを斬る。

    「ああ…そうか。君が幕を引いてくれるのか」

    どうして?何故そんな風に笑う?その顔は兄の、あの笑顔によく似ていた。『仕方ないな』と笑う顔。それを見て、今まで張り詰めていた糸のようなものが自分の中で切れた。

    「ふざけんな!お前がっ…お前なんかが、そんな風に笑うな!返して、兄さんを返してよ!」

    刀を抜き、構えて叫ぶ。涙で視界が滲んでいく。近藤さんに教えられた通りに身体全体で刀を振りかざす。

    「(怒られるだろうな。でも、叱ってほしい。許さないでほしい。貴方に教わった剣で私は人を斬る。本当に…ごめんなさい)」

    狙うのは首。落とせずとも失血が多ければ人は死ぬ。一撃で仕留められないのなら、少しでも長く痛みを。
    口からまろび出る音は、もはや言葉ではなく咆哮だった。大きく右上から左下へ振り下ろす。ザッ、と力の限りを込めたのに容易く左腕で刀を鷲掴みにされ、男の掌から血が滴る。止められた。さっと胸元の小刀を左手で取り出し、逆から刺そうとすれば今度は手首を掴まれる。

    「女の子なのに速いな。そこらの浪人じゃ仕留められていたよ。この傷を付けた彼は君の兄さんだったのか」

    両手が塞がった。だけど、それは相手も同じ。強く握られたことで左手から取り落とした小刀を足で踏まれ、野犬が威嚇するように唇から息が漏れる。

    そして、左手を解放されて目の前に腕をかざされる。訳が分からず凝視すれば、その腕には発疹のようなものが出ている。なんだ、なにがしたい?

    「らい病。知っているかい?感染症の一種で、こんなふうに皮膚症状が進行して最後には神経が死ぬ。薬はなくてね、今の医術じゃ治療はできない」
    「…だから、なに?それなら人を殺してもいいって、そう言いたいの?」

    病気の人なんて沢山いる。こいつだけじゃない。それが兄を殺していい理由になるわけがない。

    「私の妻もこの病気でね。つい今しがた死んだよ。目も見えなくなって、精神を病んでしまった。最期は私の事すら分からないくらいに。この病は症状が見てとれるから忌避されやすい。街のはずれに処を移したのは、その為だ」

    何故、惑うの?どうして、可哀想だなんて思うの?確かに、この人は不幸だったのかもしれない。大切な人の病を治す薬もなくて、見ているしかできないなんて。私には想像もつかない苦しみだろう。だけど、だからといって許すことはできない。大事な人を奪われて、『奥さんの為なら仕方ないですね』なんて言えるものか。

    「少しでも金が欲しかったんだよ。彼女を生かす為に君の兄さんを斬った。いつか天罰が下るだろうことは分かっていたさ。神なんて信じていないけれどね。だから、命乞いをするつもりはないよ。ただ知っていてほしかっただけだ」
    「ふざけないで!潔いとでも言うつもり?」

    そう唱えながら、震える手に気付かないふりをした。この人も私も大切な人を想う心は同じなのに、何故兄だけが殺されねばならなかったのか。答えなどない。

    でも引くわけにはいかないのだ。一番大切な人の傍を離れてまで、成し遂げようとした復讐。いまさら躊躇するなど愚の骨頂。

    「…君は、優しいのだろうね。私を斬ることを躊躇っている。大丈夫、君に人斬りの汚名は着せない。手を下すのは君であって君ではない」

    拘束されていた刀の刃が男の首に導かれる。手を下すのは私であって私じゃない、その意味を反芻する。何をしようとしているのか分かって必死に刀を引くけれど、もう遅い。

    「すまない、君を狂わせたのは私だ。この命で償おう。だけど、どうか君は生きてほしい。愚かな男の最後の願いだ。本当に…すまなかったね」

    その刹那、矛先が男の首に食い込んだ。皮膚を裂き、肉を抉る感触が刀から伝わる。血飛沫が頬を濡らす。男は血を吐きながら笑っていた。
    さっきまで心に渦巻いていた憎悪が絶望に変わる。倒れた男の首から血が流れ出る。その赤は、兄が死んだあの日と同じ。腹の底から何かが込み上げてきて口を覆って崩れ落ちた。

    「うぐ…っ、はっはっ……」

    必死に吐き出すのを堪えて息を整える。溢れた涙が膝に落ちて着物を濡らす。身体の震えが止まらない。自らの身体を抱きしめるように蹲った。直接手を下したわけではないのに、この様か。規則的な呼吸を意識して大きく息を吸う。

    終わった。仇は死んだ。だけど、望んだ結末ではなかった。虚しい。心から殺したかった男が死んだのに、幸福を得るどころか胸に穴が空いたみたいだ。身体を起こして、呆然と宙を見つめる。

    どれくらい経っただろう。ふと部屋の奥を見れば、男の妻が眠っている。『一緒に死ねて良かったね』なんて絶対に言うものか。悔しくて嗚咽が漏れる。私の迷いを見透かされていた。憎くてたまらなかった相手に心を救われるなんて。生きてほしいと言ったその顔はやっぱり兄に似ていて、それが尚更遣る瀬無い。

    「殺せなかった…っ、それだけじゃない。なんで今更死にたくないなんて思うのよ、この臆病者が!腹切って死になさいよ意気地なし!」

    吐き捨てたのは自分に宛てた言葉。優しいんじゃない、臆病なだけ。死に急いだはずなのに、また死に損なった。乾いた笑いが漏れる。深呼吸をして、両足に力を込めて立ち上がる。

    どこに行くか、なんて決まっていない。けれど自分の気持ちは自分が一番分かっている。生きても良いのだろうか。そう問いかけても返事なんてある訳ない。今度は腹を抱えて泣きながら笑った。生きてやる。せめてもう一度死んでもいいと思える瞬間まで。

    −−−−−

    立ち上がったはいいが、身体だけではなく精神的にもかなり疲弊している。夜のうちに街を出なければいけないのに。顔見知りがいる街に返り血塗れで舞い戻ればどうなるかは流石に分かる。

    刀を杖代わりにして外に出る。人影は見えない。ここら一帯は空き家が多いと聞く。私の咆哮を聞いてやって来る人もいない。身体を引きずるようにして、歩を進める。川を覗けば相変わらず轟々と音を立てていた。
    轟々、轟々、ごうごう……

    「ううぅぅぅ…」

    違う。川の流れる音ではない。なんだ?犬?辺りを見渡して気配を探る。いた。先程まで誰もいなかった場所に何かいる。犬ではない、人間だ。しかも二人。形は人間なのに、月明かりに照らされたその姿は異様だった。白い髪に赤い瞳。悲鳴をあげそうになったが、なんとか堪えて口を噤む。

    「血…、ちぃ…」

    そう呟きながら、さっきまで私がいた家に吸い込まれるように入っていく。できるだけ音を立てないように戻って中を覗けば、悍しい光景が見えた。血を、啜っている。否、貪っているように見えた。
    ここに居てはいけないと本能が叫んでいる。逃げることばかりに気を取られて立ててしまった音を聞き逃してほしかった。
    血で染まった二つの顔が此方を振り向く。生きようと誓った途端にこれか。足がすくむ。また泣きそうになる。普通の娘だった自分が懐かしい。大嫌いだったあの頃の自分に戻りたい。総司の隣にいられた、あの頃に。

    「…そう、じ」

    申し訳程度に構えた刀が震える。零れたのは何度も呼んだ名前。その手を自分から放したくせに無意識に求めるなんて呆れられるかもしれない。

    −−名前は我儘だね。でもいいよ、聞いてあげる。

    いや、きっとそう言って隣に座ってくれる。自惚れかもしれないけれど私の知っている総司ならきっと。
 - 表紙 -